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村上隆の《五百羅漢図》と《円相》 後編

前編〉からつづく


診療所の待合室にポスターが貼ってあった。



片岡鶴太郎が描いた「世界 糖尿病デー」の公式ポスターだ。普段なら気に留めないのだが、たまたま、村上隆の《円相》についてブログを書いていたので、興味をもって見た。《円相》については、すこし前に、以下のツィートをしていた。
鶴太郎は「画伯」と言われて馬鹿にされているが、セレブを高級ホテルに集めて、たらし込みの技法を教えていた頃からくらべれば、書はマーカーで書いたような字だが、ワザとらしさは少なくなっている。《円》も、大家になったつもりだろう、平凡さを恐れていない。鶴太郎の《円》は、白隠禅師の《一円相》を九十度右に回転させれば、ほぼ重なる。パクリではないかと悪口をいう向きもあるが、「悟りの境地」で円を書けば、似たようなものになるのは仕方がない。

「円相」は一種のアクション・ペインティングである。無の境地で円を書くのだが、鶴太郎の円は、どうも「悟り」の境地らしく書こうという雑念が邪魔している。もっとも、誰にでも書ける「円相」は元来はったりなので、白隠禅師の《一円相》といえども、美術作品としては、鶴太郎の円と違いはない。ただ、鶴太郎の付焼刃の芸談と、名僧白隠の有難い法話の違いがあるということなのだ。

ところが、村上隆の円は、そんな手で書いたような歪み、あるいは遊びがある円ではない。平面上のある点から等距離の点の集合である数学的な図形であり、我々の視線の自由を奪うような線だ。真円というのは、キャンバス表面にピタリと貼り付いて、絵画空間にいわばフタをしてしまう。我々の視線は中心から等距離の曲線上を、ただ滑っていくだけで、たとえ、絵具が垂れたり、スプレーがはみ出したり、かすれていたりしても、視線がそれらと自由に戯れることはない。

《五百羅漢図》も《円相》も「3.11」がテーマである。村上は人を救うために《五百羅漢図》を描いたという。また、《円相》が悟りによる自己救済だということも推察できる。宗教画なのだから主題はある。しかし、鶴太郎の「円相」とは異なる違和感を村上隆の《円相》に感じる。鶴太郎の違和感は、悟りの問題もあるが、それより、「世界糖尿病デー」のポスターに、なぜ、「円相」のデザインを使ったのか、という常識的な疑問だが、村上隆の「円相」の違和感はもっと深い絵画の問題を提起している。

円相とは一筆で円を書くアクション・ペインティングであり、円を垂直の線にすれば、李禹煥の《線より》になる。ところが、村上隆の《円相》は数学的な図形だから、アクション・ペインティングとはいえない。悟りも瞑想もない。雑念が入り込む余地さえない。いったい、なぜ村上は絵画空間を破壊するような数学的な円を、自分の愛している《花》や《ドクロ》の上に重ねたのか。

村上の「円」には何か暴力的なものを感じる。怒りと言っても良い。たぶん、それは「悟り」の拒否なのかもしれない。
















スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2015.11.29[Sun] Post 22:01  CO:0  TB:0  村上隆  Top▲

村上隆の《五百羅漢図》と《円相》 前編

『Murakami ー Ego』展がドーハで開催されたとき、現地で、村上隆、東浩紀、 『美術手帖』編集長岩渕貞哉の鼎談がおこなわれた。そのとき、東浩紀は、《五百羅漢図》はいままでと違ってメッセージ性があって素晴らしいと褒めた。メッセージといえば、もっともらしいが、古い宗教画に戻ったということだ。

村上隆と東浩紀の話で分かるのはそれぐらいで、二人の議論はかみあわない。東浩紀は3・11を原発事故の放射能汚染と考えている。村上隆は大津波の死者のことを考えている。前者は記憶に残すために『福島第一原発観光地化計画』を構想し、後者は祈りと鎮魂と救済のために100mの『五百羅漢図』を描いている。

東さんはチェルノブイリの観光地化を例にひくが、既に世界の聖地になった広島には触れない。原発と原爆の違いだろうか。原発は人間の知識技術のおごりで、原爆は人類の原罪だ。これは、科学と宗教の対立だが、第三の芸術の視点から見れば、《原爆ドーム》には廃墟の美学がある。木造は燃えてしまう。大理石は厳粛で美しい。しかし、鉄筋コンクリートのチープな廃墟にはキャンプな美しさがある。それを表したのが、会田誠のパルテノン神殿の真ん中から原爆ドームを突き出した《題知らず(戦争画RETURNS)》だろう。

東浩紀の《福島第一原発観光地化計画》は、「反核・反戦」デモと比べれば、目の付けどころがいい。広島は巡礼の聖地であり、観光地ではない。聖地の背後には「大きな物語」がある。観光旅行は名所旧跡を訪ね、景色を見物することであり、ここには、ポストモダンな「データベース消費」がある。

大きな物語派の村上隆とデータベース消費派の東浩紀が、お互いに気を使いながら褒め合っていれば、何がなんだか分からなくなるのはさけられない。そうではあるが、東浩紀には物体の作品がないのにくらべ、村上隆は日本の現代美術家としては、めずらしく、宗教的な主題画を描いている。「人を救うために」描いたという《五百羅漢図》は、その華やかな色彩と確かな線描、そして完璧な仕上げは圧倒的な迫力がある。

《五百羅漢図》が3.11大震災が生んだ最大の傑作であることは間違いないにしても、眺めていると、何か漠然とした不満を感じる。それは、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画と比べるというような大袈裟な話ではなく、たとえば、この絵を「五百人の肖像画」と考えたとき、禿げてるのかヒゲはのばしているのか、歯が何本残っているのか、太っているのか痩せてるのか、という違いはたしかにあるのだが、そんな違いにもかかわらず、みんな同じに見える。写楽が描いたような近代的な肖像画の魅力がないなんて言うつもりはないけれど、羅漢がみんな同じに見えるのは、たぶん線が単調だからではないか。顔のシワも衣類のシワもどれもみんな波打つてる。「奇想の系譜」ということかもしれない。

主題や線のほかに、もう一つ《五百羅漢図》をダメにしていることがある。それは、《五百羅漢図》のメーキング・ビデオと奈良美智の「作業風景」(『奈良美智の線』)を比較すれば分かる。奈良は写楽の肖像画にまなび、一人で浮世絵の絵師、彫師、摺師の仕事を兼ねている。それに対して村上はPCやシルク・スクリーンを使い、「グラッシ」をかけて、紙やすりで磨き、手作業の痕跡を消して仕上げをする。古典画のように絵画の物理的表面を隠している。

もちろん、古典画のイリュージョニズムが好きな人もいるだろうし、モダニズムの「知覚と想像」の弁証法的緊張が好きな人もいるだろう。近頃しきりに言われる「奇想の系譜」とか「へんな美術史」というのはグリーンバーグのモダニズムの「知覚」と「知覚に基づいた想像」の弁証法ではなく、図解(イラスト)されたものが、現実的か非現実的かという違いである。「奇想の系譜」とか「へんな美術史」をもてはやすのは、芸術の退廃であり、ひいては「絵画の忘却」に至るおそれがある。

《五百羅漢図》はストリート・アートの力作ということで、しばらくは、様子見で、世間の評価を待つことにする。それより、もう一つの村上隆の個展《円相》は、もっと重要な絵画の問題を提議している。

後編につづく
                                                                          

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.11.25[Wed] Post 22:05  CO:0  TB:0  村上隆  Top▲

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