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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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写真はインデックス記号か?

 これは「バルト批判」のつもりで書きはじめたものだが、中途半端に終わってしまった。バルトは写真を記号学的に分析すると言いながら、記号学的修辞で飾り立てた古典的な図像学を開陳している。図像学は宗教画を主として対象にするのだが、彼の映像の修辞学と称するものは、宗教画の代わりに広告写真を対象にしたイコノグラフィーである。ご存知のように広告写真と宗教画は同じ目的をもっている。
       
      (ホームページ『絵画の現象学』より転載)

*  *  *

 写真の本質は「それはかってあった」だと、バルトはいう。写真は常に実在を示すが、絵は、ケンタウロスであろうが、リンゴであろうが、「それはかってあったもの」ではない。もちろん絵も、今そこに存在するがごときイルージョンを呼び起こすことはできるけれど、「それはかってあった」ものではない。ラスコーの洞窟画は、写真に負けない迫真性をもっているし、そこに描かれている野牛は、「かって存在していた」と考古学者は推測するだろう。しかし、その野牛は想像上の動物かもしれないし、たとえ存在したとしても、そこに描かれているとおりの、具体的な個体として、その野牛が存在したわけではない。図像の迫真性と対象の実在性とは別であり、絵は実在に達することはできない。
 絵は、それがどんなリアルな写生画でも、絵筆によって描かれたものであり、画家の想像力がしみ込んでいる。それにくらべ、写真はいわば指紋であり、いくらボケていても証拠になる。ネス湖の恐竜も空飛ぶ円盤も、そして雪男も、写真があるから実在するというわけだ。
 天使は写真に写らない。写真に写るのは眼にみえるこの世の事物だけである。したがって、すべての写真の被写体は存在する。これは写真である。ゆえにこの被写体は存在する。この三段論法によって、写真は魔術になる。たんなる描写のリアリズムを超えて、写真は、実在を付与する呪術的リアリズムとなる。
 写真は誕生したときから特権的な図像であった。たとえば、ダゲレオ・タイプは、鏡に写った像を、そのままガラス板に定着したように思えたし、また、写真を撮られると、自分の表皮が剥がされて、寿命が縮まると、おそれる者もいた。これは写真画像が、絵画とくらべてよりリアルで迫真的であったことはもちろんだが、それよりも、写真が機械的化学的操作で生み出されたからである。写真師が、まるで手品のように、暗箱から写真をとりだす。写真の魔力は、リアルな迫真的描写ばかりではなく、逆説的なことに、写真が反魔術的な科学的データだということから生じたといえる。
 記号論者のパースは、写真が絵画の仲間ではなく、足跡指紋の仲間だと考える。まず、記号をイコンとインデックスとシンボルの三つに分け、絵をイコン(図像)に、写真をインデックス(刻印)に、そして、言語をシンボルに分類する。インデックスとは対象と実在的連関のある記号のことである。写真は足跡のように直接の接触によって出来るわけではないが、事物に反射した光が、レンズを通しフィルム上に結んだ像を、銀化合物で写し撮ったものだから、写真は事物の薄膜を剥ぎ取った光のインデックスなのである。
 たしかに、写真の起源はインデックスである。ニエプスが世界ではじめて撮った窓外の風景は、影絵のように階調性に欠けていたし、同じ頃、イギリスのタルボットは、銀化合物を塗った紙の上に、直接、木の葉やレースをのせて、フォトグラムを作っていた。後にマン・レイが再発見するフォトグラムは、写真がイコンではなく、インデックスであることを示している。
 たしかに、写真が証拠になるのは、インデックスだからだ。しかし、それだけでは写真の魔力、不在のものを眼前に髣髴と呼び出す魔力を説明することはできない。もちろん、インデックスにも対象の姿かたちを示す図像性がある。砂浜に付いた足跡は左右凹凸が反転しているけれど、足に似ているし、紙に押した手形は、二次元だけれど白黒二階調の手の形をしている。しかし、どちらも写真の特徴である陰影濃淡の階調性はない。これはデスマスクを見れば、なおはっきりする。白い石膏のデスマスクは実物の大きさ凹凸を正確に再現しているけれど、それがいったい誰なのか、鼻や顎などの部分々々の特徴をくらべて、かろうじて推測できるだけで、まとまった一人の顔として認識するのは難しい。しかし、写真なら、誰だかすぐに分かる。ほくろも傷もある、一人の特徴ある人間の顔として記憶も出来る。写真には他のインデックスとは違う陰影濃淡があり、知覚されたものと同じ階調性がある。写真は、絵画がながいあいだ望んでいた、イリュージョニズムを実現したハイパー・リアルな図像である。写真はインデックスでもあるし、イコンでもあるのだ。
 写真の真理は二重である。一つは図像、すなわちイメージとしての真理であり、いっさいの前提なしに一枚の写真を眺めるときに現れる真理、写真のリアルで細密な再現表象の真理であり、被写体が、あたかもそこに存在するかのように現出していることである。もう一つは光学的化学的な真理、すなわちレンズの屈折や、感光乳剤の化学反応の真理であり、画家の手ではなく、まったく物理化学的な過程で作られた画像の客観性である。後者のインデックスの科学的真理は、本来は脱魔術的なもので、イコンの図像的魔力に反するのだけれど、化学がまだ魔法から抜けきらなかった時代に、写真を撮ったり、撮られたりする写真実践の繰り返しの中で、歴史的に沈殿した制度として、イコンとインデックスが一つに融合して写真の真理となったのである。
 バルトはこの写真の真理を「それはかってあった」だと言うのだが、それは自分の母の写真を見て、母を追慕しているのであり、バルトの母親を知らない者は、そこに過去を見るとはかぎらない。日常の生活では、写真はたいてい過去ではなく現在を示している。パスポートの顔写真は写真を撮った三ヶ月まえの顔ではなく、いま現在の顔だし、観光ポスターのエッフェル塔は、いまパリに立っているエッフェル塔である。もちろん写真に過去を見ることもある。たとえば、被写体の人物がすっかり変わり果てた姿をしていたり、写真そのものが古びたセピア色だったりすれば、「それはかってあった」という意識が伴うだろう。古いアルバムを見れば、まだ若い頃の自分や家族たちに出会うわけだし、また、その中の一枚の写真に没入するなら、過去意識は薄れ、その写真の中の〈今に〉生きることになる。写真の時間意識は、さまざまに変容するのであって、バルトがいうように、写真の本質が「それはかってあった」だとは一義的にいうことはできない。
 絵画をふくめた図像一般の時間構造は、基本的に今と過去と過去完了(場合によっては未来完了)である。たとえば、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」は、美術品としてルーブル美術館にいま展示されている。そこには過去の出来事があたかもいまそこで行われているかのごとく、迫真的に再現されているのだけれど、そこに描かれている〈出来事の過去〉の他に、絵画には、絵筆のタッチという別の種類の過去がある。恐竜の足跡が、恐竜の歩行の軌跡であるように、タッチは画家の手の動きの軌跡であり、画家の手の運動を記憶している。したがって、「ナポレオンの戴冠式」には、ダヴィッドが絵を描いた時間と戴冠式が行われた時間のふたつの過去があることになり、絵画のタッチは、いま、知覚されている絵の具という物質であり、この今の知覚対象を媒介にして過去が志向されているのだから、〈絵画制作の過去〉は現在完了であり、戴冠式そのものは絵画制作より前の過去、すなわち過去完了ということになる。
 ところが、写真にはこのタイム・ラグがない。もし、「ナポレオンの戴冠式」が写真なら、写真制作と戴冠式の時間は同時であり、シャッターが押された瞬間に、乳剤が感光し、戴冠式の画像が定着する。しかも、写真の表面には、絵筆のタッチのような、偶然的なものはなく、印画紙の表面はなめらかで、乳剤が感光した痕跡はどこにもない。したがって、写真の過去は単純過去であり、絵画のように過去が二重構造にはなっていない。
 写真の真理は二重であり、写真と絵画を分けるのは、写真が単純なイコンではなく、インデックスでもあったからだ。ところが時間構造の分析では、イコンであるはずの絵画にはインデックスの複合過去があり、インデックスであるはずの写真にはインデックスの複合過去がないという反対の結論に達した。いったい写真にインデックスの真理を認めたのは間違いではなかったのか。
 写真を含めた図像の時間性は複雑多岐にわたっており、図像には、知覚はもちろんのこと、想起や想像や記号意識などが複雑に絡みあい、個人的な写真経験だけではなく、百六十年の写真の歴史が沈殿している。純粋な視線などというものはないし、見ることを完全に純化することも出来ないけれど、写真の真理をしるために、まず、写真の特権を剥奪し、写真と絵を区別しないことである。写真とは、印画紙の表面に現れた図像のことであり、それ以外のもの、現像やプリントの過程、カメラの構造原理などは、いっさい根拠を持たない。あたかも写真をはじめて見た人間のように写真を見ること、ラスコーの洞窟の住人のように写真を見ることから始めなければならない。
 写真はインデックス記号ではない。幸いというべきか、コンピュータの画像処理の発達で、写真の証拠能力がなくなってきた。写真が証拠になるのではなく、写真のほうが、真理であるために、証拠が必要になったのだ。
 ゲルハルト・リヒターは、写真がインデックス記号ではなく、ただ、写真様式で描かれたイコン記号だということを示しているのだ。
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2013.01.30[Wed] Post 16:20  CO:0  TB:0  絵画の現象学  Top▲

『クレメント・グリーンバーグのコレクション』:工芸性について 


アマゾンで画集『clement greenberg a critic's collection』を見つけて購入した。かねてから、グリーンバーグがどんな作品を評価していたのか知りたいと思っていた。

有名なエピソードに、本来ならば彼が評価すべきステラを評価出来なかったのは、グリーバーグのモダニズム理論の限界だと、たとえばロザリンド・クラウスなどが批判したということがあった。私はステラの《ブラック・ペインティング》が知覚の優勢な、矩形の平たいリテラルな物体だと思っていたので、グリーンバーグのステラ評価は妥当なものだと思っていた。

ところが、この画集のグリーンバーグのコレクションを見ると、抽象表現主義ではなく、リテラルとまでは言わないけれど、知覚が優位な物体的な絵画が多い。

下のオリッツキーの作品は絵具が盛り上がって、工芸品の鎌倉彫のように見える。





               Jules Olitski's Noble Regard, 1989


他にも、Larry PoonsやDarryl Hughtoの絵具が盛り上がった作品や、Piero DorazioやDarryl Hughtoの工芸的な表面の作品がある。もちろん、イリュージョンが見える平面的な抽象画もコレクションされている。

画集を見ての最初の印象は失望である。グリーンバーグといえば抽象表現主義のペインタリーな作品を思い浮かべるが、コレクションはむしろポスト・ペインタリー・アブストラクションの作品が多い。

絵画の三層構造については『絵画の現象学第一章』()で既に述べた。絵画を見るということはキャンバス表面に線と絵具で描かれた図像客体の知覚に基づいて図像主題を想像することだ。ところが、彫刻は立体の像なので想像が働きにくく、知覚が優勢である。日常的な知覚空間、すなわち私の身体が所属する空間と同じ空間に彫刻は存在する。

それと同じように工芸もは知覚されており、その表面に描かれた装飾の絵も知覚された像客体が優位なのだ。例えば文箱に描かれた水仙は、何よりも知覚された像客体であり、想像された像主題は背景に退いている。

知覚は事物を見るということであり、したがって想像の場合のように空間のイリュージョンは見えない。事物の表面を知覚するということは立体ばかりではなく、表面が工芸的に処理されたキャンバス平面も事物の表面として知覚が優位になり、想像の働きは弱い。

そのような工芸的な表面をもった絵画は沢山ある。


公立美術館での企画展について: 『野田裕示展』と『松井冬子展』


桜井浜江


「工芸性」については以上の二つのブログを読めば十分だろう。表面が工芸品のような絵画は、抽象画であろうが具象画であろうが、想像より知覚が優位である。このような絵画は「知覚に基づく想像」という絵画が絵画であるための必要な条件を欠いていると言わなければならない。


2013.01.10[Thu] Post 00:44  CO:0  TB:0  絵画の現象学  Top▲

「両眼視差」と「首振り立体視」 【首振り立体視③】

【首振り立体視①】
【首振り立体視②】



知覚世界は三次元だ。これは両眼視差によるものだという。たしかに片目を閉じると遠近感は減少する。

両眼視差を利用したものにステレオ写真がある。ステレオ写真は立体的に見えるけれど、どこか薄ペラだ。ちょうど「ポップアップ絵本」のように、開くとキリンとか象が立ち上がる絵本だ。

それは、前後に重なった二つの対象の距離が比較的離れていて、左目と右目の写真で、重なり具合のズレがハッキリしているところが強調されるからだ。昔のステレオ写真はクラウスも指摘するように、ことさらにそういう景色を選んでステレオ写真を撮っている。

それなら、ステレオ写真と現実の知覚とどこが違うのか。ステレオ写真にはない知覚世界の生き生きとした空間感覚は何処から来るのか。いろいろあるだろうが、重要なのは身体性である。

ステレオ写真では我々の身体は、写真の図像世界の外にある。それに対して、知覚では、我々の身体は知覚世界の中に嵌めこまれている。だから、知覚では頭を動かすと今まで見えていたところが見えなくなり、見えなかったところが見えてくる。写真ではそうはならない。写真で知覚しているのは印画紙で、図像空間はイリュージョン空間なのだ。我々の身体空間と物理的図像(印画紙)の空間は連続だが、写真図像のイリュージョン空間とは切り離されている。

事物は射影をとして現出する。見る位置を移動すれば、今まで見えなかったところが見える。手を伸ばせばテーブルの灰皿に触れる。届かなければ、歩いて行って触ることができる。さまざまな運動感覚を伴って現れる射影を同一の事物の現れとして構成するのが知覚である。

両眼視差は空間的な視差だが、運動感覚による視差は時間的な視差だ。時間的視差は当然片目でも作用している。これは、映画と静止画を比べてみれば判る。動画も静止画も単眼視である。動画を見ているときは、われわれはカメラの視点になって、動画の世界の中に入っている。身体はカメラボディと合体している。だから、ハンドカメラが烈しく揺れると、我々は眩暈を起こし、時には嘔吐さえする。フライトシュミレーターでは運動感覚を与えるために動揺装置があり、訓練パイロットは映像世界をほとんど現実の知覚世界のごとく体験する。

ところが、突然、動画がとまったらどうだろう。観客は映画の世界から観客席に放り出され、スクリーンの矩形が現れ、画質が低下する。このことで判るように、キネステーゼは知覚でも動画でも作用している。知覚世界は空間的視差と時間的視差の両方によって生きた空間を生み出しているとひとまずは結論づけることができる。

ところがここで奇妙なことが起こる。単眼視の動画ではキネステーゼが働いて、映像が現実世界のように体験する(ヴァーチャル・リアリティ)のに、両眼視の立体動画では、現実感覚よりも、むしろステレオ写真のような錯視の感覚が強まる。『アバター』を見た観客の多くが気分が悪くなったのは当然である。

最後に写真を考えて見よう。写真には、両眼視差もキネステーゼもない。しかし、奥行きも立体感もある。三次元の空間がある。これが遠近法であり、遠くのものは小さく見えるとか、重なっているものは、隠している方が手前にあるとか、他にも、陰影法や明暗法などもある。

われわれは平面的な網膜像を三次元に変換するアルゴリズムを進化させてきた。そのための重要なデータが両眼視差や運動感覚(キネステーゼ)なのだが、それだけではなく、眼球のレンズのピントやボケを調節する筋肉の感覚や、あるいは、自然の風景や事物の形、大きさ、色などの経験もフィードバックされている。(注1)

画家は知覚世界を平面的に見ることによって、遠近法を学んだ。それを光学的にやったのが写真だ。だから、写真は三次元に見える。首を振ると、間違って知覚のアルゴリズムが作動することもある。手前の事物と後ろの事物がチラチラと反対の方向に動き、あたかも知覚しているが如き空間のイリュージョンが生じる。

東京都庭園美術館の『ロシア構成主義のまなざし』(01年5月)で見たロトチェンコの写真は、陰影がハッキリとしていることもあるのだろう、となりの作品に視線をうつすときに、首振り立体視がしきりと見えたけれど、写真も絵と同じ図像なのだから、条件がそろえば、首振り立体視が現れても不思議はない。

話が少し錯綜したが、たしかに対象(獲物)までの距離を測るのには両眼視差が一番有効だけれど、それだけでは、生きた空間を体験することはできない。ステレオ写真よりも一枚の写真の方がリアルだし、『アバター』よりも小津安二郎の『東京物語』に生きた空間がある。

我々は四つの空間を区別できる。知覚空間、錯視空間、絵画空間、想像空間の四つだ。四つは截然と分かれているわけではないけれど、すべての根源は知覚である。

この中で、絵画がいちばん誤解され、議論が混乱している。絵画意識は知覚に基づいた想像意識だ。文字意識も知覚に基づいている。両者とも、知覚されたものが知覚されていないものを意味している点で記号の仲間だ。ただ、絵は類似によって、文字は弁別的差異のシステムであり、学習によって指示対象を意味する。

そういうわけで、文字は、金釘流でも丸文字でも「りんご」は「りんご」を意味する。りんごの絵も、カラヴァッジョとセザンヌでは同じリンゴを意味する。アイコン記号(絵文字)ならたしかにそうだ。リンゴとブドウが区別出来れば済む。しかし、絵画はそうではない。如何に描かれているかが重要だ。カラバッジョのリンゴとセザンヌのリンゴは別のリンゴなのだ。

類似によって対象を意味する点では、絵文字も絵もおなじだが、絵文字は代用(stand for)だけれど、絵は代用ではない。絵文字は思い浮かべても同じ意味を指示するけれど、絵はシニフィアンではない。思い浮かべても絵画の十全な意味はあらわれない。現れるのは、カラバッジョのリンゴとセザンヌのリンゴの特徴だけだ。そういう意味では絵は記号性が弱いのだ。

小説を読んでいて、文字のことは忘れ、ストーリーを辿っていることに気づくことがあるだろう。われわれは文字をみているのではなく、意味を見ている。文字は透明な記号である。

それに対して、絵は意味の代用ではないから、絵を見続けなければならない。図像学というのは絵をデノテーションやコノテーションの意味に還元し、絵画をイラストレーションにしようという間違ったこころみだ。

文字意識も図像意識も、共に知覚したものを中和変容し、意味を志向する作用だ。文字意識は紙の上のインクのシミを超えて、意味を志向し、絵画は平面上の線や色を超えて、イリュージョンを見ている。ともに、知覚しているものの存在措定を宙ぶらりんにしている。

それなら、なぜ絵画は見続けなければならないのか。これは、写真と比べてみればよくわかる。写真は物理的図像、図像客体、そしてイリュージョンの図像主題を超えて、そのまま外部の被写体にまで一直線に志向する。もちろん印画紙や階調の具合、モデルの灰色の肌に注意を向けることができるが、それは無理矢理であって、結局は実在のモデルを見てしまう。写真は文字(言葉)と同じように透明なメディウムだ。

もちろん、古大家たちの再現的な絵画は、写真と同じように、外部の指示対象を直線的に志向する。絵画の三層構造を貫いて主題に達する。それにたいして、モダニズムの絵画は、物理的絵画や図像客体の層を隠そうとはしない。絵具やキャンバス表面の平面性がみえるのだ。

マチスに《赤い部屋》《Harmony in Red》という作品がある。壁紙とテーブルクロスが赤くて同じ花模様で、テーブルは壁と同じように垂直にキャンバス表面に重なって見える。左の窓から外の緑色の景色が見える。しかしこの景色も、橙色の窓枠が額縁の役割をして、まったくの風景画に見える。ということは、奥行きの深いはずの景色が、風景画になって、赤い壁とおなじ平面にせり上がってくる。

これは錯覚ではなく、図像客体と図像主題のあいだの弁証法的緊張関係だ。たとえば、テーブル・トップは大抵は水平だから、ひとまずは、水平に見える。しかし、テーブルクロスが壁紙とおなじ模様なので、テーブル・トップは壁紙と同じように垂直に見える。窓外の景色についても同じことが言える。

以上のことから二つの暫定的な結論を得ることができる。

1)絵画は、知覚に基づく想像なのだから、絵画の真理は、絵画を見ている時だけ現れる。俳句などの言葉の芸術は、頭の中で作れるが、絵画は頭の中で描くことはできない。

2)マチスの《Harmony in Red》のイリュージョンは、錯視ではなく、具象的対象のpictorial illusionである。オップアートのチラツキや、首振り立体視は錯視であって、マチスの絵画的イリュージョンとは区別しなければならない。優れた画家は、クレーにしてもマチスにしても、みんな、具象画に留まった。わたしはロスコも具象ではないかと思っている。

これで、ひとまずこの小論を終りにする。




注1:ついでに、上で述べたボケについて書いておくと、望遠レンズで背景をぼかしたポートレイト写真の人物が、浮き出て見えることはよく知られている。ボケた対象は人物よりも遠くにあるため、ピントがあっていないと目が判断するからだ。

【補】・遠景が絵のように見えるのは、両眼視差が働かなくなるからだ。
   ・片目は、両目よりハッキリと首振り立体視ができる。
2010.12.27[Mon] Post 01:50  CO:0  TB:0  絵画の現象学  Top▲

ポロックの空間の秘密  【首振り立体視②】

【首振り立体視①】



前回のエントリー
でポロックの空間について書いた記事に岡田萬治さんという方からコメントを頂いた。

岡田さんには幾つかの誤解と思い込みがあるようだが、ここでは細かいことは省略する。

まず問題のポイントは、頭を動かしたり、歩きながら画像を見ると現れる立体視があるかどうかということだ。岡田さんは、Youtubeを見ても立体視が見えないという。見えないだけなら、個人差もあるだろうから、それはそれでいいのだが、見えるはずがないと言われると、見えるわたしは困惑するばかりだ。

「首振り立体視」、ひとまずこう名づけておくが、これはわたしの目の錯覚ではないかと最初は思ったが、例によってニョウボに確かめたら、奥行きが見えるそうだ。(ぜんぜん、証明にならないがw)

立体視というより、三次元視と言ったほうがいいのだが、たしかに両眼視差によって三次元視は生じる。しかし、すべての三次元視は両眼視差のためではない。

ポロックの三次元視が両眼視差によって生じるわけではない。我々は交差視も平行視もしていない。それは準知覚であって、「知覚の三次元」でも「図像意識の三次元」でもない、あたかも知覚のごとく見える「錯視の三次元」である点では、両眼視差による立体視と同じだ。

この三つの現象は、思い込みなしに、ということは現象学的還元をしてみればということだが、それぞれハッキリと区別できる。もちろん折衷的でどっちつかずの三次元感覚もあるが、それはそれで中間的な現象として把捉できる。

何事も絵画を論じるならば、まず、絵画を見ることから始めよう。ポロックの「首振り三次元視」に好都合な静止画集“Top Twenty Jackson Pollock Paintings”がYoutubeにある。それを見てみよう。





ひと通り見て、いちばん三次元視がうまくいく静止画を選び、首を振らずに見てみよう。たとえば《Number22》がある。具象画の遠近法的奥行きではないが、絵画的な空間のイリュージョンがある。

具体的な事物がないのに、どこからこの三次元感覚が生じるのか。いろいろあるだろうが、もっとも重要なのは絵具のかさなり、もうひとつ副次的に重要なのは曲線だ。

二つの線が交差しているとき、上にある方が手前に見える。それから曲線があれば、それは大抵は凹んでいるか、あるいは盛り上がっているかのどちらかにみえる。もちろん凸と凹が交替して見えることもある。

その他、地と図の関係(注2)や前進色と後退色の影響もありそうだが、解像度の低いYoutubeの画像では、はっきりしたことは判らないし、どちらにしろ、「首振り立体視」では副次的な役割しか果たしていない。

首を左右に振ってみよう。すると比較的浅かった奥行きが深くなり、交差した線は二次元の平面上で重なっているのではなく、三次元空間を離れて交錯しているように見える。頭を右に動かすと、前の線が左に動き、後ろの線や色面が反対側に動いたような錯視が生じる。

この絵では、筆で描かれた黒い線やドリッピングの黄色い細い線が浮き上がって見える。特に黒い線は静止状態のときは、沈んでさえ見えたのに、動いたとたん浮き上がってくる。

この錯視が両眼視差によるものではないことは、片目で見ても同じ現象が起きることで、簡単に証明できる。

それでは、どうしてこんな錯視が生じたのか。それは、電車に載っているときに近くの電信柱が後ろに動いていくのに遠くの家は電車についてくる現象と同じだ。片目をつぶって、鉛筆を二本、目の前に距離を少し離して立てる。そして、頭を左に動かすと、近くの鉛筆は右に、遠くの鉛筆は左に動くように見える。これは錯視ではなく、相対的な運動ということだ。(正確には相対的うんどうではなく、視線の角度の違いだ)

しかし、絵画では交差する二本の線は同じ平面に描かれているのだから、頭を動かしても、上で述べたような現象は起きないはずだ。実際に起きていないことが、起きているように見えるから錯視なのだ。

それなら、頭を動かすと何が起こるのか。それは、網膜の像がずれるということだ。網膜像は眼球の動きや頭の動きに連動して、絶えず変化している。それなら世界が揺れ動いたり、チラチラしても良いはずだが、そうはならない。「脳」が網膜像の動きを、対象のうごきではなく、眼球や頭のうごきとして処理している。

実は、この眼球や頭の動きは三次元の空間や事物の立体性を構成するための重要な運動感覚(キネステーゼ)なのだ。三次元の知覚に両眼視差が働いているのは確かだ。その左右の異なった網膜像を脳が三次元立体として処理している。もちろんこれは交差視も平行視もしているわけではないから錯視ではなく、知覚だ。

もちろん、三次元に見えるのは、両眼視差だけが理由ではない。片目でも、両眼視ほどではないが、奥行きは知覚している。それは、事物の重なり具合であり、焦点より遠いところと、近いところのボケであり、大小の遠近法である。眼帯をしていて、どちらが近くにあるかわからないとき頭を動かして、重なり具合を確かめて、どちらが前か後ろか確かめた経験があるだろう。

頭を動かすより、動画でカメラを移動させたほうが、「首振り立体視」がハッキリ見える(たぶん)のは、列車の窓外の景色の流れに近いからだ。絵画は平面だけれど、浅い空間のイリュージョンがある。それが横に移動すると、その浅い絵画空間にたいして、「脳」が、まちがって、三次元空間を知覚した時のプログラムを実行してしまうのだ。

この「首振り立体視」はポロック特有の現象ではない。線や図形が重なっている絵画なら大なり小なり「首振り立体視」ができる。例えば、カンディンスキーの幾何学的抽象は比較的よく三次元視ができるほうだが、ポロックほどではない。ポロックが特別なのは、おそらく、絵具が盛り上がって、線の重なりがリアルに見えることも関係しているのだろう。(注1)

以上のことは、ポロックの評価とは直接関係はない。しかし、首もふらずに静止画を見ていると、浅い絵画的イリュージョンが少しずつ深くなっていくようみえる。ときに、チラチラと錯視らしきものがあらわれるもする。それは、いくら観者が動かないつもりでも、眼球は動いているし、頭は揺れているからだ。たぶん、首振り三次元視が絵画的空間に影響を与えていることは間違いない。

本物のポロックを見て見なければ、なんとも言えないけれど、Youtubeでポロックの絵をみながら繰り返し「首振り実験」をしたので、次第にポロックの絵画的イリュジョンが見えるようになってきた気がする。

ポロックを見るために、アメリカまでいく元気はない。

注1:デ・クーニング《発掘》(1950)はもともと面を立体的に重ねているので、「首振り立体視」をすると屋上屋を架すの感じになる。
注2:ポロックのポード絵画には図と地はないと言われているが、全くないわけではない。

【首振り立体視③】へ






2010.12.11[Sat] Post 19:57  CO:1  TB:0  絵画の現象学  Top▲

ポロックが易しいというなら、自分でやってみろ。【首振り立体視①】

ニューヨーク・タイムズ(12/3)に、スティーヴン・マケルロイ記者の“If It's So Easy, Why Don't You Try It.”の記事が掲載されている。

死後の名声とオークションでの高値にも拘わらず、生前も今も、ポロックの作品はでたらめなエネルギーの無秩序な爆発で、彼は天才でもなんでもないという批判が繰り返し行われている。

それに対して、美術史家でキュレーターのヘレン・ハリソンが“The Jackson Pollock Box”を作った。数枚の小さいキャンバスと紙、ブラシと液体のアクリル絵具を入れたスクイズボトルが入った「ポロック・キット」だ。

これを使って、ポロックのポーリング絵画に挑戦してもらえば、ポロックがデタラメにやったわけではなく、バックグラウンドもあるし、テクニックの修練もしたし、これまでの絵画を踏まえた上での革命的な作品であることを理解してもらえるとヘレン・ハリソンは言う。

ポロックが易しいと思って、やって見ると難しいのは、ポロックがデタラメをやっているわけではなく、ちゃんと絵具をコントロールしているからだ。ポロックのポード絵画は、絵具をランダムに撒きちらす“アクション・ペインティング”ではない。画布を目で見ながら、もちろん偶然を利用しながらも、しっかりとポーやドリップやスプラッシュをコントロールしているということだ。

われわれが真似の出来ないポロックの秘密とはなんだろう。

ポロックをYoutubeで検索したら面白い映像があった。55秒ぐらいから注目。カメラが右に移動すると、立体視が現れてくる。



この立体錯視をはじめて見たのは、ウィーン美術アカデミー名品展(損保ジャパン美術館2006年)で、ローベルト・ルスの≪ベンツィンガー・アウの早春≫の木立の枝を見たときだ。同じような現象は2008年の『世界文化大賞展』のザオ・ウーキーとアンゼルム・キーファーの作品にも見られる。

この錯視はスティーブン・ピンカー(『心の仕組み』)の「壁紙ステレオグラム」の立体視やオップアートの錯視と同じ仲間で、いわば準知覚であり、絵画イリュージョンの「知覚に基づいた想像」とは別のものである。

ポロックはこの立体視を生み出す秘密というより「コツ」を知っていたのではないか。これを解明するのは「知覚心理学」の役目だが、少なくとも錯視というものは、ブリジット・ライリーのオップ・アートで判るように、むしろ絵画の楽しみを台無しにするものだ。

もちろんポロックのポード絵画には空間のイリュージョンがある。ポロックの立体視が、本来の空間イリュージョンにどのような影響を与えるか実際にポロックの絵の前に立って、首を振らずに、鑑賞してみなければならない。

ロスコとニューマンの傑作が川村美術館で見られるし、個展もあった。けれど、ポロックの代表的な作品は日本で見られないし、個展もまだないことが、ポロック理解の妨げになっているような気がする。わたしのように「ポロック知らずの評論家気取り」が多いのではないか。


【首振り立体視②】へ

2010.12.08[Wed] Post 20:42  CO:1  TB:0  絵画の現象学  Top▲

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