『VOCA展2012』 桑久保徹VOCA奨励賞
桑久保徹のことは『ARTIST FILE 2010』(国立新美術館)の展評にブログを書いた。そして以下のようにコメントした。
あれから二年たってVOCA奨励賞を受賞した。去年は絹谷幸二賞を受賞している。 今回の作品も『ARTIST FILE』とおなじ構図なのだが、色彩は黒と白とブルーグレーの落ち着いた色調で、以前のような目を刺激する尖った色使いではない。水玉(風船?)も絵画表面とイリュージョン空間をつなげて、遠景の山と俯瞰の近景が抽象的な空間のなかで一体となっている。今回のVOCA展の近藤智美、小村希史、関根直子(抽象画)などの作品もそうだけれど、イリュージョン空間の中ではなく、絵画表面に線や図形を描いて、絵画の物理的表面をきわださせる手法が流行している。 これは知覚された平面性と想像された三次元空間の分離なのだが、たいていは、後者の三人のように、絵画の平面性を見せるためだけの技法に堕している。そのなかで、桑久保徹の作品はグリーンバーグが『モダニズムの絵画』で述べた三次元空間と平面性の弁証的対立を巧みに和解に導いている。 この「三次元空間のイリュージョン」と「絵画表面の平面性」の弁証法的緊張をまとめておく。
以上はもちろん暫定的な分析である。桑久保徹の作品は「5:」と「2:」の折衷だと思われる。水玉(風船)は絵画表面の模様として平面性をあらわにし、風船として風景の中の空に浮かんでいる。もちろん、厚く塗られた絵具の小片は絵画表面の平面性を強調するとともに、離れて見れば、空間イリュージョンに生気を吹き込んでもいるのだ。 『生誕100年 ポロック展』愛知県美術館
ポロックの個展を見る機会は一生訪れないと思っていた。それが、日本初回顧展と銘打って11月11日から愛知県美術館で『ジャクソン・ポロック展』が開催される。東京の国立近代美術館でも開催されるのだが、今回は名古屋まで行くつもりだ。
藤枝晃雄が「ポロックが分からないものども」と言うとき、それは絵が分からない評論家と言う意味だが、何を隠そう私もポロックが分からない。そのことは以下のブログを読んでもらえば判る。
分らないのは、あまりポロックを見ていないからだ。ロスコに感動したのは、東京都現代美術館の個展(1996年)で、沢山の作品を年代順に見たからだ。そう思って今回のポロックの回顧展を楽しみにしている。 首振り立体視で見えた「運動視差」は、オプティカル・イリュージョンであって、ピクトリアル・イリュージョンではない。現実の三次元の空間ではないにも拘らず、あたかも三次元空間のような運動視差が生じているわけだ。運動視差のイリュージョンが生じるのは、そこに何らかの遠近のイリュージョンがあるからだ。少なくとも、ポロックのポード絵画に「重なりの遠近法」と「大小(細太)の遠近法」があることは容易に判る。もちろんこれだけでは、運動視差のイリュージョンがこれほど強く生じるとは思えないが。 藤枝晃雄の『ジャクソン・ポロック』は、何度か挑戦したけれど、初めのほうで挫折した。かわりに『現代美術の展開』に収められた『現代美術の〈不安〉』に次の言葉を見つけた。
相変わらず難解であるが、ポロックの遠近法(奥行き)の秘密が、遠視と近視のあいだの焦点の問題だと言っている。もちろん焦点の問題だとすれば、それはオプティカルなイリュージョンと思われるが、あるいはそうではなくピクトリアルなものかもしれない。今のところ私には、それが何か分からない。ただそれが運動視差のイリュージョンを生んでいることはまちがいない。名古屋でポロックを見ながら考えたいと思う。 『島田章三展』横須賀美術館(絹谷幸二評)
展覧会を見たわけではない。東京新聞の展評『島田章三展』に添えられた作品《課題制作》(1980年)が目を引いたからだ。と言うのも、最近は遠近法のことばかり考えていたので、透視図法で描かれたホワイトボードや定規類、ボードの描かれた円や三角の図形が目を引いたのだ。
書いているのは絹谷幸二で、展評ではなく紹介文だそうだ。島田章三は教師として学生の指導に熱心だったこと、自分も公私にわたりお世話になったこと、堅牢なマチエールに裏付けされた画風や同じく画家である鮎子夫人との二人三脚、今後とも多くのことを学んでいきたいことなど、賛辞を贈っている。こんな紹介文を読むと、人は島田章三の展覧会に行きたくなるのだろうか。画壇の大物同士の付き合いを述べただけの紹介文である。 最初見たときはキリコの形而上絵画を思い出した。「堅牢なマチエール」と言われるようなところは公募展風の作品にも見える。しかし、横須賀美術館の『島田章三展』の解説には、島田はヨーロッパ留学中に「キュビスムを日本人の言葉(造形)で翻訳」することを自らの課題として見出すとあるけれど、わたしにはキュビスム風のところは見えない。多視点の空間と言うより、多様な絵画言語が雑多に散りばめられているように見える。 ホワイトボードの誇張されて透視図法、そこに描かれた円と三角形が正面を向いている、床と壁が同じ表面でつながっている、白と黒の幾何学的な分割、、肩と腕の大きさが左右不揃い、無彩色の灰色の描写と彩色描写の混交、中でも、人物が石像のように灰色なこと、そして、セーターとオーバーオールとスニーカーのリアルな描写などなど、どこかちぐはぐで、眼ではなく、頭で描いているのではないかと疑われる。 もちろん、実作を見なければなんとも言えないが、すくなくとも写真でも十分に分かる遠近法やその他の描写の技法から推察して、マチスの《ニースの大きな室内》のような空気感のある室内とは思えない。もちろんこれが「キュビスムを日本人の絵画言語に翻訳」したものだとすれば、それはたぶんそういうことなのだろう。わたしにはそれ以上のことは分からない。 〔18〕美術評論とは何か:岡田武さんへの返事(5)
『美術評論とは何か』の〔16〕で掲載した図をもう一度見て欲しい。
左の窓を描いた直方体は、常に (この六角形と直方体の交替現象はオプティカル・イリュージョンというよりも、ゲシュタルトの問題のような気がする。陰影をつけても下図の円の場合ほどイリュージョンの感覚が強くなるわけではない。直方体は具象的な箱ではなく、抽象的な形体であり、建物のように具体的な大きさはない。この辺の問題は、抽象画と密接な関係があると思われる。) 下の図は『陰影による奥行き知覚』であり、通常は上から照明が当たっているように見える。上部が明るい円は凸に、下部が明るい円は凹にみえる。 ところが、下図の「hollow face 錯視」では、マスクを表(凸上)と裏(凹下)から写真にとって平面にすると、どちらも凸の顔に見える。平面ではなく、実物のマスクを裏側から見れば、両眼視差などのために凹に見える。単眼視などすれば、凸のオプティカル・イリュージョンがみえることもある。もちろん誰でもやることだが、「首振り立体視」( 銑)(運動視差のこと)をすれば、イリュージョンは消えて、凹面に見える。 ここで重要なことは、「陰影による円の凹凸」が不安定なことである。とくに凹の円は凸に見えることがある。また、凸の円が浮き上がって見えることなどから、「陰影による円の凹凸」がオプティカル・イリュージョンだということが判る。さらに、写真ではなく実物のマスクの凹面はもちろん凹面に見えるのだが、ときには凸面に見えたり、浮き上がって見える。これは、もちろんオプティカル・イリュージョンが見えているのだ。それに対して、写真に撮った凹面のマスク(図像ということ)は、凸面のマスクの写真と同じように安定して凸顔に見えるし、錯視のように浮き上がって見えない。(注1) オプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンは異なる現象だ。オプティカル・イリュージョンは錯視的知覚であり、あくまでも知覚の仲間である。それに対してピクトリアル・イリュージョンは図像意識であり、想像の仲間だ。(注2) 図像意識とは「知覚に基づく想像」であり、自由な想像とは異なる。何度も繰り返しているが、モノクロ写真の「図像客観」は、灰色の肌をした5cmの少年だが、われわれが見ている「図像主題」は、ピンクの肌をした身長120cmの少年だ。 ピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョンの違いを「色」で考えてみよう。緑の円をしばらく見たあとに、白い壁を見るとピンクの円が見える。これは網膜の生理的現象であって、モヤッとした錯視的知覚である。知覚であるから確かにピンク色の円が見えている。それに対してモノクロ写真では、知覚をしているのはあくまで灰色だけれど、それをピンクの肌として見ている。それは知覚した客観的図像の存在定立を中和化して、線や色や形ではなく、図像主題(意味)の少年を見ている。知覚している図像客観を超越して、図像主題を想像志向する。 絵画は言語と似ている。言葉も絵も、自分自身ではない他のものの代わりを(stand for)する記号だ。我々は文字を知覚している。しかし、文字を見ているのではなく、意味を見ている(記号意識)。文字は弁別差異のシステムだから、差異が弁別できれば、如何様に書いても意味が分かる。音声でもジェスチャーでも構わない。絵画も知覚している。しかし、文字と同じように絵具や線を見ているのではなく、林檎だとか人物だとか具体的な対象を見ている(図像意識)。絵画は弁別的差異の記号ではなく、類似によるアナログ記号だから、線や色や形の微妙な違いで、ピクトリアル・イリュージョンは様々に変化する。絵画の秘密は、この知覚に基づく想像ということにある。自由な想像のように観者の勝手にならない所が、むしろ、絵画の豊かなイリュージョンを生み出す。 イリュージョンが、そうでないのにそう見えるということ、あるいは、あたかも知覚しているように見えるということなら、ピクトリアル・イリュージョンはイリュージョン(錯視)ではない。絵画は平面上の線や色や形の「知覚に基づいた想像」であり、図像主題というのは「意味」でもあるのだ。 さて、図像客観と図像主題の違いをもう一度確認しておきたい。実際の絵画を見るときは二つが截然と分かれているわけではないし、オプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンも同様である。知覚と想像が混じっているのだ。しかし、現象学的還元をして、ということは、意識の志向的対象に注視するのではなく、対象を志向している意識の方に注意をむけながら、対象がどんなふうに現れるかを見れば、知覚と想像とイリュージョンの違いが見えてくる。モノクロの写真の少年の図像客観は肌は灰色で身長は10cmだが、図像主題の少年は肌がピンクで身長が120cmぐらいに見える。灰色ではないことは、たとえば、白黒の広告写真で、モデルが身につけている商品(装飾品など)だけがカラーでプリントされていると、モデルの肌はピンクではなく、灰色に見えるので、不気味な感じがする。一部がカラーなので、モノクロ写真ではなく、カラー写真として見られるのだ。それで肌の灰色が灰色に見える。 前々回の「線路」の絵を見て欲しい。「一番手前の枕木と五番目の枕木はどちらが長いですか」と問われたら、たぶん同じ長さだと答えるだろう。しかし、「一番目の黒い線と五番目の黒い線はどちらが長く描かれていますか」と問われたら一番目の線が長いと答えるだろう。前者は図像客観、後者は図像主題である。図像客観は知覚している線分で、図像主題は同じ長さの枕木だ。遠くにあるので、短く描かれている。この場合、われわれは図像客観と図像主題を比較的自由に切り替えることができる。 それに対して、正常な知覚と錯視的知覚は自由に切り替えられない。ポンゾ錯視の例(Wikipedia)を見てみよう。 下の黄色の線は線路の内側にあり、上の黄色の線は線路の上に橋渡しされているので、遠近法的空間としてみれば、明らかに上の黄線のほうが長い。しかし、図像主題の遠近法的空間ではなく、図像客観の平面的図形として眺めた場合はどうだろう。上の黄線のほうが長く見えるような気がするけれど、確かではない。目を細めて日本の線を比較すれば、同じ長さに見えなくはない。黄線は目立つので、線路の遠近法的空間から図像表面に浮き上がって見えるような気もする。そうなると同じ長さに見えてくる。赤い平行線は、二本の黄線が同じ長さであることを示す補助線のつもりなのかもしれない。しかし、生憎、赤い補助線は平行に見えることもあるし、下のほうが狭くなっているように見えることもある。その場合は、下の黄線が短く見えているということだ。これも、ポンゾ錯視の一種なのかもしれない。しかし、二本の黄線は「本当は」同じ長さなのか、それとも下の黄線が短いのか我々には判らない。 二本の線が同じ長さだということは、物差しで測るか、重ねて見るしかない。二本の線が離れていたり、角度がことなると、長短は余計に曖昧になる。 ポンゾ錯視がオプアートのように、ハッキリと錯視的知覚(オプティカル・イリュージョン)と判るなら都合が良いのだが、残念ながらポンゾ錯視もミュラー錯視もチラチラしたり、浮き上がったりするようなものではない。上の黄線のほうが色が濃く太く見えるけれど、それが知覚なのか錯視なのかは、やはり測定するなり、近づけて比較するなりしなければ判らない。 われわれはミュラー錯視やポンゾ錯視を否定しているのではもちろんない。様々な視覚実験から、客観的に同じ長さの線分が背景や周りの図形の影響を受けて、異なる長さに見える「錯視」があることは間違いない。しかし、われわれは通常の絵画の観賞では見えるとおりに見るのであって、客観的長さはどうなのかは関心がない。もし、その錯視現象がチラチラしたり、浮き上がって見えたりして、逸脱した知覚(オプティカル・イリュージョン)であると判ったとしても、それはただのオプ・アートということである。もちろん、ポンゾ錯視を認知できるよう工夫した実験装置をインスタレーション・アートだと主張して、美術館に展示することはできる。 以上は暫定的な分析である。現象学とは常に暫定的であることを覚悟する学なのだ。我々にとって重要なことは、知覚と錯視的知覚と「知覚に基づいた想像」である図像意識を区別することである。絵画を見るということには、この3つの意識作用に立ち会うことなのだ。 次回は「遠近法」について。 注1:『奥行き知覚と行動 : 陰影とハイライトが奥行き知覚に及ぼす効果』(井上浩義 熊本大学学術リポジトリ)が参考になる。 注2:ブログ記事『絵画の現象学』参照〔http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-707.html〕 〔17〕美術評論とは何か:岡田武さんへの返事(4)
前回、われわれは、知覚とオプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンを区別した。といっても、三つは明確に区別できるわけではなく、具体的な作品では二つあるいは三つが入り交じっていることが多い。例えば小林正人の《LOVE》がそうである。
彫刻などの立体では、知覚が強く働き、イリュージョンはなかなか見えてこない。モノクロ写真の人物は等身大に見えるし、肌はピンクに見えるけれど、ミニチュアのフィギュアはミニチュアに見える。鉛の兵隊と夢中に遊んでいる子供には、兵隊は等身大(ピックトリアル・イリュージョン)に見えている。立体でもオプティカル・イリュージョンが見えることはある。ジャコメッティの《頭蓋を欠いた頭部》の頭蓋が盛り上がって見えたのは、もちろんオプティカル・イリュージョンだ。(これは、人間の頭蓋骨は凸だという経験が影響を与えているので、ピクトリアル・イリュージョンも共働している) わたしが「立体遠近法」と名付けたイリュージョンがある。ニキ・ド・サンファルの《ナナ像》や東京都写真美術館の地下展示室にある「アーケードの模型」がそうなのだが、知覚空間では、遠くのものは小さく見えるのに、さらに小さく収縮させることで、遠近感を誇張する方法が立体遠近法だ。「立体遠近法」については私のブログ記事『ニキ・ド・サンファル展』に詳しく書いてある。 5年前に書いたものだけれど、すでに立体的遠近法を「錯視的知覚」(オプティカル・イリュージョン)、絵画の遠近法を「図像的想像」(ピクトリアル・イリュージョン)と区別している。「錯視的知覚」とはおかしな言い方だけれど、立体遠近法の知覚と通常の奥行きの知覚と比べて見れば、その違いはハッキリしている。立体遠近法の空間は正常な知覚ではないという感覚が伴うのだ。我々が奥行きを知覚するのは、線遠近法のほかに、輻輳角、水晶体の調節、両眼視差、あるいは重なりあいとか、なかんずく、知覚空間で重要なのは身体感覚で、見る位置を移動すれば、見える側面た重なり具合も変化し、これも奥行き感覚には影響を与える。知覚ではこれらが統合されて奥行き知覚が生じるのだが、それらが互いに齟齬をきたすと、それを解決するために擬似知覚が生じる、それが錯視的知覚なのだ。 オプティカル・イリュージョンは、すでに述べたように平面に描かれた図形でも生じる。オップ・アートの錯視はチラチラしたり、回転運動のイリュージョンが生じるけれど、これが、通常言われるオプティカル・イリュージョンだ。そんな激しい変化ではないオプティカル・イリュージョンももちろんある。図地反転の「ルビンの盃」は図形と図像の中間であるが、図と地の現象自体はオプティカルな現象である。 知覚心理学は様々なイリュージョンを区別している。ここでは「絵画を見る」視点から、奥行きを例に、「知覚」と「錯視」と「図像意識」、対象に即して言えば、「事物(自然)」と「図形」と「図像」の見え方の違いを整理しておく。まず、知覚と図像意識の奥行きは安定している。現実の並木道も廊下も線遠近法的に見える。並木道や廊下を遠近法で絵に描いても安定的に奥行きがあるように見える。チラチラしたり、二つの現れ方が交替に現れたりはしない。 しかし、事物にも図像にも奥行きのオプティカル・イリュージョンが現れる。事物の知覚では、既に述べた「立体遠近法」の誇張された奥行きがそうだし。また、図像では、両眼立体視がオプティカル・イリュージョンだ。事物(彫刻)と図像(絵画)が合わさったようなオプティカル・イリュージョンもある。ジャコメッティの胸像は、頭部が左右に胸部が前後に押しつぶされて板状になっている。それが十字に組み合わされているので、ぐるりと視線を移動させると平面と立体の組み合わせでオプティカル・イリュージョンが生じる(と思われる)。また、シュテファン・バルケンホールの木彫は荒削りの木肌に彩色をして絵画のような像を作っている。ジャコメッティやバルケンホールの彫塑の知覚とオプティカル・イリュージョンと(図)像イリュージョンは、見ることによって区別できる。 立体遠近法というのも、実は立体と平面の合成によるオプティカル・イリュージョンである。そもそも絵画の奥行きを表現する遠近法を彫刻に適用したのがニキ・ド・サンファルの《ナナ像》だ。 図像(絵画)のイリュージョンは安定したピクトリアル・イリュージョンだということはすでに述べたが、立体視ではなく、通常の絵画にもオプティカル・イリュージョンが現れることがある。たとえば、ハイパーリアリズムで描かれた林檎が浮き上がって見えることがある。これは明らかに錯視的知覚(オプティカル・イリュージョン)である。われわれは、それが正常な知覚ではないことを了解しているし、知覚の生理学に反している限りオプティカル・イリュージョンは不安定な現象なのだ。それに比べ、セザンヌの林檎は浮き上がっては見えない。常に安定してそこにある。 次回は、我々の主題であるピクトリアル・イリュージョンについて述べる。 |
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Author: 安積 桂 カテゴリー
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