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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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自然のイメージと抽象画 ー帰する場所なき再現性ー

自然のイメージをもとにしたという抽象画が数多くある。ブログで取り上げた山川勝彦津上みゆきもそうだ。山川は写真のピンぼけの技法を使って、何か判然としないけれど、ともかく事物らしきものが描かれている。それに対して津上の作品はまったくのカラー・フィールド・ペインティングで、自然の対象は描かれていないように見える。

ところが津上は展示場(『ARTIST FILE 2009』国立新美術館)に開いたスケッチブックを展示している。そのスケッチをもとに記憶を反復したり、イメージを膨らませ、それをもとに制作をするという。そうなれば、観者のほうも、しかたなく、絵の中に風景をみることになる。明るい青は空だろうし、濃青は湖や川だ。そして緑は草木、赤やピンクは花で黄色は大地を再現しているように見えてくる。

自然を描いて、輪郭のぼやけた絵なら、ターナーにもあるけれど、ターナーの絵はあくまでもリアリズムであり、霧にかすんでいるけれど、物の形も空間のイリュージョンもある。それに比べ、津上の色面は、輪郭が比較的はっきりしているにもかかわらず、平面的抽象的である。もちろん筆触や絵具の層もキャンバス表面に露呈している。

津上の「風景」は、グリーンバーグの「帰する場所なき再現性」ではないか。グリーンバーグの『抽象表現主義以降』から引用する。

私(グリーンバーグ)がこの語で意味しているのは、抽象的な目的のために適用されはするが、再現的な目的も示唆し続けるような、彫塑的かつ描写的な絵画的なるもののことである。それ自体としては「帰する場所なき再現性」は良くも悪くもないし、おそらく抽象表現主義の最良の成果のいくつかは、早くから再現性と戯れることによって得られたものであろう。悪しき場合とは、後にそれが硬化してマンネリズムに陥っていまう時だけのことで、ある手法に特有のものになってしまう場合である。(注1)

津上の「風景」は彫塑的でも描写的でもないけれど、形や色彩が象徴的に風景を暗示する。風景には雲や山や丘、海や湖や川、樹林や草原や花畑などの不定形なものに溢れている。しかし、風景には遠近があり、上下があり、高低がある。それを津上は記憶のなかで発酵熟成させ、構成を解体する。自然は彫塑的ではなく平面的になり、描写的ではなく象徴的になる。

問題は津上の抽象的風景画はマンネリズムに陥っているのかどうかである。ブリジストン美術館で見たザオ・ウーキーの抽象画は ブログにも書いたように「何度も絵の具を塗り重 ねたのだろう、透明で微妙に変化する青い画面は美しいものだったが、次第に作品は大きくなり、そのうち、水のイメージがあらわれ、しまいにうねるような波 らしきものが描かれるようになったのにはがっかりした。」けれど、津上の風景画は今のところマンネリ化を免れているようだが、そのぶんイリュージョンを失い、模様化してしまう危険があるだろう。

抽象画が再現性と戯れるとき、観者の視線は、壁のシミが人の顔に見えるときのように、だまし絵隠し絵に似た非芸術的なものになりやすい。風景がもともと持っている抽象性不定形性ゆえに、女と戯れるよりも、ずーと堕落しやすいのだ。


注1:『グリーンバーグ批評選集』p147
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2010.04.09[Fri] Post 01:47  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

古谷利裕の「知覚心理学的絵画論」(グリーンバーグ3)

「古谷利裕の『セザンヌ論』」からのつづき

古谷利裕氏は、村上隆とセザンヌに共通するのは、「同一平面上の複数の次元」を見るときの視線の揺れ動きやギシギシとしたノイズの感覚だという。『Melting DOB D』の複数の顔は、同時にみることはできないし、セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』は歪んだ空間や形態のために画面全体を一挙に見ることができない。

この共通する感覚を「形式的に見る」ことだと古谷氏は言うが、そうだろうか。複数の顔のパーツがあるというのは、形式ではなく内容ではないか。「人間には目が二つある」というのも内容だ。同じように、テーブルが歪んで見えるのは、テーブルの天板は矩形で水平が「正しい」という図像学があるからだ。あるいはリンゴが転がり落ちそうなのは、それがリンゴであって風船ではないからだ。形式的な色や線や形としてみれば、どんな絵にも歪んだところは少しもない。

わたしは揚げ足取りをしているのではない。具象的な対象の形態や空間が歪んだり、一つの顔に目鼻がたくさんあれば、自然の対象は解体し、そこから色や線や造形が絵画の表面に現れ出ることはある。あるいは、「親指が二本ある手」のように運動の錯視が生じることもある。(注1)そうなれば、古谷氏の言うとおり、視線が揺れ動いたり、引っかかったり、チラチラすることもあるだろう。

しかし、これは絵を鑑賞することだろうか。ただの知覚心理学の実験ではないか。

グリーンバーグが言うように、美的価値は内容から生じるのであって、形式からではない。しかも、形式と内容は相対的なもので、両者を単純に区別できないとすれば、絵を理解するためには、何よりもまず絵をみなければならない。

セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』を見てみよう。たしかに、古谷氏のいうように空間が歪み、事物の形態にも複雑なゆがみが見られる。しかし、「 画面上に描かれた事物を図像としてリテラルに追おうとしても、その視線は決して素直にスムースの動くことはできない」とまで古谷氏は言う。

セザンヌの絵画では、このような視線の異なる次元への移動は決してスムースには行われず、まるで無計画に増築に増築を重ねた建築物 (永井豪の『キッカイくん』の家のような)のなかを移動しているかのように、動いてゆく度にギシギシとしたノイズを産み、今にも崩壊寸前でギリギリ留まっているかのような感じなのだ。(セザンヌの絵画は、不器用ではあっても決して「静謐」でも「堅牢」でもなく、きわめてノイジーだ。)あえて言えば、セザンヌの絵画の「意味」とは、この震えるような「きしみ」にこそあるとさえ言える。

古谷氏はセザンヌが「静謐」でも「堅牢」でもなくノイジーだと、セザンヌ評価の常套句を否定する。たしかに、「筆触のモザイクで埋め尽くした」(グリーンバーグ)セザンヌの作品は、素人目にはノイジーに見える。しかし、この「筆触のモザイク」は、むしろ絵画の物理的表面とイリュージョンの内容との堅牢な結合を示しているとグリーンバーグは言う。どちらの言い分が正しいのか、もう一度作品を見てみよう。

『キューピッドの石膏像のある静物』は、「筆触のモザイクがは他の作品に比べるとそれほど明確ではなく、タッチとタッチの境界は曖昧に、平面上に広がっている。そのかわり、真ん中に量感のある白い石膏像が描かれている。その代わりいつも描かれている白いテーブルクロスが無い。テーブルやキャンバス画が石膏像を囲んでいる。この大きな四角形は、筆触のモザイクの代わりに、フレームの四角形を繰り返している。そして、これらの四角形の平面が、絵画の四角い物理的表面に重なるように見える。

また、緑の色面が石膏像の輪郭線を越えてテーブルや画中画に広がり、絵画の平面性を強調している。また、小さいテーブルのリンゴとタマネギ、左側の絵にかかれたリンゴと、右上の青いリンゴが四角い透明の面作って、絵画表面にかさなっている。

さらに、この絵の四隅に注意すれば、左上は後ろ向きに置かれたキャンバスの裏地があり、右上には左膝をついた石膏像の絵がある。そして左下の絵に描かれたテーブルクロスが、その絵の平面から抜け出して、絵画の表面に浮き上がっている。同じように、右下にはテーブルの天板が、遠近法を歪めて、この絵の物理的表面に重ね合わせるようにグイッと引っ張りあげられ、伸ばされて、キャンバスの隅に固定されている。

セザンヌの「堅牢」さは、遠近法やデッサンのそれではなく、イリュージョンと絵画の物理的表面との間の緊密な関係であり、その二次元的なもと再現的なものの結びつきが「静謐」ということでもある。

古谷利裕氏のいう「同一平面の複数の次元」から生まれる「震えるようなきしみ」というのは、セザンヌではなく、むしろキーファーの《マイスターシンガー》に当て嵌まる。この絵は新表現主義といわれる激しい情緒を表した絵画だ。絵具を叩きつけ、擦りつけ、なすり付け、そして落書きのようにアルファベットやアラビア数字を殴り書きし、教会や家を子供のイタズラガキように描く。表現主義も象徴主義もアクション・ペインティングもカリグラフィーも、そして「立体視」もなにかも一緒くたにして、文字通り騒音に満ちた絵画というにふさわしい。(記事『デ・クーニング』より)

セザンヌの堅牢性を理解しない者は、モダニズムの絵画を理解しない者である。絵画だけにある絵画の特性は平面性である。平面性は、イリュージョンの奥行きがメディウムの矩形の平面に重なることで現れる。セザンヌは絵具の物質性で絵画の平面性を強調し、テーブルや画中画の四角形でフレームの四角形を繰り返す。そして、奥行きを浅くしたイリュージョンを絵画の物質的平面に重ね合わせようとした。その二つの平面が緊密に関係することでセザンヌの堅牢性(solidity)が生まれる。

『キューピッドの石膏像のある静物』は、それまでの「筆触のモザイク」ではなく、キュービスム的な手法になっている。中央に彫刻的なイリュージョンを持つ石膏像があるけれど、その周りをテーブルやキャンバス画の平面が取り囲んでいる。そして、そのキャンバスや天板が『不思議の国のアリス』のトランプの兵隊ように絵画の表面に向かってくる。この平面はマチスのテーブルや画中画や窓、壁、絨毯になり、それがロスコの矩形の抽象画になり、さらに、ニューマンの「アンナの光」ではイリュージョンの平面と絵画表面の平面が完全に一つになっている。(ステラ のshaped canvasはニューマンと違ってイリュージョンを完全に抹殺している)

この空間のイリュージョンと絵画の物理的平面のあいだの緊張関係は、もちろん古大家の作品にもある。ただ古大家たちはイリュージョンによって物理的な層を隠していたので、イリュージョンと絵画平面との緊張関係が露呈しなかった。ところがモダニズムの絵画は平面性を強調する。平面性というのはキャンバスの物理的特性だから、結果的にイリュージョンと物理的表面の対立を強調顕現させることになった。

そもそも、モダニズムの絵画を見る楽しみは、図像学的に見ることでも、フォーマリスティックに見ることでもない。モダニズムの絵を見ると言うことは、物理的絵画の知覚をとおして図像(イリュージョン)を見、図像(イリュージョン)を通して再びメディウムに帰るという、絵画の三層構造の間の弁証法的戯れに身をまかせることだ。この意味でグリーンバーグはフォーマリストでも、平面主義者でもない。もちろん図像主義者でもない。絵画の三層構造のあいだの弁証法的戯れに美的価値を認める現象学者なのだ。かれが形式を重視するのは、形式そのものに美的価値があるからではない。そうではなく優れた形式というもはイリュージョンと物理的絵画の間の緊張を高め、美的内容を生み出すのに寄与してくれるかぎりである。

古谷氏はエッセイの最後で言っている。
 
 ただ、目の前に提示されてる作品やイメージというものを、丁寧に見て、それを記述し分析することが、現在の「美術」を巡る言説のなかにあまりに欠けている から、それが必要なのだと言いたいのだ。それがなければ、批評はただの知的な饒舌にすぎなくなってしまうし、作品はただ、故人やその時代の「好み」や「気分」や「感情」を代弁するもの、というだけのものになってしまう。

この批評じたいが絵を見ずに書ける言説であり、自己言及性のパラドックスに陥ってはいないか。

つづく

注1:親指は一本という「信念(思い込み)」があるので、二本の親指に違和感(正常な知覚ではないという疑い)を持つか、あるいは激しく前後に動く一本の親指が残像で二本に見えるか、どちらかである。わたしの経験では地と図の交替のように、違和感と運動の錯視が交替におきるようだ。これは二本の指の描き方によるだろう。彫刻では同じようなことが起こるかは知らない。

2009.03.28[Sat] Post 17:39  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

古谷利裕の「セザンヌ論」(グリーンバーグ2)

前回のエントリーでも触れたように、「近代絵画的」にみて、村上隆とセザンヌには共通の感覚があると古谷氏はいう。それは、「同一平面上の複数の次元」を見るときの感覚だという。

我々の視線は(複数の次元を持つ)絵を見ている限り常に動きつづけざるを得ないし、視線が動いている限りは(視線が動く度に)、空間を形づくっている「基底」そのものが小刻みに変化し、不安定に揺れ動き続けざるを得ない。(括弧内安積)

顔のパーツが複数描かれた『MeltingDOB』を見ると、そのパーツが様々に組み合わさることで、複数の顔が見えるは、その感覚だという。たしかに、いろいろな組み合わせに注意を向けることはできるが、いったいそれが次元の違いとか、「基底が不安定に揺れ動く」現象といえるのかどうか、その表現の真意を理解するのは難しい。

この「基底が不安定に揺れ動く現象」は、『Melting DOB』の目ではなく、「親指が二本ある手」で考えたほうが解りやすい。二本親指のイラストは、親指が二本あるのではなく、一本の親指が激しく前後に動いて見える。この感覚はオップ・アートの揺れ動きの感覚に似ているが、オップ・アートは抽象的な繰り返しの図形だが、こちらは、親指という具象性が問題になっている。親指は一本である。それが二本あることは、これまでの経験(記憶)と矛盾するので、
視覚(脳)が一本の指が前後にすばやく動いているものとして処理したのだ。抽象的な図形現象と具象的な図像現象と区別しなければならない。

これと似た現象がおそらく『Melting DOB』くんにもあるのだろう。目は正面なら二つだし、横顔なら一つだから、様々な組み合わせが正常な組み合わせになるように、小刻みに変化したり、不安定に揺れ動くことがあるかもしれない。

どちらにしろ、ここで注意しておかなければならないのは、これはあくまでも錯覚(疑似知覚)のレベルの現象で、本来の図像意識の現象ではないということだ。たとえば、モノクロ写真の子供の灰色の肌がピンクに見えるのは、錯覚ではなく、知覚しているのはあくまでも灰色であり、だだそれが存在定立されず中和変容されて、ピンクの肌という意味が志向されているのだ。だから、絵画意識にはちらつきや不安定な揺れ動きは本来的にはない。(注1)

さて、古谷氏は、『キューピッドの石膏像のある静物』を例に、
セザンヌにおける「同一平面上の複数次元」を説明する。それは、DOBくんの顔のパーツが複数あるというイラストの問題ではなく、空間と事物の形態の歪みに起因するものだ。テーブルが手前にせり上がっており、事物は遠近法の空間のなかに納められずにばらばらになっている。

画面上に描かれた事物を図像としてリテラルに追おうとしても、その視線は決して素直にスムースに動くことはできない。・・・・・・・・・(そこに描かれた事物)などに視線は引っ掛かり、さらにそこから別の場所へとズレこんでゆき、あるいはそこから色彩や筆致の次元へと、視線は次々と逸脱してゆき、画面のなかを目が彷徨いつづけることになる。(強調安積)

古谷氏はセザンヌにも、村上氏の「DOB」くんと同じような「同一平面上の複数の次元」への視線のズレと逸脱を認める。ところが、この次元というのが両者ではことなる。村上隆の
『MeltingDOB』では、顔のパーツが無数にある歪んだ大きな顔が、いろいろな組み合わせの顔となって現れる。ということは図像の三層構造では、図像客観や図像主題の次元へ視線が向かうことになる。それに対して、セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』では、歪んだ空間(遠近法)や歪んだ事物の形態が絵画の統一性を破壊して、造形や色彩や筆致という絵画の形式的物質的な次元に視線が向かうことになる。

古谷氏のセザンヌ分析は、意味がはっきりとしないレトリックを取り除いてやれば、おおむね素朴なフォーマリズム分析といえるわけだが、
『Melting DOB』の反フォーマリズム的な図像的(注2)解釈とは基本的には正反対のものではないか。そうであるならば、なぜ、セザンヌと村上隆が「スーパーフラット」の概念で結びつけられるのか理解するのは難しい。そもそも「スーパーフラット」とは何んであるか古谷氏はどこにもかいてないのだ。

古谷氏の論説を必ずしもよく理解したわけではないし、とくにおわりの方の蓮見重彦風レトリック(?)はわたしには理解できないので、もっと深い意味があるのかもしれないが、私が理解した限りでは、セザンヌと村上隆の作品に共通の感覚があるという古谷氏の主張は間違っていると結論せざるを得ない。

グリーンバーグの「セザンヌ論」を読めば分かることだが、セザンヌは決して古谷氏が書いているような意味でのフォーマリストではない。次回はグリーンバーグの「セザンヌ論」について書く予定だ。

つづく

注1:図像意識と錯覚意識を区別しなければならない。イリュージョンという言葉は両方に使われるから注意が必要です。
注2:古谷氏は「顔という意味」について述べている。グリーンバーグの"homeless representaion"を参照

2009.03.14[Sat] Post 14:44  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

古谷利裕の「村上隆論」(グリーンバーグ1) 

このところ政治の話題ばかり取り上げているけれど、美術のことをほったらかしにしているわけではない。グリーンバーグの”The Collected Essays and Criticism”4巻をアマゾンで買って積んであるのだ。それを拾い読みしているのだが、ますますグリーンバーグのフォーマリズムが「絵画の三層構造」に基づいているという確信を得た。キャンバスの平面と形が「物理的図像」に、浅い奥行きや目で見るだけの空間が「図像客観」に、深い奥行きや歩いて入れる空間、そしてrepresentationが「図像主題」にほぼ対応している。

じつは2chの書き込み(注1)で批判されていた古谷利裕氏の評論『セザンヌと村上隆とを同時に観ること』(Web CRITIQUE)の批判を書き始めたのだけれど、途中でばかばかしくなって放り出してあるのだ。なにしろ村上隆とセザンヌが近代絵画的に共通の感覚があるというのだから、2ちゃんねらーでなくともあきれてしまう。知覚心理学と文学的レトリックで、いたずらに人を驚かそうとしているだけではないか。

光栄にもわたしのブログを古谷氏のブログと比べてくれたブロガーがいて、そのブロガーに言わせると、わたしのブログはつまらないそうだ。たしかに、わたしのブログがつまらないことは認めるけれど、少なくとも絵画を理解するには、古谷氏の修辞より役に立つと思う。以下、途中まで書いた「古谷利裕論」を(一部修正して)コピペしておく。


2chの書き込みで批判されていた古谷利裕氏の評論『セザンヌと村上隆とを同時に観ること』(Web CRITIQUE)を読む。まずは冒頭部分から。

村上隆の「DOB」シリーズの最も完成度の高い作品、例えば2001年に制作された『Melting DOB D』や『Melting DOB E』といった作品を観た時に、セザンヌやマティス、あるいはゴーキーやポロックといった画家の作品と共通する「感覚」を感じないとしたら、その人は絵画を「形式的」に観る能力に欠けているのだと思う。村上氏がそのことをどこまで意識しているのかは知らないが、これらの作品はたんにパロディとか観照とかを超えて「近代絵画」的に相当高度な作品だと思う。

「形式的」とか「近代絵画的」とか言われれば、だれもが、グリーンバーグ流の絵画分析を思い浮かべるが、古谷氏がフォーマリズムやモダニズムでなにを意味しているかはこれだけでは解らない。終わりの方にモダニズムの説明らしきものがあるので、途中を省略して、結論にとぶ。そこにはこうある。

 あらゆる要素が隠されることなく表面に曝されている平面でありながら、複雑に折り重なる複数の異なる次元がひしめき合っていることから、決して視覚によってその全体を一気に把握することができない平面。つまり「スーパーフラット」というコンセプトは新しくもなければ古くもない。それは「近代絵画」の基本的な要素の一つであるのだ。
               
村上隆の「スーパーフラット」は、近代絵画の基本的な要素の一つである平面性(フラットネス)のことだといっている。もちろん、村上氏自身もはじめからそう言っている。それなら、スーパーフラットはフラットとどこが違うか、結論部分を分解すると、以下の三つの点で異なるらしい。

1.あらゆる要素が隠されてることなく表面に曝されている平面である。
2.複雑に折り重なる複数の異なる次元がひきしめ合っている平面である。
3.しかし、視覚によってその全体を一気に把握することができない平面である。

隠されることなく曝されているのに、全体を一気に把握できないとは、意味不明である。これが、絵画鑑賞のときの視線の動きを意味するなら、われわれは全体をぼんやり見るか、部分に注意を向けるかどちらかしかできないのだから、なにもスーパーフラットに限ることではない。

都合が悪くなると「次元の違い」を持ち出すのは批評空間派の常套だが、古谷氏も持ち出す。ところが、古谷氏の「次元」は複雑に折り重なっていて、しかも、ひしめき合っているというのだ。折り重なって、ひしめき合っているなら、同じ次元ではないのか。

また、古谷氏は「同一平面上の複数の異なる次元」について、以下のように述べる。

我々の視線は絵を見ている限り常に動きつづけざるを得ないし、視線が動いている限りは(視線が動く度に)、空間を形づくっている「基底」そのものが小刻みに変化し、不安定に揺れ動き続けざるを得ない。

この説明がどんな知覚現象を説明しているのか、相変わらずハッキリとはしないが、たとえばゲシュタルト心理学の図と地の交替を思い出すが、図と地の交替は不安定な揺れ動きではなく、我々の注意の向け方にも左右されない一定間隔の交替なのだ。しかも、地と図が交替する図形ばかりか、交替しない図形もあるし、交替しにくい図形もある。交替しにくい図形を利用したのが「隠し絵」である。

古谷氏の上記の説明は、図形がちらちらと不安定に揺れ動くオップアートや、二本描かれた親指が、一本の親指が激しく動いているように見えるイラストなどにこそふさわしいだろう。しかし、この揺れ動きは、錯視の現象であり、グリーバーグの言う「平面とイリュージョンの弁証法的緊張」とはなんの関係もないことだ。

古谷氏はその「同一平面上の複数の次元」 がある絵画として、村上の『Melting DOB D』を例に上げて、これがたくさんの目がある顔にしか見えない者は、絵画を「形式的」に観る能力に欠けているという。

もし、近代絵画的な、「同一平面上の複数の次元」ということを理解しない人がこのような絵を描いたら、たんに目がたくさんある顔に見えるか、そうでなければ、目は「目」に見えず、顔にたくさんの発疹ができているようにしか見えないだろう。つまりこの作品は、非常に高度な近代絵画的な目によって制御されて描かれていると言えるのだ。

どうやらわたしは、絵を「形式的」に見る能力に欠けているようだ。わたしには『Melting DOB D』が大小の目や口がごたごた描かれた顔にしか見えない。いろんな顔が見えるのは、ただ知覚の地平の問題であり、注意の問題であって、次元の違いではない。(古谷氏が「次元の違い」で何を意味しているか明確ではないが)もし、グリーンバーグと関係があるとすれば、それはフォーマリズムではなく、おそらく「ホームレス・リプレゼンターション」の方だろう。

古谷氏は「だまし絵」や「隠し絵」と「同一平面上の複数の次元」と比べているが、「だまし絵」と「隠し絵」の違いを把握していないので、言っていることがちんぷんかんぷんになっている。「隠し絵」はすでに述べたようにゲシュタルト心理(地と図の反転など)を利用した絵であり、「だまし絵」は図像表象の階層性を利用した絵である。

だまし絵については「絵画の現象学」の理解に役立つので、少し詳しく述べておく。たとえば、「絵の中の絵」、「『パンを描いた絵②』を描いた絵①」があるとする。その絵に蝿が描いてある。するとその蝿は
1.絵②のパンにとまっている。
2.絵②の表面にとまっている。すなわち絵①のイリュージョン空間にいる。
3.絵①の表面にとまっている。すなわち絵画の物理的表面にとまっているように見える。
4.本物の蝿が絵①にとまっているのと間違える。
5.蝿の形をした黒いシミとしては、すべてのほかの絵具と同じようにキャンバス上の表面に塗られた絵の具である。(注2)
以上は蝿の角度や大きさや影の付き方によってかわってくる。また、額縁が描かれている場合はイリュージョンはより複雑になる。どのイリュージョン空間に属するか曖昧なことももちろんある。このイリュージョン空間の多層性、すなわち絵の中の絵、その絵の中の絵、さらにその絵の中の絵という具合に、理論的には無限に可能である。

「だまし絵」は5.のキャンバスという同一平面上に描かれたイリュージョンの多層性なのだから、「同一平面上の複数の次元」と似ている。しかし、これはイリュージョン空間の入れ子構造の多層性であって、次元の違いを持ち出す必要はない。。実際に『Melting DOB D』を見ても、絵の中の絵という構造はどこにもない。

以上で、古谷氏の村上隆解釈の検討はおわります。次回は古谷氏のセザンヌ解釈についてです。

つづく

注1:記事『2ちゃんねるの美術評論』参照
注2:谷川渥『だまし絵』参照


2009.03.07[Sat] Post 23:24  CO:3  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

グリーンバーグの「抽象と具象」(デ・クーニング4)

グリーンバーグ”は “Abstract, Representational, and so forth”(1954年) というエッセイでフォーマリストの立場から「抽象と再現性」について書いている。以下要約する。


絵画であろうと彫刻であろうと、抽象芸術は退廃の象徴であり、それにくらべ、「自然(具象)に帰れ」という願望は健全なことだと見なされている。他方、抽象芸術の擁護者は、抽象こそ優れているのだと主張している。

しかし、芸術というのは原理の問題ではなく、経験の問題であり、芸術で大切なものは質なのである。歌詞が音楽の価値と関係ないのとおなじように、再現的なイメージは、絵画や彫刻の価値と関係がない。再現性というのは、大きさや色や絵具の質やデザインなどと同列の作品の一つの側面(アスペクト)であり、作品全体の質をきめる特権的なものではない。

再現性は絵画にコンセプチャルな意味を与えるが、それが作品の美的な価値を高めるのか減じるのかは一概にいえない。歴史的な出来事に言及しているからといって、ピカソの《ゲルニカ》が、モンドリアンの非対象絵画より豊かで質が高いとはいえない。

painting(絵画)やsculputre(彫刻)ではなく、本来、具象的な芸術を意味するpicture(図像)やstatue(銅像)の考えに立てば、抽象的な作品は、内容が貧しく、劣っていると思われがちであるが、どんな芸術も、見る前に、その善し悪しを決めることは出来ない。たしかに、抽象画の多くはメジャーな芸術とはいえないし、おおくは駄作であるが、やはりわれわれの時代の優れた絵画は抽象画なのだ。現今の抽象画がマンネリに陥り、ふるわないのは、抽象画が具象画に原理的に劣るということではなく、抽象画がまったくの新しい絵画「言語」だということに伴って生じた問題だ。

ジオットからクールベまで画家は平らな表面に遠近法などによって三次元の空間のイリュージョンの穴をあけた。観者は絵画の表面を通して、前舞台から舞台の奥をのぞくように絵画の中を見た。モダニスムの絵画は、この舞台をどんどん狭くして、幕と同じ平面に重なってしまった。画家にはカーテンの平面しか残っていないので、そのうえにいくらいろいろイメージを描いても何かが失われたような気がする。失われたものは、具象的な対象ではなく、深い奥行きのイリュージョンなのだ。

モダニズムの絵画はわれわれの身体と同じ秩序に属する存在になる。絵画は再現されたものを入れる空間のイリュージョンをもたない(遠近法的な奥行きがないので、事物や人間が動き回るような空間のイリュージョンがない)。観者は自分がたっている空間から絵の中のイリュージョンのなかに逃げ込むことはできない。

もし、その絵が観者の目をあざむく(イリュージョンを生んでいる)としたら、それは視覚的(optical)な手段であって、絵画的painterly pictorial)な手段ではない。視覚的手段というのは何が描いてあるかという内容と切り離された線や色の関係、あるいは上と下、前景と後景が交換可能になるような操作によって、イリュージョンを生んでいるのだ。(歩いて入っていける空間ではなく、目で見るだけの空間のイリュージョンのこと:『モダニズムの絵画』)

抽象画を見ると、イリュージョン絵画よりも、より奥行きの狭い、より物質的な、そしてより非再現的な感じがするだけではなく、抽象画の絵画言語には名詞と他動詞が欠けている。ようするに抽象画は画面に中心がなく、オールオーバーな単一体なのである。それに比べ再現的な絵画はわれわれをそんな狭い領域に押し込めようとはしない。

もし、抽象彫刻が抽象絵画より抵抗がないとすれば、それは彫刻が抽象になることで彫刻言語をそれほど変える必要がないからだ。抽象であろうが再現的であろうが、彫刻はもじどおり三次元のままである。

フォーマリズムの観点から見て、具象画と抽象画のどちらが優れているとは言えないが、現実には抽象画のほうが平面性や支持体の形や絵具の特性という絵画の純粋な美的価値をよりよく実現している。しかし、このことだって原理的にそうだとはいう事ではなく、将来の美術愛好家が、古大家のイリュージョニスティックな絵画の深みや量感が対象の再現のためではなく、フォーマリスティックな美的価値を実現するためだと感じ、描かれている対象ではなく、色や形の関係に関心を持つかもしれない。

同じことは風景画にも言える。自然を模倣するのは、自然を再現するためではなく、画家がただ芸術に向き合うだけでは決して生み出すことができなかったような複雑な色彩や形態を自然が教えてくれるからだと、将来の目利きは思うかもしれない。そうして、彼らは、古大家と抽象画の間には、われわれが認識しているよりも多くの共通した地盤を見いだすかもしれない。

だからといって、具象画を色彩や形の関係からだけ見ればいいと言っているわけではない。そこに何が描かれているかも大切なのだ。絵画にはイラスト的な価値があることは疑いない。レンブラントが晩年、ジュースのようにゆるい絵具を、肖像画の耳ではなく、額や鼻に塗り重ねたということは、彼の到達した美的な帰結と大いに関係があることだが、それが何故か(why)、どうやってか(how)はわれわれにはまだ分からない。

実は私の望みは、絵画芸術における抽象的なあるいは形式的な要素が重要だということを、あまりうるさい条件をつけないで認めることが、ひいては、絵画のイラスト的な価値そのものをもっと明確に理解するための道を開いてくれるのではないかということだ。


以上がグリーンバーグの『抽象と再現とその他』の要約のつもりだけれど、わからない箇所はとばしたり、ごまかしたりしたから、意味不明のところもあるだろうけれど、いまのところ私のグリーンバーグ理解ではこれが精一杯です。

グリーンバーグはフォーマリストであり、何が描かれているかではなく、如何に描かれているかの美的価値が重要であり、抽象画と具象画の差はないと考えている。しかし、具象画は、再現的な対象が描かれているので、それだけで平面である絵画の表面に奥行きのイリュージョンを生み、絵画の純粋性を損なってしまうというのだ。

最後のところで、グリーンバーグは絵画のイラスト的な価値について述べているが、それもフォーマリズム的な美的価値との関係以上のことはいっていないようなきがする。それでは具象画の構造を理解することはできない。具象画を抽象画として眺めるというアクロバティックな観賞方法ではなく、フォーマリズムのファクターである色や形や線の諸関係が、同時に林檎やヌードや風景を再現するという「図像の三層構造」の視点から具象画を考察しなければならない。

例えば、ゴッホの《夜のカフェテラス》の黄色は、ただ夜の空の青と補色の関係にあるのではなく、黄色はカフェテラスの灯りであり、青は星の輝く夜の闇なのだ。われわれは、《黄色の部屋》の黄色でもなく、《ひまわり》の黄色でもなく、夜のガス灯のまぶしい光に魅せられるのだ。

グリーンバーグは間違っている。再現性というのは、グリーバーグの主張とはことなり、絵画により多くの価値をあたえるものである。もちろん失敗すれば悲惨なものになるのだが。
2008.12.31[Wed] Post 00:24  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

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