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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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会田誠の政治学(前編) 「“スキャンダル”からの足の洗い方」(佐々木豊)

東京都現代美術館の企画展『子供展』の会田家の展示作品のうち、《国際会議で演説する日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》と《檄》のニ作品が現代美術館側から「子どもにふさわしくない」という理由で、改変あるいは撤去を求められるという騒動が起きた。

会田誠は猛然と抗議した。しかし、「表現の自由」を主張したわけではない。ただ、展示作品は政治的な作品ではないし、これまでも美術作品で党派的な主張をしたことはないと、改変撤去の不当性を訴えただけだ。

確かに、これまでの作品、たとえば、《戦争画RETURNS》や《原爆ドーム》など多くの政治的社会的な作品を描いているが、どれも、反核反戦やPCやフェミニズムの図解的な表現を免れている。彼の作品には常に多義性とアイロニーが隠されている。

会田誠が28歳のとき、小学生や中学生になって描いた《ポスター》シリーズがある。そのなかに小1の《平和》と小6の《愛》のポスターがあるのだけれど、「LOVE and PEACE」といえば、「お花畑の思想」である。ところが、そのポスターは小学生が描いたもので、大人の口真似をしているだけか、あるいは先生が出した課題にしたがっているだけかもしれない。誰も小学生がそんな「深い思想」を持っているとは思わない。そして、それはSNSデモに参加しているという若者たちへの皮肉にもなるだろう。

《ポスター》シリーズにアイロニーがあるのは、奈良美智の「NO NUKES, NO WAR」のプラカードを持ち、怒りに燃えた目をした少女の絵と比べてみれば、一目瞭然だ。そう考えれば、《国際会議で演説する日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》と《檄》の二作品は一方の党派を支持するような政治的なものではないという会田の言い分を認めることができるだろうし、「子どもにふさわしくない」という批判は不当な言いがかりだといえる。もちろん、どんな理由があろうが、いったん展示を認めたものをあとで撤去しろというのは論外だ。

しかし、問題はその後だ。会田誠が「政治的なものではない」と、いくら主張しても、それに逆らうように、これは「極右政権安倍内閣の批判」だという意見が内外から出てくる。何故だろう。

《国際会議で演説する日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》に関しては容易に理解できる。事情は「従軍慰安婦」と同じで、欧米人には日本の性文化が理解できないように、江戸時代の鎖国制度の歴史的意味もを知らないからだ。そんな欧米人にとって鎖国政策は、難民を受け入れないネオ・ナチということになる。日本語ができない外国ジャーナリストの情報源は限られているということもあって、安倍首相と聞けば条件反射的に歴史修正主義者と考えるようだ。

国内では《ビデオ作品》より《檄》の方がより多くのコメントを集めたという。《鎖国》が日本であまり騒がれないのは、江戸時代の鎖国を知っているし、近い将来東アジアで破綻があれば、否応なく難民問題に直面するのだが、サヨクはことの重大さに気づかない。それに比べると、《檄》は、直接文化行政に関わる文科省を批判しているので、「撤去要請」は権力による「表現の自由」の弾圧だと、絵を見る目のない美術評論家ならぬ表象文化論者が、だれでも言えることを言っているだけなのだ。

いかなる党派にも与しないというのは結構だが、会田家の展示室のサブタイトルは「(大人も子どもも)社会を考える」ということなら、子どもだって言いたいことを自由にいうのが「民主主義」の真理などと、「硬直した言語使用」をせずに、政治や歴史を知らなければならないことのヒントを子どもにも与えてやることが重要ではないか。政治はつねに二重の意味が潜んでいることを誰よりもよく知っているは会田誠自身ではなかったか。もちろん、《檄》もユーモアだと言っているわけだが、それはサヨクの言説をまぶしたドタバタの家庭劇であり、《原爆ドーム》や《ポスター》にあるようなアイロニーはない。

会田誠は、もはや富国強兵殖産興業の時代ではないという。「江戸時代の鎖国」が平和をもたらしたとすれば、「明治維新の開国」は、日本をアジアで唯一の自立した独立国家としての平和をもたらしてくれたのであり、当時のアジアの状況を鑑みれば、単純に富国強兵が軍国主義というのはあたらない。現代の世界を見渡してみても、言葉は古くなったけれど、依然として、「富国強兵殖産興業」が自立と平和のために重要であることは言うまでもない。   

経済力や軍事力のない国は他の強国と同盟を結ばないかぎり平和は得られない。もちろん同盟で守られる平和は偽りの平和であり、自立するには自主防衛しかないのだけれど、アメリカは、習近平訪米の帰国土産に、中国の新幹線の導入を決めたことで明らかなように、対中宥和政策をとっており、日本は裏切られることを覚悟して置かなければならない。アメリカが日本に核武装を認めないかぎりアメリカを信用するわけにいかない。とはいっても、中国と同盟を結ぶ選択肢はありえないだろう。

教科書検定の問題はもっと「政治的」だ。検定制度は教育委員会の教科書採択制度と一緒に考えなければならない。誰が何故、検定制度を廃止しろと言ったのか分からないが、おそらく、検定はお上が子どもの教育に介入する検閲のようなものだと考えているのではないか。しかし、これは一面的な見方である。検定制度を逆手に取って文科省に政治的な圧力をかけることもできる。また、教科書採択の権限をもつ教育委員会はもちろんのこと、現場の教師も大学も教職員組合もサヨクが支配している。文科省が日教組潰しを止めたのは、組織率が減少したからではない。非組合員もみんな左傾して、今では両者はグルなのだ。

高尚な芸術にこんな政治的駆け引きのようなことを言って申し訳ないが、会田誠さんが檄文は「政治的なものではない」と言いながら、他方では、津田大介氏の東京都教育委員会が一部の学校で育鵬社の教科書を採択したのは、教育委員会の人事に政治が介入したからではないか(うろ覚え)というツブヤキをリツイートして、自分の今回の撤去要請の背景に同じようなことがあるのではないかという。そのあと会田さんはこれまでなかった政治的なツブヤキが、一時的にしろ、多くなったよう気がする。村上隆のように少しでも橋下大阪市長の文化行政教育行政を知っていれば、津田大介氏のレトリックにだまされることもなかったはずだ。

これ以上、政治的かどうかの議論をしても仕方が無いような気がする。会田さんが「コンセプチャリズム宣言」をしたときに、いずれこうなることは分かっていた。そもそも、「現代美術」には、藤枝晃雄の「擬似コンセプチャリズム」が蔓延しているのであり、そうなれば、岡崎乾二郎が「拡張されたPC」といって批判している安易な政治的芸術の流行に逆らうことは難しくなる。

もっと卑近な話をしよう。世間話で芸術を論じるのが得意な佐々木豊さんにもう一度お出まし願おう。じつは、《Round About》の「佐々木豊VS会田誠」の対談のタイトルは『“スキャンダル”からの足の洗い方』なのだ。会田誠はもともとエロと政治の二本立てと言ってもよい画歴を重ねてきたが、一般的にはエログロの画家として知られ、自分では「鬼畜系」といっていた。イラストレーターと言われ、低い評価に甘んじていた時代もあったが、時代は変わって、超絶技巧のイラストが評価される時代になった。山口晃といっしょに、自分たち二人は「勝ち組」だと言いながら、こんなことは長くは続かないと自戒の念をこめて付け加えてもいる。

会田誠は、山口晃とちがって、正統的な現代美術家で、抽象画にも挑戦したし、最近の作品で、今回、改修撤去を要請された《安倍首相の鎖国演説》は、ドイツの難民問題が起きたことを考え合わせれば、『チャプリンの独裁者』をしのぐ傑作と評価されるときがくるだろう。《文字》シリーズの《I-DE-A》(美少女パファーマンス)は、コンセプチャル・アーティストの元祖コスースの《一つと三つの椅子》がプラトンのイデア論の図解でしかないのにくらべ、自慰という欲望のパフォーマンスによってイデアの実在を証明しようという「真正のコンセプチャル・アート」になっている。抽象画はともかく、他の作品はどれも現代美術としては世界でも通用する優れたものだが、相変わらずエロとグロのスキャンダル作家の汚名をそそぐことは出来ない。

森美術館の個展『天才でごめんなさい』展では、児童ポルノ疑惑のスキャンダルに巻きこまれ、企業からの協賛は少なく、どういうわけか、現代美術評論の重鎮椹木野衣に、歴史の評価を受けなければ、それはエロチシズムではなく、ポルノグラフィーだと批判される始末。話題性のためか観客は大入りだったが、“スキャンダル”からは足が洗えない状況が続いた。会田自身が青森県立美術館の「美少女の美術史」展に声がかからないとか、『美術手帖』のポップ・アート特集に《書道教室》を載せてくれないと嘆いていたぐらいだ。

ところがどうだろう。今度の『子供展』の《(大人も子どもも)社会を考える》という会田家の展示で、一挙にスキャンダル・アーティストの「汚名」を返上してしまったのだ。朝日からインタービューを受けるし、これまでドメスティックなアーティストだと思われていたのが、海外でも反響を呼ぶし、一躍、山口晃を尻目に、現代美術のスターになってしまった。

会田誠が、国内でも国外でも、いまひとつ評価されないのは、エログロもあるだろうが、それよりもイデオロギーの問題なのだ。日本の現代美術の世界は圧倒的にリベラルに支配されており、リベラルでなければアーティストにあらずの観を呈している。そんな日本の現代美術の世界で、会田誠は日本的な古いサヨクとウヨクの図式的対立を頭に入れながらも、どちらにも偏らない、だからと言って折衷主義にも陥らない、アイロニーに満ちた作品を生み出してきた。

今回、撤去要請された二作品も政治的なものではないと言っているのだが、撤去を要請している側も、撤去に反対している側も、ともに会田家の展示が政治的なものだと思っていることに関しては同じなのだ。そもそも、会田家の展示室のサブタイトルが《社会を考える》というのだから、展示は政治的なものだと自白しているようなものなのだ。「社会性」といえば、奈良美智が、クリスチャン・ラッセンと同じ癒し系と言われて、自分には社会性があるんだとひどく憤慨していたことがある。その奈良さんが自分の少女キャラに「NO NUKES, NO WAR」のプラカードを持たせたわけだが、イルカだってそのぐらいのプラカードをぶら下げることはできる。

「社会」という言葉に釣られたわけではないだろうが、これまで、《戦争画RETURNS」》や「反フェミニズム的作品」のためか、「ウヨク疑惑」がついてまわった会田が、今回の「安倍右翼政権批判」と思われる(誤解された?)作品で、「朝日」などリベラルなジャーナリズムから自分たちの仲間だと認められたのだ。これで、会田さんは右翼疑惑を晴らすこともできたし、ついでに、スキャンダル作家の汚名も返上できた。リベラルにはそれだけの魅力があるのだ。

前編おわり

以上で、話は終わらない。ここまでは表向きの話で、実は《檄》には別の話が隠されている。あらかじめ断っておくが、これは作品の話ではない。会田という作家の話なのだ。
 《檄》を見たとき、『青春と変態』を読んだとき以来の涙がにじんだ。感動したのは《檄》を「私小説」として読んだからだ。当然、筆跡を見る。「会田家」の署名を見て、「新潟の会田家」を思い出した。唐突だが、《檄》の背後には「父との和解」の物語が隠されているのではないか。そう考えれば、会田さんが《檄》は「政治的なものではない」と抗弁している理由が分かる。
 後編はそのことに付いて考えてみたい。

 

スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2015.10.03[Sat] Post 14:39  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

VOCAは写真を追放すべきだ。

VOCA展の応募規定は絵画ではなく、「平面作品」である。公募団体展では写真や版画は独立の部門にしていることが多いけれど、VOCA展では、写真や版画も絵画と同じ平面作品に分類される。「平面性」を支持体の形状と考えているからだ。それなら、支持体の形ではなく図像の内容からみて、いったい写真の平面性と絵画の平面性は同じものだろうか、それとも異なるのだろうか。

2003年にVOCA10周年を記念して、「絵画、写真、映像? 現代美術の行方」というタイトルでシンポジウムが行われた。そこで、パネリストの宮崎克己(ブリジストン美術館学芸課長)が、「絵画、写真、映像」の区切りについて、4つにまとめた。

①:映像は動くのに対して写真・絵画は静止。
②:絵画は描くという身体的な動作で作品が制作され、映像・写真は工学的装置でつくられる。
③:絵画は一点ものだが、写真・映像はオリジナルが無意味になるほどの複製が可能。
④:“芸術”というものとの関係性。絵画は密着しているが、映像・写真はそれが希薄。

映像は厳密な意味では平面とは言えない。誰もが知っているように映画が上映されているとき、われわれはスクリーンの平面性に気づかない。映像が静止すると、スクリーンの平面があらわれる。絵画(平面作品)の空間は、平面の知覚に基づいて「想像」されているけれど、彫刻(立体作品)は原則的に両眼視差によって三次元として「知覚」されている。映像が静止しているときは、写真なのだから、絵画とおなじように平面の知覚に基づいて空間を想像している。(実際には写真の場合は印画紙に注意を向けないと平面には気づかない。モダニズムの絵画はこの平面性を宣言する)。平面には両眼視差が生じないから、知覚ではなく、平面の知覚をもとに想像がはたらくのだ。ところが、写真が動いて映像になると、「両眼視差」の代わりに「時間視差(運動視差)」が生じ、三次元空間の「擬似知覚」が生じる。写真と映像では空間が異なるのだ。

それ故、動画は単純に平面作品とは言えない。絵画が動けばアニメになり、写真が動けば映画になる。動けば「運動視差」が生じるからだ。映画もアニメも、動画は三次元の立体映像だ。ほかに色眼鏡などを使って「両眼視差」を人工的に作り出す立体映画がある。立体映画は両眼視差と時間視差(運動視差)がうまく協働しない。運動視差だけの映画の方が自然である。しかし、絵画の三次元空間は知覚に基づいた「想像」であり、「運動視差」や「両眼視差」の立体視とは別のものだ。片目でも絵画の遠近法の奥行きが見えるのは「知覚に基づいた想像」だからだ。錯視(オプティカル・イリュージョン)ではなく、ピクトリアル・イリュージョンなのだ。

両眼視差を人工的に生み出す方法は色眼鏡の他にもさまざまある。無理やりつくりだすと不自然な立体視が現れる。動きだけで立体的に見える映画にさらに人工的な両眼視差を加えると、観客はみんな吐気に苦しむ。また、アマチュアが手持ちのカメラを振り回して撮った前衛映画も吐気をもよおす。自分の体がふりまわされたようで、平衡感覚が働かなくなるからだ。これが、メルロ・ポンティの言う「受肉」ということだ。

動画には静止画とは異なる空間のイリュージョンがある。また、漫画のコマ割りによって生じる運動空間も独特のものである。これに関してはすでに私の「漫画論」(『漫画とアニメと絵画』)で詳しく論じた。「絵画と漫画とアニメ」の空間はそれぞれ性質の異なる三次元空間のイリュージョンである。

以上は「運動」のあるなしで、静止画と動画の空間のイリュージョンの違いについて述べたのだが、「描写」の違いによる空間の違いもある。素描(線)の空間、絵画(線と色)の空間、陰影のある写実的な空間、モダニズムの平面的な空間、ハイパーリアルな絵画の空間、写真の空間と並べてみれば、静止画の空間の違いが分かるだろう。もし、「絵画の奇跡」があるとしたら、それはショーヴェ洞窟の木炭画であり、もっとも奇跡に遠いものは写真である。現代美術を「絵画(想像)とオブジェ(知覚)とコンセプト(観念)」に分けるなら、写真はオブジェに分類される。それは、次に述べるように、「現前性」の問題に関わってくるだろう。

次の②と③は、同じことを別の視点から言っている。絵画は「アイコン記号」であり、写真は「アイコン記号」と「インデックス記号」の両方の性質をもっている。アイコン記号は意識の「志向性」であり、インデックス記号は物理的な「因果関係」である。写真が証拠になるのは、写真と被写体の関係が物理的な因果関係であって、類似性による記号作用ではないからだ。そのことがかえって写真が証拠あるいは記録として、現代美術に重要な影響を与えることになる。このことを論じた美術評論にヴィクター・バーギンの『現前性の不在ーコンセプチュアリズムとポストモダニズム』がある。とくに、インデックス記号としての写真がコンセプチャリズムと結びついて、現代美術を支配していることを手際よくまとめている。

ただ、バーギンの理論はマルキシズムの影響を受けてかなりイデオロギー色の強いものだ。絵画は美的で、ブルジョワの趣味や教養のためのものであり、今では、雑誌や新聞の挿絵は写真にとって代わられた。かってステンドグラスがそうであったように、絵画はもはや時代錯誤になった。しかし、取って代わったのは、インデックス記号としての写真であり、「絵画の真理」は、依然としてショーヴェの木炭画やマチスの平面性、ピカソのキュビスム、そして北斎の春画にある。こんなことを言えば、絵画はその「現前性」ゆえに、真理から遠いとバーギンなら言うかもしれない。しかし、「絵画の真理」と「写真の真理」とは違うものだ。写真の真理は対象との一致であり、絵画の真理は「存在の開示」(ハイデッガー)なのだ。

最後の④は何を言いたいのか分かりにくいけれど、おそらく絵画原理主義者の本江邦夫が、平面作品として絵画と同等の資格があるはずの写真をどうしても認めたくないので、絵画より一段劣るメディウムとして差別化を図るために、「絵画的な質」があれば、写真も認めて良いと言ったことに、宮崎克己が配慮したのだと思われる。もって回った言い方だが、選考委員には写真の専門家もいるだろうし、そもそも絵の分からない学芸員にとって写真家の個展ほどお手軽な企画はないわけで、彼等にとって写真は死活問題なのだ。本江邦夫としては妥協を謀ったつもりだろうが、それがVOCAの命取りになる。

写真はアイコン記号としては絵画の仲間である。写真が絵画と異なるのは、「絵画あるいは芸術としての質の問題」だと本江邦夫はいう。写真は正確である、しかし、芸術としては絵画に劣るということだ。写真が発明されたとき、「絵画は死んだ」と言われたのは、絵画の描写が写真の描写の正確さにおよばなかったからだ。しかし、しだいに絵画の独自性が自覚されるに従って、写真史の中で「ピクトリアリズム」という表現方法が流行したこともあった。ソフトフォーカスやプリントの雑巾がけなどして画像をボカして、写真の正確な再現性を弱めて、「芸術性」を高めようとしたのだ。

ほかにも、写真の「芸術としての質」を高める方法は、構図、照明、スローシャッター、ブレ・ボケ・アオリなどいろいろあって、たとえば、土門拳、森山大道、柴田敏雄、杉本博司、荒木経惟、森村泰昌などの写真も一種のピクトリアリズムといえる。VOCA関係では、99年VOCA賞のやなぎみわ、06年大原美術館賞の蜷川実花がそうだ。今年のVOCAにも福田龍郎や本城直季が「絵画的質」を高めた写真が評価されて、推薦されている。最近はPhotoshopなどPCで加工した作品も増えているけれど、どれも小手先の工夫で、「絵画の真理」とは無縁のもので、一瞬、目を惹くけれど、すぐに飽きてしまう。

そのかわり写真家はまるで思想家哲学者のように喋る。写真は証拠であり、レディ・メイドあり、リテラルなオブジェなのだから、新聞や雑誌の記事はキャプションになる。この辺りから本江邦夫の情熱にも拘わらず、絵画の根拠が写真によって崩れはじめたと思われる。アイコンとしての写真からインデックスとしての写真へ、そしてインデックスからコンセプチャリズムの写真へと、絵画に危機が迫っている。そうだとすれば、できるだけ速やかに、写真をVOCA展から追放すべきだろう。ところが本江邦夫は油断した。写真でも絵画的な質があれば、絵画の仲間だと認めてしまったのだ。絵画的な質を持った写真としてやなぎみわや蜷川実花に賞を授与したわけだ。「絵画の忘却」である。

そして、今年は最もインデックス記号らしい写真がVOCA奨励賞と大原美術館賞を受賞するという、本江邦夫が選考委員会で居眠りしていたのではないかと思えるようなことが起きた。大原美術館賞を受賞した川久保ジョイの《千の太陽の光が一時に天空に輝きを放ったならば》はインデックス記号100%の写真と言って良い。もちろんオレンジ色とか大判のプリントとか、絵画的な質を加えているけれど、これは個人の外部被曝線量を測定するために用いられる線量計のフィルムバッジの発想をそのまま利用したインデックス記号、すなわち被曝線量のデータなのだということは誤魔化しようがない。

フィルムバッジのことに誰も触れないことも怪訝だが、「線一本引けない」アーティストたちが3.11で一山当てようと福島詣を繰り返しているのを尻目に、絵とは無縁の写真家がフィルムを使った線量計のアイディアを使った「コンセプチャリズム」に文学的宗教的タイトルを付けて、本来絵画のためであったはずのVOCAの賞を横取りしてしまうという結果になったわけだ。

もう一つの受賞作(奨励賞)である岸幸太の写真作品《BLURRED SELF-PORTRAIT》も、また二重の意味でインデックス記号である。まず、写真の描写が、最初の写真といわれるニセフォール・ニエプスの《彼の家の窓からの眺め》のようにグラデーションを欠いた版画のような明暗二値的な描写だということだ。版画は言うまでもなくインデックス記号である「痕跡」だ。その他、影や現像液のしたたり、アクションの跡など、インデックス記号が盛りだくさんで、いわば、コラージュの手法が写真に芸術風味をつけるためのものになっている。

ところが、《BLURRED SELF-PORTRAIT》には、もう一つのインデックス記号が隠されている。それは、1871年6月、パリコミューン支持者がこのバリケードの上で撮った記念写真が証拠となって、ギロチンで処刑されたという、「写真は証拠になる」という有名な写真史のエピソードだ。証拠になるのは写真がインデックス記号だからで、写真は指紋であり、今でいえばDNAの塩基配列のようなものだ。ここではコラージュは芸術風味ではなく、社会批判の手法になっている。

このエピソードは、写真家なら誰でも知っているエピソードだ。しかし、誰も、本江邦夫でさえ、そのことに触れない。川久保ジョイは写真を絵画的質を持った抽象表現主義的作品として出品しているのだから、フィルムバッジのことを隠すのは分からないではない。しかし、岸幸太の写真はコンセプチャリズムとして積極的に政治にアンガジェしているのだから、権力側の写真を証拠にしてのギロチン・テロのエピソードに触れないのは不思議といえば不思議だ。

実はVOCAにおける絵画原理主義者の本江邦夫の存在を考えれば不思議ではないのかもしれない。本江邦夫は絵画主義者でありながらフォーマリズムの視点から絵画を理解していない。絵画は平面だというのは正しいのだが、そうなると写真も絵画になってしまう。もちろん写真は「ピクチャー(picture)」なのだから絵画には違いないのだけれど、機械的に作られた写真はいくら手で描いた絵画より正確だとしても芸術的な質では劣る。それでも、「絵画的な質」があれば写真や映像もVOCA展の資格があると妥協したが、実際にこれまでVOCAで受賞した写真作品はフォーマリズムの視点から芸術的に優れていると言える作品はないだろう。

本江邦夫はアイコン記号としての写真と妥協をはかろうとしているが、実は彼が恐れなければならないのはインデックス記号としての写真の方だ。インデックスは絵画の想像力を抑圧する。インデックス記号の暴力は写真だけにあるのではない。版画もまた足跡と同じようにインデックス記号だ。そのことを本江邦夫も感づいているらしく、『依存について』と題した今年の選考所感で受賞した三作品を「依存的だ」と批判しているのだが、三作品ともインデックス記号なのだ。まず、VOCA賞を受賞した小野耕石の《Hundred Layers of Colors》は「シルクスクリーンで網状の版を通して、ひたすら色インクを重ねて刷る」という方法、すなわち「描く」のではなく絵具の痕跡を積み重ねるという方法によってつくられた作品なのだ。

「依存的」というのは、どうやら「既存のシステムや権威に依存する」ことらしいのだが、具体的にどんなことを意味するのか、例によって江本邦夫の言うことは難解だから、こちらで勝手に解釈すると、シルクスクリーンに独自の工夫を加えた新奇な技法に絵画表現が「依存しすぎている」と本江邦夫はいいたいにではないか。現代美術が「絵画表現」ではなく、新奇珍奇な「描写技法」の競争に陥っていると批判したのは柿栖恒昭だ。新しい「描写技法」の開発に便利なのはアイコンよりもインデックスだろう。絵画は洞窟の画家のように手で描かなければならない。例えば、CGはコピー&ペーストがいくらでもできるのだから、アイコンというよりもインデックスなのだ。インデックス記号は工夫次第で、絵の描けないアーティストも新奇珍奇な描写技法の競争に参加できる。シルクスクリーンや写真という既存のシステムに工夫を施すことで、ちょっと見には新奇な作品のように見えるということだ。

VOCA賞の小野耕石は画材のリストからシルクスクリーンをはずし、大原美術館賞の川久保ジョイはアイディアをもらったフィルムバッジのことに言及せず、VOCA奨励賞の岸幸太は写真が初めて証拠として使われた写真史のエピソードに触れず、それぞれがインデックス記号を使った新しい描写技法によって受賞したことになる。

現代美術では誰もが絵画の「知覚に基づいた想像力」(絵画の真理)を忘れて、新奇珍奇な描写技法に「依存的」になるわけだが、なかでも、インデックス記号の写真や版画が、手が自由に動かないアーティストにとって、新しい描写技法を編み出すに便利なメディウムなのだ。たしかに、小野耕石や川久保ジョイの作品は、一見したところ、抽象表現主義の作品にみえるのだが、岸幸太のコラージュ風の写真を含めて、インデックス記号の操作によって制作された作品特有の想像力の枯渇がある。

三人の作品とポロックのポード絵画を比べてみれば、その違いは歴然としている。ポード絵画は「描くことと偶然の弁証法」がある。しかし、三人の作品には機械的な作業の組み合わせや繰り返しがあるばかりだ。一つ例をあげれば、岸幸太の「現像液」の滴りは偶然をよそおったワザとらしさがある。千住博の滝の線だ。ポロックの線は滴りではない。キャンバス地を床に水平において、エナメルペンキをポーリングする。偶然を取り込んだ描線だ。誰にもまねができないポロックの線だ。

写真はトロイの木馬だ。中からコンセプチャリズムが出てくる。絵画の陣地に入れてはいけない。

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2015.05.20[Wed] Post 12:43  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

《アクション・ペインティング》 マチュー 篠原有司男 遠藤一郎

三人の制作風景がそもそも《アクション・ペインティング》なのか《パフォーマンス》なのか、あるいは《公開制作》や《ライブ》なのか私には分からない。ともかく、Youtubeで見た三人を、スーザン・ソンタグの『ハプニング』に倣って、観察してみよう。

マチューがアンフォルメルの宣伝のために57年に来日したとき、白木屋で公開制作をした。あらかじめ構想を練っていたようにすばやく描き始めた。芸能人のサインのようだ。アンフォルメルの自動速記風に見せようとしている気もするが、バランスが悪いところは微調整をしているので、アクションは作家の主観性の否定だという主張は当てはまらない。出来上がった作品は「芸能人のサイン」の域を出ていない。

篠原有司男は、さすがに年季が入って、わざとらしいところは一つもない。お年をめしているためか、息切れをしていたけれど、作品は一番アクション・ペインティングらしく、可もなく不可もなし。黒い墨がペンキより強く撥ね散って面白い。作家の主観性は殆ど無い。

遠藤一郎は、《ライブ》と銘打っているように、途中何度かエレキギターを鳴らすけれど、叫んだり、「おまえらが大好きだ」というメッセージをペンキローラーで書いたりする。一番の見せ所は両手にペンキをつけて、壁に掛けたキャンバスに跳びついてペタッと一瞬張り付くパフォーマンスだ。そのまま床に落ちたりするので危険きわまりない。それでもペンキはあまりキャンバスに付かないので、あとから手でペタペタペンキを擦り付けるのはご愛嬌である。エレキとメッセージとアクションと叫びは特別繋がりがあるわけではないところを見れば、ソンタグが記録した《ハプニング》に近いのかもしれない。だからと言って、「観客をからかったり侮辱したりする」わけではないし、あとに金で売れるような作品が残るわけでもない。

結局のところ三人の中で一番のキッチはマチューの作品だろう。
2014.06.10[Tue] Post 00:01  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

「宇宙は正方形である」 マレーヴィチ : 村上隆と千住博

この言葉は、そのままマレーヴィチが言ったわけではない。しかし、彼の最初の「スプレマチズム絵画」は《白地の上の黒い正方形》だったことを考えれば、マレーヴィチが言ったとしてもおかしくない。彼の『キュビスム、未来主義からスプレマチズムへ』(宇佐美多佳子訳:水声社)から引用する。

正方形は無意識的なフォルムではない。それは直感的理性による創造である。
新しい芸術の顔!
正方形は生ける御子である。
芸術における純粋な創造の第一歩。ここにいたるまでには、稚拙な歪曲と現実の模倣があるのみであった。

キャンバスの規格にはF、P、M、Sがあり、FはFigure(人物)、PはPaysage(風景)、MはMarine(海景)と主題別なのだが、SだけがSquare(正方形)という幾何学図形の形式名になっている。正方形が純粋な創造の始まりかどうかはともかくとして、キャンバスとしては扱いにくい特異なフォーマットであることは確かだ。

ところがこの扱いにくいS規格のキャンバスを多く目にする機会が最近続けて二度あった。

一つは、『上野の森美術館大賞』展だ。受賞作や候補作の大方がS100号の作品だった。カタログで受賞作の歴代リストを見ても明らかにS100が増えている。何か旧勢力のF100と新興勢力のS100が争っているように見える。今年の選評を読めば、何かしらの作為を感じるが、これはまたあらためて考えることにして、ここでは「絵画の問題」を考えることにする。

「何も描かれていない白いキャンバス」で思い出すのはグリーンバーグの「ミニマムな絵画」(「ミニマル・アート」ではない)のことだ。絵画が絵画であるための制約とは何か。

(それは)平面性と、その平面性の限界づけである。言い換えれば、これらたった二つの基準に従うことで、絵画として経験され得る物体を創造するには充分なのである。それゆえ、伸張され鋲留めされたキャンバスは、すでに絵画として存在するーーただし、必ずしも成功した絵画ではないが。(『抽象表現主義以後』)


白いキャンバスでも壁に掛ければ最小限のイリュージョンが生じる。長方形のキャンバスを横に置けば左右のベクトルが生じ、縦に置けば上下のベクトル生じる。それに対して、正方形は縦横拮抗して零ベクトルである(いい加減な比喩です)。この正方形の性格を利用した抽象画がある。ロバート・ライマンの《白い正方形の絵画》は、正方形の反イリュージョンを利用して、筆触、材質、絵具などの絵画の物理的側面を露わにしている。他方、マチスの《かたつむり》は正方形の零ベクトルを利用して回転のモーメントを生み出している。

もう一つの正方形は村上隆の『Flowers』シリーズだ。村上隆のファンがツイッターで投稿した「カフェ・ジンガロ」(?)の写真を見て違和感を持った。インテリアが喫茶店にしてはどことなく落ち着かない。椅子やテーブルのデザインが何か変なのだ。今の流行なのだろうと思ったけれど、壁に掛けてある三枚の『Flowers』の方は、大きすぎてどうも納得がいかない。斜めに撮った写真にもよるのだろうが、キャンバスが正方形に見えたことも、違和感を強くした。

それで、〈Flowers〉で検索してみた。正方形のものが沢山あった。矩形のものもあった。花ではなく、ドクロのものもあった。いろいろ眺めているうちに、明らかに村上隆は正方形や矩形のベクトルの違いを意識してデザインや構図を考えていることが分かる。色の組み合わせ、同色の連なり、大小や重なりの遠近法、視線の誘導、同じ大きさのものや同じ色のものの繰り返してのリズム、そして一つだけ王様のような特別の花などなど、『首振立体視』()もハッキリと現れる。

村上隆の《Superflat》は、「平面的で二次元的な絵画空間を持ち、余白が多く、また、遠近法などの技法をあまり使わない」(Wiki)と言われているけれど、この正方形の《Flowers》を見れば、漫画アニメぬりえの平面性は昔のことであり、今の村上隆は欧米の遠近法や構図や色彩対比や動線の文脈の中で仕事をしていることが分かる。

このことが、村上隆の『メディア芸術祭』のシンポジウムでの怒りに関係があるのかないのかわからない。そもそも、「西欧の現代美術の文脈」というのが他のシンポジウムの参加者にも分かっていないし、何より議論を整理すべき楠見清が村上隆の怒りの標的になっているので、ますます混乱に拍車がかかる。しかし、一番事態を複雑にしているのは、村上隆が日本にはポップがないと言いながら、当然批判すべきと思われる他の二人の中原浩大とヤノベケンジを批判しないことではないか。

ポップ・アートはウォーホルの「普通のものを普通に描いた」《キャンベルスープ缶》の誤解によって変質し、新奇珍奇な対象や表現手法を競うバブル現象になった。村上隆の「スーパーフラット」が「ポップ/ネオポップ」とどう関わっているか詳らかではないが、初期の「おたく」の盗用と言われた頃と比べれば、《Flowers》シリーズをそう簡単にポップ/ネオポップと片付けるわけにはいかない。

「正方形」という特異なフォーマットの視点に限っても、例えば、ほぼ正方形のピカソの《アヴィニョンの娘たち》、マレーヴィチの《白地の上の黒い正方形》、マチスのカットアウト《かたつむり》、ロバート・ライマンの《白い正方形の絵画》などは、絵画の新しい地平を開いたともいえる。もちろん村上隆の《Flowers》が絵画の新しい地平を開いたなどとは言わない。しかし、村上隆が西欧の絵画の文脈の中でオーセンティックな戦いを闘っていることは今の堕落した日本の美術業界の人間たちもそろそろ気づいてもいい頃だろう。

いい忘れたことがある。村上隆の《Flowers》の動線は計算されたもので、マチスの自由な視線の流れとは異なるものだ。それが『カフェ・ジンガロ』の写真を見た時の違和感だと思う。それから、『上野の森美術館大賞』受賞作や審査委員の展示作品もS100なのだが、そこには見るべきものは何もない。

2014.05.22[Thu] Post 00:04  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

「ラッセンとファンが同じ」 奈良美智が怒りまくる。

どちらも「癒し系」ということでしょう。必ずしも同じ人が好きになるということではなく、マーケッティングからみると買う人は同じタイプの人たちだということだ。それを奈良美智は「同じ人が好きだと言っている」と受け取れないことはないのを捉えて文句を言っているように思える。

こういう癒し系ポップアートというのはなかなか細部にこだわるので、うっかり同じだなんて言ってはいけないのは「美の商人」のイロハだと思うのだが、奈良もラッセンも自分の取引ルートにのっていないということで油断しのだろう。

イルカよりくじらが好きだとか、動物キャラより少女キャラがいいとか、いろいろ意見の相違があるのが癒し系だ。Tokyo Popでは奈良も村上も意地悪キャラが人気のようだが、もう一人の会田誠は自分のキャラを持っていないこともあって、必ずしも癒し系とは言えない。自分では鬼畜系と言っているけれど、同時に《滝の絵》はラッセンと同じ癒やし系だと公言している。滝は日本人にとって癒やしの風景ということだが、それなら浅田彰が王道だという千住博の滝の絵を持ち出せば良かった。

いずれにしろ、この「癒やし」というのはポップアートのキャラクタばかりではなく、ポスト・モダンの現代美術全般に広がっていることは、藤枝晃雄がロバート・ヒューズを引用して『現代芸術の彼岸』の中で述べている。

治療法としての芸術、それは芸術に投資する成り上がり者、それに群がる画商や美術ブローカー、芸術に憧れる文化人、感性的なものとは無縁な美術評論家、学芸員、美術史家、そして芸術家自身を一時的に癒やすものである。(『現代芸術の彼岸』P7)


森美術館の『会田誠展』に重なって国立近代美術館で『プレイバック・アーティスト・トーク』という重要な現代絵画の展覧会があった。ほとんどの作家がモダニズムを克服しようと活動しているのだが、その中の多くは直接間接に「癒やし」に触れている。マチスの「癒やし」もよく知られているが、彼の癒やしはキャラクタの癒やし、色や形の装飾的な癒やしとは異なる癒やしだということは既に述べたとおりである。(注) ちなみに津上みゆきも抽象の癒し系である。


注:『イタズラ書き』と『自家製ポルノ』(
2013.10.09[Wed] Post 00:01  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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