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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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ロバート・キャパの新たな疑惑

ニューヨーク・タイムズのART&DESIGN欄に“New Doubts Raised Over Famous War Photo”(8/17)の記事があった。ロバート・キャパの《兵士の死》のことだ。

ほぼ四分の三世紀後の今でも、スペイン戦争を撮ったロバート・キャパの写真《兵士の死》はもっとも有名な戦争写真であるとともに、多くの批評家がこの銃撃の瞬間を撮った写真はヤラセだと主張したことで、もっとも論争の種になった写真だ。さて、スペインの研究者(José Manuel Susperregui)が新しくだした本(“Shadows of Photography,”)で、《兵士の死》はキャパの崇拝者やその追従者たちが言い張るような時と場所と方法で撮られたものではないと主張している。


Susperreguiは、キャパが同じ場所で撮った写真の背景をE-mailを通じて探してもらったところ、Espejoに同じ風景があるとの返事があった。そこはキャパたちが通過した時期には戦闘は全くなかった。

キャパの《兵士の死》がヤラセであることはすでに明らかになっている。あれは報道カメラマンのために行われた模擬演習のときに、余ったフィルムで撮った「記念写真」だ。《兵士の死》の他にも、弾にあたって後ろに倒れる兵士を全く同じアングルで撮った写真が残っている。この写真はニューヨーク・タイムズにも載っている。

演習の場所が前線ではなかったと言われると、スナイパーに撃たれたといい。同じアングルで同じ場所で連続して二人が狙撃されたところを偶然に撮るなんてありえないといわれると、機関銃で撃たれたといったらしい。

キャパが積極的に嘘を言ったわけではない。かれは《兵士の死》がヤラセかどうか尋ねられると、いつもどちらともつかぬ曖昧な返事をしていたそうだ。

スペインにいっしょに行ったジロータローによれば、キャパは臆病であり、前線に出ることをおそれていたと証言している。模擬演習ではジロータローが積極的に兵士に頼んで「演出写真」をキャパに撮らせている。岩波書店から出ているキャパの写真集には大砲を撃つまねをしている兵士の写真が載っている。

キャパは《兵士の死》で文字通り名誉と金と女を手に入れた。だからキャパは本当のことが言えなかった。かれは《兵士の死》がヤラセではないことを証明するために、戦場で「兵士よりも前に出る」といわれる勇敢な報道カメラマンになった。そして《ノルマンディ上陸作戦》のような傑作を撮り、第一次インドシナ戦争を取材中に地雷を踏んで死んだ。

記事は、相変わらず真実は誰にもわからないといったロマンティックな物言いで終わっている。いいかげん《兵士の死》はフェイクだったと認めてあげてたほうが天国のキャパは喜ぶだろう。《兵士の死》がなくてもキャパは偉大な戦場写真家なのだ。
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2009.08.20[Thu] Post 00:03  CO:0  TB:0  写真  Top▲

写真家星野道夫

昨日、駅までニョウボを迎えに行こうと階下に降りてテレビをつけると、星野道夫のことをやっていた。

外出の支度をしながらチラチラと見ただけなので、番組内容はよく分からないのだが、「自然」や「人」という言葉がしきりに耳に入る。誰だからわからないのだが、本がいっぱい詰まった書棚に囲まれて、胡座をかいて、星野道夫のことをロマンティック(?)に語っている。なんだか変だなぁーと思ったけれど、支度ができたので、テレビのスイッチを切って、家を出た。

星野が熊に襲われて死んだとき、カメラ雑誌の編集者に、「ネイチャーフォトグラファーなら仕方がない」と言って、顰蹙を買った。今、ネットで検索してみると、星野が自然を甘く見ていた、事故は避けられた、いやそうではないミチオは自ら死を選んだのだ、というような不思議な論争が続いている。

私がテレビを見たときの違和感は、「写真家は被写体について語る特権があるのか」ということだ。もちろん見たものについて語る権利はある。しかし、写真家にとって見ることは写真に撮ることだ。写真にとれないものについて語るのは写真家の仕事ではない。すべては写真の中にある。

語る画家がいるように、語る写真家もいる。フォト・ジャーナリストはストーリーにぴったりの被写体を探す。それは写真ではなく、挿絵だからだ。現場にいたことの臨在証明だ。それは戦争でも自然でも環境でも同じ事だ。

星野道夫の事故のあと、書店に並べられた写真集を見た。どれも凡庸なネイチャーフォトのように見えた。そして通俗的な文学趣味の言葉がちりばめられていた。

戦争と政治を追いかけた長井健司も同じだ。かれもまたストーリーに従って傑作写真をものにしようと、戦乱の地を駆けめぐった。そして、ミャンマーでデモ隊に襲いかかる兵士(なんという紋切型)を撮影(shoot)しているところを撃ち殺された。

長井さんを英雄にし、星野さんの神話つくろうと知人や友人たちは語り継ぐ。しかし、長井さんはスクープ映像を撮ろうとして、ピューリッツァ賞の被写体になってしまい、星野さんは自然との交感を夢見ながら、その自然に食いちぎられて命をおとした。これは英雄譚でも神話でもない。もちろん悲劇でも喜劇でもない。メロドラマなのだ。


わたしは寡黙な写真家が好きである。本橋成一は数少ないそのひとりである。

2009.05.16[Sat] Post 03:10  CO:0  TB:0  写真  Top▲

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