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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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(1)『モダニズムのハード・コア』(批評空間kindle版)を読む : フリードの《演劇的なもの》と《統辞論的なもの》

美大の新入生に、これをいきなり読んで、グリーンバーグのモダニズムを理解しろと言っても無理だろう。この特集号はグリーンバーグよりもフリードに焦点をあてていると言ってよい。今回Kindle版が出たということで、改めて、フリードの箇所を読みなおしてみた。

抽象彫刻に関して、二つのことがハッキリと書かれている。一つは、ミニマリズムが「演劇的」だと批判していること、もう一つはカロなどのコンストラクション彫刻は部分と部分の関係が「統辞論的」であることの二つである。

「演劇的」については、「ミニマリズムの作品を前にすると、誰しもその特性からして、非凡な演出がなされた「舞台装置」のなかへ、必ずや引き込まれてしまうという点です(この演出にかけて、モリスやアンドレは真の巨匠であったといえるでしょう)。彼らの作品、彼らのインスタレーションは、ある種の「高揚感」をあたかも確実に体験させるかのよう(だ)・・・」と言っているわけだが、念のため、カール・アンドレのインスタレーションをYoutubeで確認しておこう。



ミニマリズムのインスタレーションは古典絵画の想像空間とちがって、実際に歩いて入れる知覚空間なのだ。不条理劇の舞台装置になりそうだが、もちろん条理があっても構わない。「もの派」のリーウーファンの作品は、自然と人工の対立や原因と結果の関係項があるけれど、インスタレーション自身は演劇的である。

演劇的なものの範囲は広い。高柳恵理のインテリアも演劇的なインスタレーションといえる。演劇的なものは、ミニマリズムを超えてポストモダンのパフォーマンスやハプニングに広がっている。遠藤一郎の徹底的に演出の欠いたアンチテアトロなパフォーマンスは、それはそれで静かな癒しのドラマが演じられている。

忘れてならないのは、マイケル・フリードが、「聴衆の存在を悪い意味で意識しすぎることを嫌う感覚、それを示唆するような侮蔑的な意味合いを、私がいうところの「演劇性」が孕んでい(る)」(杉山悦子訳)と言い、演劇的なものは芸術の堕落だと考えていたことだ。

フリードの「演劇性」批判は、ミニマリズムばかりか、「癒やしと娯楽」と化した現代美術全体にあてはまる批判だ。上田高弘が『反インスタレーション考』というエッセイのなかでインスタレーション嫌いを告白している。

評者(上田高弘)は、観者の生な空間・時間的参与を強要するインスタレーションが、嫌いだ。


生の「空間・時間」に参与するというのは、観者がリアルな身体でインスタレーション空間の中に歩いて入るということだ。これは、グリーンバーグが絵画のイリュージョン空間は、想像的身体で歩いて入るか、目で覗き見ることができるだけの想像空間だといっていることに呼応している。もちろん上田高弘はフリードを踏まえているわけだ。

フリードの「演劇的」と「統辞論的」の二つのうち、「演劇的」の方はインスタレーションだらけの現代美術の批判としては、グリーンバーグとの関係は判然としないまでも、ともかくぼんやりとでも理解することができただろう。それなら、「統辞論的」の方はどうだろう。

こちらの方は『ディスカッション』でロザリンド・クラウスが批判しているので、そう簡単ではなさそうだ。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2015.07.14[Tue] Post 22:38  CO:0  TB:0  ミニマリズム  Top▲

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