ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

セザンヌの脈動:(国立新美術館『セザンヌ - パリとプロヴァンス』)

これだけ多くのセザンヌをまとめて見るのははじめてだった。会場は平日ということもあってか、美大生らしき若者かわりに、画家風の高齢の人たいが多かったような気がする。銀髪のオカッパの女性も目についた。

セザンヌを理解することが絵画を理解することだった時代があった。いまでも、正統的な美大のカリキュラムはセザンヌから始まるのではないか。しかし他方では、会田誠のようにレンブラントは理解できるけれどセザンヌは分からないという画家もいる。なぜ、そんなにいろいろな言葉がついてくるのか分からない、セザンヌは絵が下手ではないのかと会田は言う。たしかにセザンヌは最後までデッサンに苦労したと言われている。今回の展覧会に展示されていた初期作品の《四季》は、これでよく画家を志したものだと驚かされる。

セザンヌについてまわる言葉と言えば、誰でも思い出すのが「脈動」だ。カタログの評論『セザンヌからマティスへ』(長屋光枝)にも、《サント=ヴィクトワール山》(1902頃)についてゴットフリート・ベームを引用して、「水彩を思わせる大振りの瑞々しいタッチによって、震えるように脈動する画面は、セザンヌが到達した比類のない成果を示している。」と書いている。

この脈動や震えはセザンヌの筆触分割にかかわっている。一つは印象派の震えるような光の影響であり、もう一つはキュビスムに繋がるもので、筆触分割のモザイクが絵の物理的表面とその奥に描かれたイリュージョンとの間に現れる脈動(vibration)のことだ。そのことをグリーバーグが『セザンヌ』の中で書いている。

それによって無限の振動が、絵の文字通りの塗られた表面と、その背後に形成された「内容」との間に生じるが、ここにこそセザンヌ流の「革命」の本質があったのである。


グリーンバーグは同じ脈動を分析的キュビスムの切子面とイリュージョンの間に見いだし、さらにはポロックがこのキュビスムの脈動を受け継いでいるという。「『アメリカ型』絵画」から引用。

ポロックは交錯した滴りやはねによって、、強調された表面----これはアルミニウム塗料のハイライトによって、さらにはっきりと示される----と、不確定だがどういうわけか明確に浅い奥行のイリュージョンとの間に振動を生み出したが、その浅い奥行のイリュージョンは、三十余年前にピカソとブラックが分析的キュビスムの切子面状の面によって到達したものを私に思い起こさせる。


脈動は、セザンヌの筆触分割やキュビスムの矩形が、具体的な対象に見えたり、バラバラの断片の重なりに見えたりすることだが、グリーンバーグの本来の意味での脈動はキャンバスの平面性とイリュージョンの間に生じる弁証的緊張関係であり、必ずしもvibration(振動)ということではない。脈動というのは、その中でも、キャンバスの「物理的平面」と「描かれた平面」との間ばかりか、さらに「描かれた空間や事物のイリュージョン」との間に現れる強い交替運動のことを脈動と言う(らしい)。

これは、モダニズム絵画の平面性の問題であり、古典名画は三次元的な事物のイリュージョンによって絵画の物理的表面を隠したが、モダニズムの絵画はむしろ平面性を絵画の本質として宣言した。キャンバスの平面性と三次元のイリュージョンの関係は、さまざまな様態で現れる。その現れ方から見れば、絵画は「知覚に基づいた想像」であることは、遠近法などに絡めて、バラバラではあるけれど、24回の『美術評論とは何か』で論じた。

ホッベマの《並木道》は奥行のイリュージョンが絵画の平面の知覚を抑圧しているけれど、近づいてよく見れば絵具の塗られた表面が知覚できる。同じようにクールベの《ルー川の洞窟》も黒い色面の知覚に基づいて洞窟の暗闇を想像している。物理的な黒い表面を知覚し、その知覚に基づいて、洞窟の暗闇を想像しているわけだが、われわれは比較的自由に知覚と想像のどちらにも注意を向ける事ができるので、脈動といった現象は生じない。

それなら、セザンヌの《サント=ヴィクトワール山》はどうだろう。遠景中景近景と奥行はあるけれど、ホッベマの線遠近法とはちがって、連続的に空間が繋がって、遠くへと縮小しているわけではない。分割された筆触が絵画表面に迫り上がって来るように見える。それが脈動なのかどうかは私にははっきりとは分からないが、空間が透視図法のように息苦しくなく、開放感に満ちている。

サント=ビクトワール山の稜線にそって近景の木の枝が重ならずに伸びているのが、若い頃はわざとらしく思えたけれど、今はそんなこともなく、たぶんセザンヌは、枝が山肌に重なれば、そこに「重なりの遠近感」が生まれるのが嫌だったのだろう。たしかによく見れば、サント=ビクトワールの山肌は枝とともに絵画表面まで迫ってくるように見える。ここにも絵画表面とイリュージョンの弁証法的緊張が現れていると言えるだろう。

絵画の平面性はさまざまの形で現れる。次回、それをもう一度整理してみよう。












スポンサーサイト
2012.07.13[Fri] Post 01:09  CO:0  TB:0  -セザンヌ  Top▲

ポロックと桑久保徹の「近視と遠視」

前回のポロックの記事で、藤枝晃雄の『現代美術の〈不安〉』から「近視と遠視」のところを引用した。そのことで、桑久保徹のことを思い出した。はじめに、藤枝晃雄の該当箇所をもう一度引用する。

ポロックにおける緊張は、焦点のあるようなないような、遠視と近視の状態の間におけるそれである。
ポロックの絵画は、近視と遠視の間に立って焦点を求め、縮小したり拡張したりする。それはキャンバスという決定的な焦点のなかにはじめから描かれるのではなくて、描かれているものが絵画になるのである。ポロックの作品から芸術表現が失われているのではないが、画面に近づけば、それは不規則な網目でしかないし、遠ざかれば壁になってしまうといわれるのはそのためである。(p27)


それから、「『桑久保徹』②補遺:絵画の解体」の冒頭の部分を引用する。

『桑久保徹』①で気付かなかったことがある。大きな壺の絵に小さな人物が描かれているので、いったい壺が巨大なのか、人物が妖精なのか、視線がまごつくと書いたけれど、これは観者と作品の距離をコントロールするための桑久保の仕掛けたトリックだ。壺は大きく描かれているので観者は離れて見る。すると人物は小さいので良く見えないので、近寄って細部を見ようとする。そうなると、今度は知覚が作動し物質的な絵具が現れて、かわりに絵画的なイリュージョンが後退する。


同じように「近視と遠視」の問題が書かれている。観者と作品の距離が遠近の二つに分離している絵画がある。スーラの点描画、会田誠の《灰色の山》などもそうだといえる。それに対してポロックのポード絵画は遠近が分離しているのではなく、遠近の間のどこに立っても、そこから見える範囲が絵画であると藤枝晃雄は言っているように思える。

明日、ポロック展に行く。そこで作品を見てから考える。『桑久保徹論』の①と②を読んでおいて下さい。


『桑久保徹』①ARTIST FILE 2010(国立新美術館)【http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-688.html
『桑久保徹』②補遺:絵画の解体 【http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-694.html

2011.11.15[Tue] Post 00:02  CO:0  TB:0  -ジャクソン・ポロック  Top▲

ルソーの植物遠近法について

エルヴィン・パノフスキーは『〈象徴形式〉としての遠近法』の中で、遠近法は世界が理性的で秩序だったものだということを象徴していると言っている。そうすると、我々は遠近法で描かれた絵を観賞するとき、その理性や秩序の美を感じればいいのか。

それならレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》はどうだろう。弟子たちの大袈裟な身振りはともかく、部屋の空間は、ウソ臭いし、第一わたしにはちっとも面白く無い。その遠近法の分析図を見せられても、それがどうしたという他ない。もっと、分かりやすい例はホッベマの《並木道》だ。この作品は中学の図画工作の教科書の載っているから誰でも知っているにちがいない。人が作った並木道だでれど、直線的な建造物ではなく、樹木や泥道が消失点に向かって遠くまで続いているのは美しいといえば美しい。しかし、これもひどく人工的な風景に見えはしないか。

巧みに遠近感が描かれているからといって、絵画が面白くなるわけではない。私がこれまで面白いと思った遠近法の絵をブログから二つ挙げ、ブログの一部を引用する。



ゴッホ《草むらの中の幹》  『没後120年 ゴッホ展』



一番、ゴッホの風景画の秘密がよくわかるのは、最晩年の《草むらの中の幹》(1890年)だ。

この風景画も近景中景遠景で出来ている。ど うもゴッホは遠視ではないかと思われるほど、近景が大雑把に、遠景が細かく描かれている。上にあげた風景画はどれもその傾向があるけれど、《草むらの中の 幹》は草地のゆるやかな斜面に木の幹が左の二本の太いものから右上へ五六本並んでいる。キャンバスの上の縁に沿って、小道があり、白い花を咲かせた潅木が 奥の方にみえる。樹木の上部の枝葉はどれもキャンバスの上の縁で切られている。このことが、小道からの斜面を奥のほうまでつづく下草の広がりをより魅力的 なものにしている。




アンリ・ルソー《エデンの園のエヴァ》 『ルソーの〈植物遠近法〉』



ルソーにも平面的なところがあるけれど、ピカソと違って、この作品の魅力は、遠近法と月の逆光の処理、そして葉と葉の重なり具合が微妙にチグハグでありな がら、丁寧に塗られた絵具がなんとも官能的なところにある。他にルソーの風景画が二点あったが、どちらも面白くなかった。《エデンの園のエヴァ》の魅力 は、ルソーの「ジャングルの絵」に特有の遠近法にある。

建造物なら線遠近法で描ける。遠くのものは小さく、近くのものは大きく描く。しか し、植物は似たような形態の大きなものや小さなものがある。大きいからと近くにあるとは限らない。小さいからと遠くにあるとは限らない。そもそも基準とな る直線がなくて、曲線ばかり、枝も葉っぱも絡まっているし、すき間があるし、前後重なりで遠近を表すけれど、その重なり具合もはっきりとしない。しかもル ソーは空気遠近法を使わない。近くのものも遠くのものも同じ明確な線と色で描く。前の葉と後ろの葉が同じ平面で接している。

そこにシュールレアリズムのトリックとは違う、不思議な空間のイリュージョンが生まれる。わたしはこれを「ルソーの植物遠近法」と名づけることにする。ジャングルのシリーズのなかでもこの《エデンの園のエヴァ》は植物遠近法の最も優れた作品のひとつである。




ここで、我々は遠近法に関する何らかの結論をだそうというのではない。ただ、優れた遠近法というのは、理想や秩序の象徴ではなく、むしろ、空間の不連続や捩れのようなものを表わすのではないか。ここで、われわれは、例によって、マチスと藤枝晃雄に解答を探すことになる。

つづく

2011.10.28[Fri] Post 23:11  CO:0  TB:0  -アンリ・ルソー  Top▲

アンリ・ルソーの「BODY SCALE」 (『植物遠近法』その2)

『アンリ・ルソーの「植物遠近法」その1』からつづく

ルソーは風景画のなかによく人物を描き込むけれど、近くの人物より遠くの人物が大きかったりして、遠近感が狂っていることはよく知られている。人物というのは大きさの基準なのだから、それが線遠近法と辻褄があわないと大抵は違和感があるものだが、ルソーの人物は不思議な空間のイリュージョンを生み出している。

植物遠近法で描かれている『エデンの園のエヴァ』も、ジャングルの真ん中に裸のエヴァが大きな赤と青の花をもって立っている。エヴァの身体尺度から見ると花も葉も大きいことが判る。頭が大きくて髪がながく胸が小さい人体デッサンの稚拙さが、異国風の植物と呼応して、原始的で無垢な雰囲気を与えている。

ジャングルの中のヌードを描いたルソーの作品に大作《夢》があるけれど、《エデンの園のエヴァ》は小品ながらルソーの遠近法の魅力が存分に発揮されている。
2010.04.03[Sat] Post 00:44  CO:0  TB:0  -アンリ・ルソー  Top▲

アンリ・ルソーの「植物遠近法」その1

『ボナールの庭、マティスの室内』展で見たマティスの『リュート』のことは既に述べた。スカートにさした「テーブルの影」の不思議な魅力についてだったけれど、もう一つ目を惹いた作品があった。ルソーの《エデンの園のエヴァ》だ。

何度か順路を戻って《エデンの園のエヴァ》見たが、どこに惹かれるのか判らなかった。ただ、ブリジストン美術館で見たピカソの《生木と枯木のある風景》を思い出した。そのときのブログ記事から引用する。

もう一枚は『巨匠ピカソ』展ではなく、その帰りに寄ったブリヂストン美術館の『都市の表象と心象-近代画家・版画家たちが描いたパリ』展で見た《生木と 枯木のある風景》だ。次の展示室に移る端の壁に掛けてあり、「あれぇー変な絵がある、ルソーみたいだ」と一瞬、思ったけれど、すぐに家がキュビスム風で、 全体が平面的な印象に変わった。切り抜きのような雲、山、家並み、池、草地、樹木がコラージュのように重ねられている。キャプションをみるとパブロ・ピカ ソだった。(「『巨匠ピカソ』展」

ルソーにも平面的なところがあるけれど、ピカソと違って、この作品の魅力は、遠近法と月の逆光の処理、そして葉と葉の重なり具合が微妙にチグハグでありながら、丁寧に塗られた絵具がなんとも官能的なところにある。他にルソーの風景画が二点あったが、どちらも面白くなかった。《エデンの園のエヴァ》の魅力は、ルソーの「ジャングルの絵」に特有の遠近法にある。

建造物なら線遠近法で描ける。遠くのものは小さく、近くのものは大きく描く。しかし、植物は似たような形態の大きなものや小さなものがある。大きいからと近くにあるとは限らない。小さいからと遠くにあるとは限らない。そもそも基準となる直線がなくて、曲線ばかり、枝も葉っぱも絡まっているし、すき間があるし、前後重なりで遠近を表すけれど、その重なり具合もはっきりとしない。しかもルソーは空気遠近法を使わない。近くのものも遠くのものも同じ明確な線と色で描く。前の葉と後ろの葉が同じ平面で接している。

そこにシュールレアリズムのトリックとは違う、不思議な空間のイリュージョンが生まれる。わたしはこれを「ルソーの植物遠近法」と名づけることにする。ジャングルのシリーズのなかでもこの《エデンの園のエヴァ》は植物遠近法の最も優れた作品のひとつである。



『アンリ・ルソーの植物遠近法②』
2010.03.16[Tue] Post 23:13  CO:0  TB:0  -アンリ・ルソー  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。