ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

『1Q84』Book3 村上春樹

ネタバレあり

amazonで予約してあった『1Q84』のBook3が届いた。早速読んだ。

「青豆」と「天悟」に、新たに探偵の「牛河」が加わって章ごとに三人の視点が交替しながら進んで行く。予想通りハッピーエンドのメロドラマで終わるのだが、ホテルのスイートルームに泊まって月を見るとは、いくらなんでもサービス精神がなさすぎる。

読者はだれだって、小学生のとき手を握った青豆と天悟が二十年ぶりに再会して寝るんだから、どんな素晴らしいセックスをするか期待するだろうに、なんか手を握ってよろこんでいるとは、性交小説の大家が泣けてくる。それに、二人の子供がお腹にいるんだ。

カルトも過激派も戦闘的フェミニズムもほっぽり出して、青豆と天悟の愛が世界を救うのか。ひょっとしてこれはセカイ系かもしれない。それなら宇野常寛にまかせる。

ちゃんとした批評は後日。


スポンサーサイト
2010.04.17[Sat] Post 01:06  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『1Q84スタディーズ BOOK1』 JAY RUBIN 若草書房

小谷野敦の『村上春樹は私小説をかくべきである』を読むために購入した。小谷野氏の『ノルウェーの森』論は『反=文芸評論』をアマゾンで買って読んだ。小谷野氏による村上の「悪口」には異論もあるが、おおむね納得できる。

ほかの「村上本」を図書館で借りて、いくつかの村上春樹論を読んだけれど、なるほどと思ったのは内田樹のものだけだった。内田氏は村上文学の世界性は父が登場しないことだというのだが、たしかに村上文学のデタッチメントな感覚はそういうところから来ていると言える。しかし、その父の不在が否定神学的論理によってサブカル批評になる恐れもある。

『1Q84スタディーズ BOOK1』にもサブカル批評とおもわれるものがある。井桁貞義はロシア文学、なかんずくドストエフスキーと比較することで、また、酒井英行はフェミニズム批評を適用することで、「物語の構造」を見つけては、そこに作者の意図や主張を読みとるというまったくのサブカル批評の手法になっている。

もともと村上自身がドストエフスキー的テーマやフェミニストの視点を取り込んでいるのだから、それを見つけたと言っても何の自慢にもならない。村上はさまざまな人物がそれぞれの物語を持ち寄る「総合小説」を書きたいというのだが、『1Q84』はむしろシミュレーショニズム(椹木野衣)で書かれたサブカル文学で、リーダーと青豆の対決にしろ、シングル・バーのマンハントにしろ、パロディーというより出来の悪いギャグとしか思えない。

それに比べ小谷野敦は村上の寄せ集めた「物語」にはだまされない。小谷野は物語の表層にとどまる。構造を探らない。そして引用されたものではなく、引用されなかったものから村上を理解しようとする。小谷野は村上がファンタジー物語をシミュレイトすることで、自分のリアルな物語を隠しているのではないかと推測している。

そう言うわけで、小谷野は村上が自伝小説、私小説を書くべきだというのだ。

小谷野敦は天吾がふかえりのパジャマの匂いを嗅ぐ場面に触れているのだが、いかにもエエカッコシの村上春樹としては違和感があった。小谷野氏は田山花袋の『蒲団』に比しているのだが、これが村上の私小説的な側面なのかどうかは私にはわからない。でも、小谷野敦の言うとおりなのだろう。そうでなければ、この唐突な感じは理解できない。
2009.12.01[Tue] Post 16:40  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『海辺のカフカ』の罪と罰(3)

庄造は猫のリリーを、小泉被告は愛犬チロを愛していた。しかし、ナカタさんはゴマちゃんを特別愛していたわけではない。ただ、猫語が話せるナカタさんがアルバイトで猫探しをしていただけだ。

動物が言葉を話す寓話は良くあるけれど、それは動物の擬人化で、話すのは人間の言葉だ。ところが、ナカタさんが話すのは猫の言葉で、他の人間たちには理解できない。ということはナカタさんは人間とは別の世界に生きていることになる。ジョニー・ウォーカーを殺したあとは、ナカタさんは猫語を忘れてしまうのだから、16章はファンタジーの世界の出来事だ。

『海辺のカフカ』は、ジョニーを殺しナカタさんの無罪証明の物語になっている。ナカタさんはリザヴェーダを殺さなかったラスコーリニコフだ。

学生の頃『罪と罰』を読んで、どうも腑に落ちない点があった。ラスコーリニコフがリザヴェーダを巻き添えに殺してしまったことを悔やんで、いくらあくどいからといって金貸しのアリョーナを殺したことをあまり気に掛けていないことだった。それなら、リザヴェーダを殺さなかったら、この強盗殺人は許されるというのだろうか。記憶違いかもしれないが、少なくとも殺人の直後のラスコーリニコフの心境は、そうだったような気がする。そのあとは選ばれし者は、より高邁な社会正義を実現するためなら矮小な人間を殺してもよいという哲学は崩れ、女性によってキリスト教的な愛に目覚めるという、ちょっと甘いところがあるけれど、革命ではなく、宗教的な愛による救済のドラマが描かれている。

それに対して、ナカタさんの問題は、「猫を助けるために人を殺しても良いか」という正当防衛の問題だ。小泉毅被告なら当然正当防衛だと主張するだろうが、法律的には猫に正当防衛が適用されるのかどうかわからない。もし正当防衛だとしても、猫を助けるためにジョニー・ウォーカーを殺す必要はなかったとすれば過剰防衛になる。不思議なのはナカタがジョニー・ウォーカー殺しを少しも後悔していないことだ。

村上春樹はファンタジーと現実を境界をなくすことで、ナカタさんの罪と罰をうやむやにしている。

子供の頃の不思議な事件で記憶を失い読み書きも出来なくなったナカタさんには、いわば責任能力がない。動物のために人を殺したといっても、猫の言葉が話せるのだから、ナカタさんには同情できる。それにジョニー・ウォーカーは三味線を作るためではなく、音のでない笛を作ると言って、快楽のために猫を殺している悪魔だ。まだ動いている猫の心臓を口に含んで、ナカタさんの憎悪と恐怖をかき立てる。そして、自分はこの不条理な生を終わりにしたいのだが、自殺は許されていないから、代わりに殺してくれと嘱託殺人を懇願する。

助けた猫を飼い主に渡したあと、ナカタさんは交番に自首して出るけれど、相手にされない。ラスコーリニコフは老姉妹を殺したあとは罪を悔いて苦しむのだが、ナカタさんは人殺しをちっとも悔いていない。ただ、、田村カフカの家出の道程をたどるように、何ものかに導かれ、途中猫語のはなせる星野さんの案内で、目的地だったらしい四国の図書館に到着し、そこで田村カフカの母親らしい佐伯さんからノートを受け取りそれを焼却する。それがナカタさんの旅の目的だったのだが、その仕事を果たしたあと、ナカタさんは別の世界へ入り口である石の蓋のそばで死んでしまうのだ。

荒唐無稽と言うほかない。ここにはいかなるメタファーも謎もない。「16章」で提起されたナカタさんの「罪と罰」はファンタジーの世界の中で雲散霧消してしまうのだ。ナカタさんの物語に平行して村田カフカのエディプスの物語があるのだが、ジョニー・ウォーカーとカフカの父親が同一人物らしきことが暗示されているだけで、二つの物語がどんなつながりがあるのか一向にわからない。

つづく

2009.11.30[Mon] Post 20:46  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『海辺のカフカ』の罪と罰(2)

サブカル批評は「神なき否定神学」(実存主義)かどうかと言う問題はしばらくおいて、『海辺のカフカ』の16章問題を考える。

『猫と庄造と二人のおんな』の庄造は猫のリリーを溺愛しているのだが、その愛情は現妻と前妻の二人のおんなの嫉妬をとおして、しかも、最後には庄造はリリーに裏切られるというおまけまでついて、みごとに描かれているが、ナカタさんと猫の関係はただナカタさんが猫のことばを話せるといういうことで、猫探しのアルバイトにしているだけの関係だ。

16章まではナカタさんがどういう具合に頭が悪くなったかのいきさつが書いてあるが、とくに猫語が話せるようになった理由は書かれていない。庄造もリリーとは人間と同じようにコミュニケーションがとれるような気がすると言っているけれど、それはもちろん庄造の愛情深い観察とふれあいの結果である。しかし、言葉によるコミュニケーションには特別な愛情は必要ないし、ナカタさんと猫は世間話をするだけであり、助けたゴマちゃんにも「ゴマちゃん、家に帰ろう」と言うだけだ。

言葉が話せるのだからゴマちゃんとジョニー・ウォーカーは同じ人権をもっているともいえる。

元厚生次官らに対する連続殺傷事件の小泉毅被告(47)が法廷で要旨以下のように述べた。

 起訴事実はおおむね認めますが、あくまで無罪を主張します。それは、私が殺したのは、邪悪な心を持つ魔物であると、今でも確信しているからです。狂犬病予防の名の下に、毎日たくさんのペットが殺されています。そんなことができるのは、短絡的で身勝手で理不尽で無知で、邪悪な心を持った魔物だと思っています。

 人を殺していいのかというが、だからといって犬を殺してよいわけがない。世間は私のあだ討ちを批判するが、なぜ人の命だけが尊いのか、私に説明しなさい。毎日1000頭以上のペットが無駄に殺されている訳を私に説明しなさい。

 エゴで満たされている人間には、私のことは理解できない。以上。(産経ニュース11/26)

小泉被告は、犬を殺して良ければ、人を殺してもいいではないか、犬殺しは邪悪な心を持つ魔物だといっている。

さらに、小泉毅被告が弁護人を通じて報道陣に配布したメッセージでは、殺された愛犬チロへの愛が述べられている。以下に全文引用(文章は原文のまま)。


*     *     *                 

 私の事件の記事を起訴後、初めて読んでガク然とした。それは、記事の内容の半分はデマ(うそ)だったからだ。私が供述(話)していない事が多数、本人供述として記事になっている。警察がここまで悪意のあるデマをマスコミに流すとは想像していなかった。その中でも一番許せなかった事は、次の通りである。

 私の供述によると、チロが保健所で虐殺されたのは、父親が保健所に処分を依頼した為と書いてあるが、これは全くのデマである。
 チロは妹が散歩中に犬捕り(野犬狩り)に捕られたのだ!それで俺と親父は直に保健所へチロを迎えに行った。保健所には女の事ム員がいて、にこやかな顔で柳井で捕まえた犬は岩国へ連れて行くからここにはいない。犬は1週間は殺さない。今日は金曜日なので、月曜日に岩国へ迎えに行くようにと言った。それで、親父が、多分、月曜日に岩国へ迎えに行ったが、チロは既に虐殺されていたのだ!

 チロは首輪をしていたんだぞ!!!しかも、狂犬病の予防注射をした証のプレートなどを首輪に付けていたのに!なぜ、犬捕りはチロを捕まえた!なぜ、保健所は予防接種をしたチロを殺した! 絶対に許さない!!!

俺は厚生省(厚労省)の官僚どもを死んでも絶対に許さん!!!

死して屍が朽ち果てようとも絶対に許さん!!!

最後に、チロは茶色い犬ではない!真っ白い犬だ!!!

 2009年11月25日

小泉毅

*     *     *


もちろん小泉被告は正常な感覚を失っている。ひとつは、保健所の野犬対策の齟齬によって愛犬チロが虐殺された怒りを厚生省の権力のトップである次官への憎悪に転化したところは、ちょっとセカイ系っぽいところがあるけれど、何より小泉被告が病んでいるのは、生物界の階層的秩序の了解性が壊れていることだ。

植物霊魂があり、動物霊魂があり、そして人間の霊魂がある。動物霊魂でも昆虫と魚と哺乳類はことなる霊魂を持つ。哺乳類でもいろいろな魂がある。鯨には鯨の霊魂がある。その霊魂の階層的秩序が了解できなくなったのが小泉被告であり、シーシェパードやオーストラリア人なのだ。

いったい村上春樹はこの小泉被告のメッセージを読んでどう思うだろう。ナカタさんは猫と人間の魂の違いを理解しているのだろうか。

第三回につづく
2009.11.29[Sun] Post 00:42  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『海辺のカフカ』の罪と罰(1)

『海辺のカフカ』は奇妙な小説である。奇妙といっても褒めているわけではない。一つの殺人事件が別々の主人公の二つの殺人として描かれている。二人は接近するのだけで、交わることはない。ただ、二人がそれぞれ殺人現場から逃れるロードムービーになっている。

一人は十五歳の少年カフカで、父親殺しと近親相姦が暗示されるだけで、村上春樹調のメタファーらしき出来事が延々とつづく。もう一人のナカタさんは猫を救うためにジョニー・ウォーカーを殺す。自首するのだが相手にされず、そのあと何かに導かれてカフカ少年とおなじ高松の図書館に行く。途中からトラックの運転手ホシノさんといっしょに旅をする。こちらもいろいろと超常現象がおきるロード・ムービーだ。

全編を通じていろいろな「メタファー」らしき出来事がつぎつぎと起こるのだが、読んでいて一向に興味がわかない。唯一小説らしい箇所は、猫を救うためには人を殺す第16章だけだ。

ここでは猫の命と人の命を天秤に掛けなければならない。もちろん常識的には猫を殺すよりも人を殺す方が罪が重い。これがジレンマになるためにはナカタさんが猫のゴマを深く愛していなければならない。

ナカタさんは猫がかわいそうだとおもっているけれど、とくべつ愛しているわけではない。ただ、約束だからゴマを連れてかえりたいだけだ。ナカタさんは子供頃、事故で気をうしない、その後遺症で記憶をうしない、字が読めなくなる。そのかわりに猫と話ができるようになった。それで、近所の人に頼まれて行方不明になった猫を探すアルバイトをしている。

愛することで、猫の命を重くするかわりに、ジョニー・ウォーカーの命を軽くすることで釣り合いをとる。ジョニー・ウォーカーの猫殺しは、無償の行為だ。根拠のない悪だ。ジョニー・ウォーカーは三味線を作るために猫を殺すのではない。猫の魂で笛を作るというのだ。魂なんかで笛がつくれるわけがない。しかもその笛の音は聞こえない。なんのために猫を殺すのか分からない。

それだけでは済まない。猫を殺すのはただ「約束」だからだ。誰にも喜ばれないし、尊敬もされない。もう猫殺しには飽きた。疲れた。でも止めるわけにはいかない。自殺もできない。これも「決まり」だ。だから、どうぞ、私を殺してくれ。殺すのが恐ろしければ、わたしがナカタさんに恐怖と憎悪を与えよう。猫たちを目の前で残酷に殺してやろう。だから、私を恐怖と憎しみを持ってきっぱりと殺してもらいたい。

人を殺せば、あとになって悔やむだろう。でも心配はいらない。私は君に殺してくれと頼んでいるのだ。この猫殺しの苦しみから私を解放してくれと頼んでいるのだ。だから、良心の呵責をかんじる必要はない。

そして、ジョニー・ウォーカーは猫を殺す。心臓を切り取って口に含み満足の笑みを浮かべる。ジョニー・ウォーカーは言う。

「止めるなら今だよ、ナカタさん。止めるなら今だ。時間は過ぎ去っていくし、ジョニー・ウォーカーは躊躇しない。高名な猫殺しのジョニー・ウォーカーの辞書には『躊躇』という文字はないんだ」

ここで思い出すのは斎藤環の「『虚構』は『現実』である」(『VOICE+』)で、『羊たちの沈黙』のレクター博士の悪について述べた次の言葉だ。

私はこれまで、映画に現れた悪の造形として、『羊たちの沈黙』におけるレクター博士を最高のものと考えていた。完全な知性をもちながら、まったく内省を欠いた存在。彼の「悪」には根拠というものがない。それゆえハンニバル・レクターには「ためらい」が存在しない。これは言い換えるなら、「内省」と「根拠」 を欠いた存在は、その存在自体が「悪」にほかならない、という意味でもある。(強調安積)

ジョニー・ウォーカーは猫を殺すのは「約束」だと言いながら、約束の相手がだれなのか判らない。自殺ができないのは決まり(掟)といいながら、所属する共同体がわからない。というわけで、ジョニー・ウォーカーの猫殺しはレクター博士の悪と同じように根拠がない。

*     *     *

以上の文は、一ヶ月まえに書いたまま中断していたものだ。はじめは、『猫と庄造とナカタさん』というタイトルで、谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のおんな』と村上春樹の『海辺のカフカ』のそれぞれの主人公、庄造とナカタさんの猫への愛情を比較してみようと思った。というのも、ナカタさんは猫のために人を殺すのだから、猫に深い愛情がなければならない。

ところがそんな強い愛情はナカタさんにはない。ただ、子供の頃の事故のため猫の言葉が話せるようになっただけだ。ナカタさんは「無垢の白痴」であり、ジョニー・ウォーカーは「シジフォスの不条理」を生きている。

斎藤環はハンニバル・レクターの悪には根拠がない。いや、根拠がないことそのこと自体が悪だという。もちろん悪に根拠がなければ正義にも根拠はない。根拠がないことは悪でもありうるし、正義でもありうる。シェリングは神は無根拠だという。これは一種の否定神学であり、神は究極の根拠を超えた無根拠だという。そして否定神学は、神の似姿としての人間の自由の問題になる。人は善をなすことも悪をなすことできる自由な存在だ。

否定神学は、精神分析と史的唯物論に補強されてサルトルの実存主義になる。神はそうであることによってではなく、そうではないことによって直接知られると、否定神学はいう。そしてサルトルは、そうであるところのものである即自にたいし、人間存在である対自は、そうでないところのものであるという。

サルトルの実存主義は神なき否定神学であり、人間は自由に呪われていることになる。シェリングの人間も自由であるが神を認識できるかぎり、善と悪を区別することができるが、サルトルの神なき自由な人間は、ただ社会にあるいは世界にアンガジュマンするほかないのだ。

宇野常寛の「決断主義」はサルトルの「アンガジジュマン」の倫理に似ている。サルトルの人間学からマルクス主義をとり、精神分析を残して、日常生活のアンガジェを決断主義といっているように思える。『ゼロ年代の想像力』は全部読んではいないので、はっきりしたことは言えないが、宇野常寛や斎藤環のサブカル批評は「神なき否定神学」ではないかとうたがわれる。

そういうわけで、もうすこしサブカル批評を勉強することにして、次回につづきます。
2009.11.28[Sat] Post 01:48  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。