ART TOUCH 美術展評

久米宏のCAR TOUCHにならって、五つの項目に分け、5点法で美術展を評価します。美術展を楽しみながら、現代美術理論の理解を深めます。

もみじマークと表象文化論

[5/25産経新聞から]6月1日から高齢者マーク(もみじマーク)の表示が義務化されることに対して、自民党総務会で市川一朗参院議員が、「後期高齢者医療問題で紛糾しているときに高齢者マークの義務化をすれば大変な問題になる。そもそも高齢者に『枯れ葉マーク』とは失礼ではないか」と言ったそうだ。
それに対して他の総務から、「もみじマーク」が初心者用の「若葉マーク」と葉っぱの形状が逆さまで、オレンジ色と黄色の“渋い色調”となっていることにも批判が上がったほか、「マークの縁取りが黒いのもいかにも暗示的でけしからん」との声も上がったそうだ。

本当にこんなこと言ったのだろうか。にわかには信じられないが、たとえ言ったとしても、そのまま新聞に載せるなんて、産経らしいな。枯葉マークばかりではなく、若葉マークの縁取りも黒いことを知らないわけではないだろう。

永田町がちょっとポモ的状況になっているようだけれど、こんなのは美術界では、とっくの昔に美術評論の定番になっている。カルチュラル・スタディや表象文化論と称して、深読み下種の勘ぐりのたぐいを批評と言い張る輩がいまだ跳梁跋扈して困ったものだ。

わたしは枯葉マークの義務化に賛成である。というのは我が身を振り返ってそう思うのだ。じつは田舎に引っ越して、緊張がゆるんだせいか、車を運転していて、なんどかヒヤッとした経験があったからだ。もちろんこれは年齢のせいもある。それならもみじマークを付けて、他のドライバーに注意を喚起したほうがいいと思ったのだ。

それと田舎に住んで判ったことだが、老人のドライバーがたくさん居ることだ。すごく「きびきび」と運転している軽自動車が同じスーパーの駐車場にとまったので、どんな人かと降りてくるドライバーを見たら、よろよろとあるく老婆だったなんてことが何度もあった。田舎の老人ドライバーは東京より大胆なのだ。こんなドライバーにはもみじマークを是非つけてもらいたい。

もちろん、のろのろ走る車もいる。そんなときにもみじマークを付けていれば、こちらもイライラしたり、無理に追い越したりせずにすむし、お互い気持ちよく運転できるというものだ。第一、自分でつけていれば、むりに車の流れにのることもないし、たぶん追い立てられることもなくなるだろう。まだ、義務年齢に達していないが、早速もみじマークをつけることにしよう。

老人のわがままにはほとほと手を焼く。後期高齢者医療制度だって欠陥はあるだろう、しかし、天引きにまで難癖をつけるとはどういうわけだ。老人には老人の分があるだろう。
(もちろん役人のやる改革がいい加減なものだということは明らかだ。病院の待合室を老人の談話室にしたのは誰だ。介護保険を利用できたのは収入が高い層だ。5/28追加)
2008.05.26[Mon] Post 19:02  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

ルシアン・フロイト

森美術館の『アートは心のためにある:USBアートコレクションより』でルシアン・フロイトの《ダブル・ポートレイト》を見た。以前、西村画廊でフロイトのエッチングを見たことがあり、油絵をみたいと思っていたので、一枚だけだったけれど満足した。そしたら以下の記事が出ていた。


「英国の美術家ルシアン・フロイド氏(85)の裸婦像が13日、競売にかけられ、3360万ドル(約35億3700万円)で落札された。
競売商クリスティーズによると、生きている作家の作品としては、史上最高の額という。この作品は、1995年に描かれた「眠る給付金管理者」。これまでの最高額は、昨秋に競り落とされた彫刻についた2360万ドルだった。落札者は明らかにされていない。フロイド氏は、ユダヤ人精神分析学者フロイトの孫。ベルリンに生まれ、ナチスを逃れて英国に移住した。」(YOMIURI ONLINE5/15)

2360万ドルの彫刻というのはジェフ・クーンズの《Hanging Heart》である。外国の新聞記事のコメント欄は、七ポンドでも買わない、ダイエットクラブのホールに掛ければ良い、投資のためだろう、1950年代のちゃんとした海の風景画のほうがましだ、吐き気がする、とか悪口がいっぱいだけれど、わたしは感動したが、どうなんだろう。高く売れるということは、この絵が傑作だと思っている人はわたしだけではないということだ。

このぐらい太った女の写真はネットで見たことがあるけれど、気分が悪くなった。世に「デブセン」というものがあって、そういう太った女に欲望を感じる人間がいるらしい。ルーベンスの裸体画の女たちもそうとうに太っているが、もちろん当時はそのぐらい太っている方がエロティックだったのだ。

フロイトの絵はどうみてもエロティックとはいえない。しかし、気持ちわるいわけではない。美しいとさえ言える。写真なら気持ち悪いものが、絵だとなぜ感動するのだろう。フロイトの絵はリアリズムだというが、写真のリアルな描写とはちがう。同じなら、写真を見たときと同じように気持ちが悪くなるはずだ。

気持ち悪くなる人はたぶんそこに欲望の対象になるはずの女を見ている。写真を見るときと同じ視線で絵を見ているのではないか。それにくらべ、感動する人は写真とは違う視線で絵を見ている。そう考えなければ感動の説明がつかない。

その視線の違いは、たぶん図像の三層構造からくるものだ。
2008.05.20[Tue] Post 00:09  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

『ルオーとマティス』

『ルオーとマティス』展(松下電工汐留ミュージアム)★★★★☆

マティスについては、川村記念美術館の『マティスとボナール』展の感想といっしょにニョウボに書いてもらうことにして、ルオーについての印象を忘れないうちに書いておく。

若い頃は、ルオーはどちらかといえば好きな画家だった。もちろん後期の太い黒の線と厚塗りのフォーヴ的なところが好きだった。ブリジストン美術館に見に行ったし、中国地方に旅行したときもわざわざ大原美術館に見にいった。ルオーというカレーライスを食べさせる喫茶店もあった。ルノワールと同じように喫茶店の名前になるぐらいだから、日本では人気があったのだろう。

その後ルオーにはあまり関心はなくなった。白樺派的なものやキリスト教的なものが影響したのかもしれない。ルオーの展覧会や雑誌の特集があっても気にとめなかった。今回の展覧会もマティスとの二人展でなければ、行く気にはならなかったろう。

でも、行ってみたら、面白かった。初期のデッサンはマティスよりおもしろいし、ヌードはあきらかにルオーのほうが優れている。水彩の《娼婦ー赤いガーターの裸婦》は解説に「醜い中の美」と書いてあったが、醜いところなんかひとつもない。傑作だ。

ところが、後期の厚塗りの作品がちっとも面白くないのだ。線も色も死んでいる。大小の遠近法も何の効果も上げていない。表現主義なところもせいぜい漫画的な手法にしか見えない。少しがっかりした。

帰宅してからも、なぜルオーがこんなにもつまらなく見えたのか理由が分からなかった。松下電工がだまされて駄作をつかまされたのではないかとも考えたが、パリ市近代美術館やルオー財団から借りうけた作品も多数あるから、だまされたというのは当たらない。

いずれにしても、若い頃はマティスより優れていたルオーが、年をとるうちに次第にマティスに追い抜かれていったと考えざるをえない。ルオーは絵を描く技術はマティスより優れていたのだが、絵を見る目が劣っていたのだ。それで、表現主義的な主題になるにしたがって、絵に形式的な緊張がなくなっていったのではないか。反対にマティスは技術的な修練を積み重ねる中で、線とか面とか色というものの本質を掴んでいったのではないか。二人を年代順に見ていくとそうとしか思えない。

ルオーの後期の絵が緊張に欠けて見えたのは、マティスと比較したからではないか。マティスも黒い線を使っているのだが、ルオーのような輪郭線ではなく、素描の線になっている。マチスの《黄色のドレスとチェックのドレスの娘》を見ると、黄色の椅子に座った黄色のドレスの娘は、黒い線描で描かれているし、赤い壁紙を背景にした赤いブラスを着た娘も黒い線で描かれいる。しかし、娘の桃色の腕が赤い壁紙を背景にしているところは、同じ色ではないので境界がハッキリしているからだろう、黒い線はない。また、《赤い室内の緑衣の娘》では、テーブルの脚や観葉植物の茎が、クロッキーのような素早い黒い線でデッサンされている。それに対してルオーの黒い線は色面を囲む輪郭線であり、よく言われるようにステンドグラスのような装飾的な平面になっていて、マティスのような線と色彩の面白さはない。

もちろん、これはカタログを見てのわたしの思いつきで、展覧会場で感じた失望の本当の理由なのか自信がない。そんなことより、モダニズムの一つの達成であるマティスと比べれば、大抵の画家は凡庸ということになるのだろうから、これでルオーを二流の画家だと言うことはもちろんできない。

近頃、企画不足のせいか、たとえば『ジャコメッティと矢内原』のような気の抜けた二人展が多いが、この『ルオーとマティス』展は、モダニズムを理解するのに大いに役立つし、なによりも見ていて楽しい展覧会になっている。とりわけマティスが分からないと嘆いている人には必見である。
そういうわけで星四つ半★★★★☆の大盤振舞です。




2008.04.20[Sun] Post 13:38  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

白髪一雄氏死去

日本の抽象画

白髪一雄が83歳で逝去した。白髪の作品はいろいろな場所で見た。なぜ、こんな絵の具の固まりをこすりつけたような絵を珍重するのかわからなかった。たまたま埼玉県立美術館の常設展示で学芸員が、白髪はロープにぶら下がって足で絵を描いたと解説しているのを聞いた、なんだ、手じゃなくて足で書いたから芸術なのか、それじゃ、象が手じゃなくて鼻で描いた絵も芸術だとあきれかえった憶えがある。

白髪の絵ばかりではなく、日本人の描いた抽象画のおおくはつまらない。なぜ、つまらないのか分からなかったが、先日、川村美術館でニューマンの《アンナの光》を見て、突然理解した。日本人の抽象画がつまらないのは、要するにイリュージョンがないからだ。もっと正確に言えば、反イリュージョンがないからだ。

絵画のイリュージョンは、錯視 (optical illusion)ではない。知覚に基礎づけられた想像なのだ。あるものを知覚するということは、その知覚しているものと同じ空間に観者が属しているということで、これは対象がリンゴでも絵画でも人間でもおなじことだ。ところが絵画は知覚されるだけではなく、知覚されたものを通して(中和変容して)イリュージョン(image,Bildsujet)が現出する。

《アンナの光》が知覚されるだけの事物(キャンバス、絵の具)で、イリュージョンがなければ、それは赤く塗られたただの壁である。赤い壁はわたしをさえぎり、わたしの身体を取り囲む。知覚された平面は平たい立体なのだ。ところが、この赤い物理的平面(壁)が赤い空間のイリュージョンを生めば、その空間は想像された空間であり、われわれの身体が属する空間から切断される。さらに、赤い平面は事物として知覚されるのではなく、焦点の定まらないぼんやりとした赤い広がりにみえることがある。これは知覚のひろがりでもイリュージョンのひろがりでもなく、錯視に似た空間であり、われわれの身体とは両義的な関係にある広がりなのだ。(この擬似的な錯視をロスコは部屋を暗くし、明暗差や色相差を少なくすることで実現している)

《アンナの光》は、この三つの空間が絵画の三層構造のなかで戯れており、絵画の空間とインスタレーションの空間が対立し宥和して独自の空間意識を生んでいる。

ところが、白髪の抽象画にはこのような反抽象性が欠けている。白髪の抽象画はロスコやニューマンよりもポロックに近い。ポロックの抽象画も同じように反抽象性が欠けている。イリュージョンへの誘惑も拒絶もなく、ただの模様図形パターンになっているのではないか。そのことはともかく、白髪は抽象画のイリュージョンの問題を理解せず、ただ、画家の主体性を消去するとか、描くのではなく絵の具をこすりつけるとか、キャンバスを床に置くとか、ロープにぶら下がってアクションをするとか、ポロックから派生したと思われる手法で制作したのだ。それでつまらない抽象画ができたのではないか。

他の日本人の抽象画はたいてい海外作家の手法や理論のバリエーションを考え出したり、あるいはもっと直接的にいえば、表面的な図形やパターンや色彩の模倣をしたり、さらに日本的な味付けをしたりして制作するのではないか。だから、かれらの抽象画には表現主義的な象徴性があっても、反抽象的なイリュージョンがないので見ていて退屈なのだ。

白髪以外でも、これまでブログで取り上げた李禹煥、吉原治郎、大竹伸朗など、中村一美を除いてみんな面白くなかったのはたぶんそんな理由ではないか。会田誠の《浅田批判》は岡崎乾二郎のパロディなのだが、その岡崎の作品を『わたしいまめまいしたわ』展(東京国立近代美術館)で見たけれど、案の定つまらん絵なのはいいとして、たぶん本人が書いたのだろうページの下に、世界の最先端をいくらしい絵画の理論・手法が書かれている。それを引用する。


「ディプティック(二幅対)の絵画作品。右と左のキャンパス間には、複雑かつ厳密な呼応関係が見出される。たとえば色彩やマティエールの異なる同一形態の反復。あるいは一方のキャンバスに「図」として現れた筆触が、もう一方では、おなじかたちの「地」としてあらわれるなど。左右のキャンバス間の呼応関係を追い求めるように視線の往還を繰り返すうち、観者は、個々の筆触が置かれた位置、物理的な枠組みとしてのキャンバスといった「場所の固有性」を、識別することが困難になるようなめまいに見舞われる。」

いったいわたしにどうしろというのだ。いわれたとおりにしてめまいを感じてみろというのか。そんなことしなくても、この文章を読んだだけでめまいがしてきたぞ。どうしてくれるんだ。

これだけではない。それぞれの絵には詩みたいなキャプションがついているし、ページの上のほうには、自分が書いた『ルネサンス 経験の条件』のあとがきからの引用を掲げているのだが、ヴィトゲンシュタインのクオリアに関する言葉を引用して、逆説(?)と同語反復と偽の問題をまぶしたような文章で、わたしにはいっこうに意味が分からない。岡崎氏は美術評論家としても活躍しているらしいが、作家が自分の作品を批評する特権を持っているとは思えない。

会田氏がパロディで岡崎氏を批判しなければならなかった理由がよく分かる。

会田誠の《浅田批判》へ
2008.04.11[Fri] Post 13:50  CO:4  TB:0  美術展評  Top▲

吹田文明(2)

かわせみさんという人からからコメントをもらった。返事が少し長くなったので、コメント欄から転載しておく。

かわせみさんのコメント
「私は吹田さんの展覧会を見ましたが、彼の版画には衝撃を受けました。
いまだに現役で、あそこまでのものを生み出す人はそうそういないでしょう。
今ならまだしも、作品を作り続けて何十年になるのですから時代の先をいった作品だと思います。
少し、この評価は低すぎるのではないでしょうか?
私は、皆さんに見てほしいですね。」


わたしの返事
「かわせみさん たしかに不当な評価かもしれません。でも、ブログに書いたように、わたしには木版画の面白さがわからないということなのです。詳しく書くと長くなるので、また、べつの機会にしますが、他の人が吹田氏の美点だというところが、わたしはそのまま木版画の欠点だと思っているのです。これは、小学生のころ木版画に感じたことです。あのころ新聞に小中学生の版画がよく掲載されていました。わたしはいつもそのつまらなさに腹を立てていました。そのことを吹田氏の作品を見て思い出したのです。だから余計厳しい評価なのです。ごめんなさい。

去年の東京アートフェアで吹田氏を見かけました。松田正平を展示している瞬生画廊で記帳していたので判ったのです。背の高い、画家ぶったところのない人でした。声をかけようと思ったのですが、ブログできびしい評価をしていたのでやめました。ちやほやされている芸術家ではないことは作品を見れば判りますが、やっぱり低い評価は悪口だと思うでしょう。

吹田氏が奉職していた品川区の小学校は、わたしが通っていた小学校のすぐ近くでした。わたしは、図工クラブに属しており、顧問のS先生はいつもわたしの作品を褒めてくれました。それと、図工準備室の掃除当番のとき先生のヌード作品を見ましたが、つまらない絵だったので、あーぁ、先生は才能がないんだと、ちょっとがっかりしたことを憶えています。それで、わたしのならったS先生のことを知っているかどうか吹田氏に聞いてみたかったのです。

かわせみさんは吹田氏のファンなんですね。残念ながらわたしは木版画が好きになれませんが、吹田氏が好きなひとがいるということは、なんかうれしくなりますね。でも評価を変えることはできません。この美術展評は少しだけれどココロザシがあるのです。」



2008.04.10[Thu] Post 15:44  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲
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