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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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「もの派」の理論的指導者 李禹煥の芸術

「もの派」と聞くとどうしても、疑ってかかる。というのも、もの派の理論的指導と言われる李禹煥が、冗談なのか真面目なのか、よくわからないところがあるからだ。哲学を学んだせいか、抽象的な表現を好んでするので余計に分からなくなる。以前はメルロ・ポンティの身体性ということをしきりに言っていたような気がするが、近頃はあまり聞かない。

日本の現代美術の先頭を行く村上隆と会田誠の二人が、李禹煥を高く評価している。村上隆の方は、「スーパー・フラット」と「もの派」は似ている、長い間認められなかったけれど、今では世界に認められていると、いつもの村上隆だが、会田誠の方はエッセイ『大いなるイラスト』の中で、「戦後に描かれた岩絵具を使った絵で一番美しいものは、李禹煥の『点から』『線から』シリーズでしょう。」と、李禹煥の「絵画回帰」の作品を絶賛するという予想もつかないことを言っている。しかも、会田誠は天国の天心もそう思っているに違いないと付け加える。他方、村上隆は一文にもならない李禹煥の個展をカイカイキキギャラリーで開催した。

はじめは、村上隆と会田誠の視点から李禹煥を解釈しようと思ったのだけれど、どうして二人が李禹煥をそんなに褒めるのか分からないまま、先に進めなくなった。何かが変なのだ。NHKの「日曜美術館」でヴェルサイユ宮殿の個展のドキュメンタリーが放映されたが、そのタイトルが『ベルサイユにアートの虹を架ける』なのだ。なんとまぁ、少女趣味の表題だと思ったけれど、これは李禹煥の「自然」の虹と「人工」のアーチなのだとじきに気づいた。

最初に李禹煥がおかしいと思ったのは横浜美術館の個展『余白の芸術』だった。こんな大胆なタイトルを付けてしまう芸術家とは何者なのかとも思ったが、黒い矩形の刷毛跡が幾つか描いてある白いキャンバスが続いたあと、最後にキャンバスが消えて白い壁に直接刷毛の跡が描かれているというトリックがあったり、端をちょいと持ち上げたように湾曲している厚い鉄板が、内に神秘的な力を秘めているようで、それはそれで、魅力的であった。

余白だらけの「絵画」も、石と鉄板のインスタレーションも意味ありげに見えるのだが、展示室から出たところに、ハガキ大の白い紙に四角いゴム印を適当な箇所に押して、子供も、ふるって応募してほしい、優れた作品には記念品を贈呈する云々、あるいは、石は自然で鉄板は人工だと説明をしているビデオを流して、うろ覚えではあるが、芸術とはそんなえらいものではないという謙虚さよりも、どのみち芸術など分からないのだから、この程度のものを与えておけばいいだろうという、あなどり、あるいはむしろ驕りを感じたのは私だけだろうか。

村上隆から李禹煥を見れば、もの派はスーパーフラットの仲間であり、戦略的ジャポニスムなのだから、村上隆が褒めるのは分からないではない。しかし、会田誠が李禹煥を絶賛する理由を理解するのは難しい。しかも、《線から》《点から》という抽象画を、岩絵の具を使っているということもあってか、現代日本画として賞賛している。これは会田誠がいっとき抽象画に挑戦していた事と何か関係があるのだろうか。

李禹煥で思い出すのは岡崎乾二郎だ。岡崎乾二郎の《ポンチ絵》のことを「種も仕掛けも見せてくれる手品」に喩えたことがある。種をばらされても結構楽しめるのが手品だ。『かたちの発語』展の岡崎氏の作品は、作者の意図がみえみえだが、それを改めて自分で見つける楽しみがある。それに対して李禹煥はどうだろう。彼の場合は、岡崎乾二郎と違って、常に半信半疑である。反美学といわれれば、「それはそうだが」と付け加えたくなるようなところがどうしても残る。騙されているのではないかという一抹の不安が払拭できない。ようするに、岡崎乾二郎が優れた手品師だとすれば、李禹煥は世界を股に掛ける詐欺師ということになるか。

こんなことをだらだらと続けても切りがない。暫定的な結論を述べて、終わりにしたい。会田誠は、李禹煥の抽象画《点から》《線から》は天心が夢見た洋画と日本画を融合した美しい作品だという。会田誠には奇を衒うようなところはないので、心底そう思っているにちがいない。たぶん騙されたのだ。李禹煥を会田誠のように「真性ジャポニスム」から理解することは難しい。彼を理解するには「戦略的ジャポニスム」の視点が必要で、それがまさに「もの派」が「スーパーフラット」につながるという村上隆の考えだ。村上と李の二人は今は「オリエンタリズム」そして世界を視野に入れているが、はじめのうちは戦略としての「まがい物のジャポニスム」を欧米に売り込んで成功し、世界のムラカミ、世界のリー・ウーファンとして日本に凱旋したともいえる。

このままでは、二人はなかなか日本人の感性になじまないだろう。それでも、ぬりえや漫画はサブカルチャーであることに救いがある。しかし、李禹煥の作品はサブカルチャーではなく、シリアスなハイアートとして展観に供されているのだ。そうであるなら、リー・ウーファンの「へんな余白」や「庭石と鉄板」などは、いくら理論で飾り立てても、普通の日本の美術愛好家には到底受け入れることはできないだろう。

李禹煥にはタブーのようなものがあるのだろうか。カイカイキキギャラリーの砂利のインスタレーションはどう見たって竜安寺などの石庭の引用あるいはパロディ(注1)だし、床の間の生け花は「村上さんが所有するパナリ壺に小路苑さんが活けたもの」だというが、どう贔屓目に見ても、たけしのギャグにしか見えない。

ここまで来ると、たとえ「戦略的」と言っても、もはやジャポニスムとは言えないだろう。近頃、ニューヨークのギャラリーではKoreanismと言っていいような、韓国作家の活躍が見られるが、李禹煥も戦略的ジャポニスムから、戦略的コリアニズムに舵をきる潮時なのかもしれない。

美術作品は理論ではなく、目で理解しなければならない。


注1:竜安寺は砂利の中に水墨画の山あるいは島のような石がある。李禹煥は石の代わりに矩形の絵画を置いた。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2015.04.11[Sat] Post 10:39  CO:0  TB:0  李禹煥  Top▲

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