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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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会田誠の「表現の自由」について: 二つの自由《ポルノの自由》と《デモの自由》

去年、二つの「わいせつ物関連事件」があった。ろくでなし子の「女性陰部データ」頒布事件と鷹野隆大の「写真展警察介入事件」だ。ろくでなし子事件については椹木野衣が『象徴としてのわいせつ---ろくでなし子と赤瀬川原平』を書き、鷹野隆大事件については土屋誠一が『ポルノである、同時に、芸術でもある』を書いた。

しかし、この分野の第一人者であるはずの会田誠は「北原みのりさんが逮捕されたニュースに『負けた…』と思う僕の捻れた感覚を告白しておきます。」と何やら切腹しない三島由紀夫みたいなことを言ったまま沈黙していた。

ところが先日、以下の「表現の自由」に関するツィートをした。

2年前にも書いたが、僕は「表現の自由」という言葉を脳内でさえも一度も使ったことがない。これからも。使ったら「ある大切な野蛮さ」が死ぬ。美術は現代においては「アイズ・ワイド・シャット」のように地下に潜るべきか(金も権力もないけど)。 都美術館で天才ハイスクール‼︎‼︎を見ながら。 ↑ 2015.01.10 12:35

相変わらず難解で曖昧な表現だが、会田さんが現代の日本の美術家の中で一番深く「表現の自由」について考えていることは間違いない。それは、彼が、「表現の自由」が一番問題になる「ポルノと政治」の両方の主題で描いているからだ。

彼の絵の原点はすでに何度も言っているとおり中学生のときの「自家製自家用ポルノ」なのだから、親に見つかって叱られたからといって、「表現の自由」を持ちだして反論するわけにはいかない。ポルノを描くのをやめるか、安全なところに隠して置くかしなければならない。

会田誠の「大切な野蛮さ」とは何か。ふつうに考えれば椹木野衣が指摘した「児童ポルノ」のことだろうが、そんな大袈裟に考えることもない。フェミニストが《犬》シリーズは自慰の「おかず」だと批判するなら、会田さんの「美少女」パフォーマンスの《美少女》の赤い大きな文字も同じようにポルノということになる。会田はニューヨークでこのアイディアを思いついたという。おそらく、英語ばかりの中で久しぶりに「美少女」の漢字を見て、中学生のときのような興奮を覚えたのだろうが、豈図らんや一時間以上かかったという。ともかく、会田誠は観念をporno-graphyにすることで「表現の自由」を手に入れた。観念を罰するなんて誰にも出来ない。このパフォーマンスで、ポルノを取り締まろうとする官憲を揶揄しているのかもしれない。

現代美術の性の問題は、《芸術か猥褻か》ではなく《ポルノと性犯罪》へとシフトしており、現在では「芸術か猥褻か」の視点で芸術を論じることはほとんどなくなった。しかし、椹木野衣氏は森美術館の『会田誠 天才でごめんなさい』展の展評で、この枠組を使って会田誠の作品は未だ「芸術か猥褻か」の歴史の検証をうけていないと批判した。それに対して会田さんは「ポルノと性犯罪」の視点から、リアルと想像は区別すべきで、ポルノで性犯罪が増える事実はないと答えている。児童ポルノの写真が犯罪なのは、写真はそのまま児童虐待の証拠になるからだ。

それに比べ、椹木野衣さんと土屋誠一さんはどうしてもポルノ規制を「国家権力の弾圧」にしたいようだ。「表現の自由」を守るために、土屋誠一氏は「ろくでなし子氏の作品が優れているか否かは超どうでもいいこと。以前から何度も言っているように、これは美術にかかわる『私たち自身』の問 題」だと、ベ平連のようなことを言う。また、椹木野衣氏は「表現の自由はおろか、表現者が当の表現ゆえに接見禁止付きで身柄を束縛され続けるという異常な事態となってい るにもかかわらず、『どこか対岸の火事』なのである」と言う。この『対岸の火事視』というのもベ平連か大好きな言葉だった。

もちろん、国家の弾圧とは戦わなければならない。しかし、そこに「表現の自由」を持ち込むと、芸術は根拠を失い、「表現の内実」はバラバラになって雲散霧消してしまう。土屋誠一氏はまさに「ろくでなし子氏の作品が優れているか否かは超どうでもいいこと」と言っている。これこそまさに「芸術の終焉」と言うべきではないか。

絵画における「表現の自由」(柿栖恒昭『現代絵画の再生』kindle版)は宗教画や歴史画の主題や写実的描写から、モダニズムの「自由な対象選択」や「自由な対象描写」となって、印象派、野獣派、キュビスム、抽象画を生んだ。ところが、現代美術になると、「表現の自由」はますます激しくなって、それまでは表現価値のためにあったはずの自由が、対象であろうが、描写技法であろうが、これまでとは違った新奇珍奇なものなら、何でも芸術だというやりたい放題の自由になった。そこから、レディ・メイド、オブジェ、パフォーマンス、インスタレーション、コンセプチャル、ポップ、グラフィティなどが生まれ、さらに、理論まで作品から自由になって、理論に理論を積み重ね、ちょとした差異や着想を流行の哲学や思想で飾り立てることで、「美の官僚」たちが美術館や補助金、そして、文化行政やメセナまで支配している。

中ザワヒデキの『現代美術史 日本編』は、日本の現代美術の「表現の自由化」現象を、前衛と反芸術と多様化の三つが繰り返えされるという「循環史観」にまとめた労作である。戦後最初の「表現の自由」は「具体」の代表吉原治良の「今までになかった絵を描け」という「前衛」運動からはじまった。そのあと、ネオ・ダダなどの「反芸術」、そして「もの派」や「概念派」の還元主義、再びポストモダンの脱前衛へと、次から次と新奇珍奇なものが現れては、次のものと交替・循環していく。これでは自由ではなく、堂々巡りの閉塞の時代ではないか。

今の現代美術家は評論家を兼ねている事が多い。そうでなくてもよく喋る。そうなれば「表現の自由」はますます放恣になる。マチスは画家になるなら舌を切れと言った。そういうマチスこそよく喋ったが、彼が喋ったのは、例えば「線と色の永遠の葛藤」についてなど、大抵は「表現の不自由」についてだ。

「表現の自由」に殺されるという会田誠の「大切な野蛮さ」とはなんだろう。それは道徳的な悪ではない。画家の魂の奥底にひそんでいる何かだ。


スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2015.02.01[Sun] Post 10:55  CO:0  TB:0  ろくでなし子  Top▲

『象徴としてのわいせつ---ろくでなし子と赤瀬川原平』 椹木野衣

以下の記事は、一度UPしたけれど、ニョウボが「こんなの誰も読んでくれない。一人でも、理解してくれる人がいれば良いけれど、ゼロだと思う」と言ったので、下書きにもどしたものだ。でも、今日、あるツイートを読んで、急遽再UPする。『芸術新潮』の鷹野隆大の写真を見れば、たぶん、写真を沢山見ている人は私の言っていることを理解してくれるだろう。改訂版を書いているが、間に合わない。今、日本の美術評論業界の腐敗は頂点に達している。

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【コピペ始まり】

ろくでなし子の逮捕が不当であることは、誰しも認めるだろう。

このことは、瀬地山角の『「女性陰部データ」頒布事件を斬る』()に詳しい。瀬地山氏は三つの視点から「デコまん事件」を論じている。

①表現の自由と公序良俗の問題:日本では性器の描写のみ重視するが、外国では空間のゾーニングをしている。
②性器を隠すことと欲望の問題:隠すから余計に欲望を生む。
③女性にとっての性と性器の問題:フェミニズム。男性の欲望の客体ではなく、女性が主体になる。

以上の三つにまとめているけれど、それぞれの問題を別々に見れば説得力があるように思えるが、いずれも直接的に芸術と関わる視点ではないので、かえって問題の本質を見誤るだろう。

芸術問題としては、椹木野衣が『美術と時評:象徴としてのわいせつ』()で、美術評論家の視点から、二つのことを問題提議している。ひとつは、アーティストたちがこの事件に対して他人ごとのような態度をとっていること、もうひとつは、この事件が赤瀬川原平の「千円札事件」の構造に似ていることの二つだ。

アーティストたちが他人ごとなのは、ろくでなし子を「美術家として認めていない=彼女の作るものは美術作品として価値がない」と考えているからだと椹木野衣は言う。アーティストたちがそう考えるのは、「ろくでなし子はろくでもないアーティスト名だ」「まんこを多発するのは品性に欠け、軽薄かつ芸術的な重みに欠ける」「アカデミーの教育を受けていない漫画家である」ことなどだと、椹木氏は言う。いまどき「漫画」をアートではないと考えている現代美術家なんているのだろうか。そもそもハイカルチャーとサブカルチャーはボーダレスだと最初に言ったのは椹木野衣自身ではなかったのか。

ふたつ目の「デコまん事件」と赤瀬川原平の「千円札事件」の類似は、ともに「恥部」に関わっているからだと言う。「デコまん」がろくでなし子の「恥部(性器)」だというのは分かるが、「千円札」が国家の恥部だというのは分らない。模造千円札は「国家の隠された『恥部』−−「しょせん」は紙切れが天下の国家を支えているという実も蓋もない事実−−を歴然と晒すという、権力にとって決してあってはならない行為に当たっているのではないか」と椹木野衣は言う。いわば、「象徴的な意味でのわいせつ行為」だというのだが、フランスの表象文化論の影響なのだろうか。

「デコまん」が「生身の恥部」で、千円札は「国家の恥部」だという比喩はあまりにも安易だ。紙幣に実質価値がないことは、隠して置かなければならない恥部ではない。貨幣を発行しているのはたしかに国家(中央銀行)だが、お金の根拠は市場の信用であり、信用を毀損する恐れのある模造偽造は「通貨及証券模造取締法」に違反するのは明らかだ。ポストモダニスト椹木野衣が、「国家の恥部」だとか、「象徴としての猥褻」だとか、あるいは「紙幣と性器」など文学的修辞を並べても、模造事件を猥褻事件にすることはできない。そもそも、堀江貴文も言うように、ビットコインになれば中央銀行さえなくなる。

現代芸術理論の最先端を行っていると思われた椹木野衣さんは、彼がキュレーションをした『日本ゼロ年展』の作品たちといっしょに、今では最も時代遅れになってしまった。彼が「国家の恥部」という古臭い修辞を持ち出すのは、「ろくでなし子事件」の議論に「芸術か猥褻か」の論点を導入するためだ。そう考えれば、椹木野衣氏の評論『象徴としてのわいせつ---ろくでなし子と赤瀬川原平』の複雑で曲がりくねった議論も理解しやすい。

「芸術か猥褻か」の議論は、チャタレイ裁判からはじまっている。法的には「表現の自由」や「公共の福祉」をめぐって争われたのだが、一般には「芸術か猥褻か」の裁判だと理解されていた。検察が『チャタレイ夫人の恋人』の性行為の描写は猥褻だと主張する、それに対して、弁護側は性行為の描写は人間の崇高さの表現であり、猥褻ではないと主張する。かってはそういう議論も意味があったのだろう。この「芸術か猥褻か」の裁判は欧米からも関心を寄せられたという。そして、文学から写真動画に議論の中心が移るにしたがって、次第に「芸術か猥褻か」から、「ポルノグラフィーと性犯罪」の問題へと、大袈裟に言えばパラダイム・シフトが起こったのだ。

「芸術か猥褻か」の枠組みは現代美術でもまだ有効なのだろうか。土屋誠一氏は「ろくでなし子氏の作品が優れているか否かは超どうでもいいこと。以前から何度も言っているように、これは美術にかかわる『私たち自身』の問題」だと、ベ平連のようなことを言う。これは椹木野衣氏の「(ろくでなし子の不当逮捕に対して)同じ美術家たちや美術関係者たちの反応が、奇妙に鈍く感じられた~」に呼応する。椹木野衣氏はさらに「表現の自由はおろか、表現者が当の表現ゆえに接見禁止付きで身柄を束縛され続けるという異常な事態となっているにもかかわらず、『どこか対岸の火事』なのである」と言う。この『対岸の火事』というのもベ平連の大好きな言葉だった。

表現の自由ということなら、あらためて「芸術か猥褻か」の議論をする必要はなくなるのではないか。ところが、土屋誠一は、鷹野隆大の写真作品はポルノであるとともに芸術でもあるという。彼のTWを読むと、ろくでなし子や鷹野隆大に加えて、大橋仁のセックス・ワーカーの問題や反戦展、沖縄問題など、まさに東浩紀氏のいう「最強の弱者」の側に立って「芸術論」を展開しているよう見える。性器が写っているから猥褻物だと警告されただけのただの記念写真が、セクシャル・マイノリティだからといって芸術になるわけではない。

問題は「写真」なのだ。写真の被写体はレディ・メイドであり、ファウンド・オブジェである。描写は精密である。表面だけではなく、心の襞まで写しとる。しかし、モデルが一方的に盗みとられるのではない。絵画のモデルは絵描きに従うけれど、写真は瞬間の絵画だから、モデルは写真に盗み取られることもあるが、裏をかくこともできる。鷹野隆大の写真はポルノでもあり、芸術でもあるという。はたしてそうか。写真は選択の芸術だという。しかし、コマを選び、大きく伸ばしてフレームに入れて美術館の壁に掛ければ写真は芸術になるのか。ポルノかどうかは趣味の問題だから、何とも言えない。しかし、写真は芸術になれない。土屋誠一は誰にでもある同性愛的傾向を勿体ぶって「告白」する。ただの記念写真を、「セクシャル・マイノリティの排除」とか「匿名の通報者」とか「ホモフォビアの力学」などのポストモダンな決まり文句で飾り立て、芸術でないものを芸術する。その芸術になろうとする助平心が精神を猥褻にする。牛腸茂雄の写真集『SELF AND OTHERS』も、Jeff Koonsのポルノ写真《Made in Heaven》も芸術になろうとはしていない。

言葉で議論しても始まらない、絵を理解するには絵を見ることが一番だ。下にコピペしたのは、Hockneyが友達を描いたドローイングだ。もちろんゲイのエロティスムがあるけれど、生きた線はあらゆる絵画のレトリックを浄化する。ホックニーのヌードは、男も女も、猥褻なところはひとつない。





さて、椹木氏はこの「ろくでなし子の恥部」をどう評価するつもりだろう。せっかく椹木氏の論述をなんとか辿ってきたにもかかわらず、問題は振り出しに戻ってしまった。いったい「デコまん」は猥褻なのか、芸術なのか。「抽象的な猥褻」と「見せしめとして猥褻」と「象徴としての猥褻」といろいろ修辞をならべてはいるけれど一向に埒があかない。初めは作品や容姿、名前や言動が軽いから現代美術家たちは事件を他人ごとのように思っていると言い、次には、これは軽い問題ではないから検察が執拗な逮捕拘禁を繰り返すのだという。いったい椹木野衣さん自身はどう考えているのか、なかなか明かさない。

そして、最後の最後になって、《作品の「質」》が突然出てくる。しかも、質なんか考えるのは軽薄だ、作品の評価は将来どうなるか分からないと相対主義を主張する。現在は「<美術>としての評価に値しない」と考えられていたものが、将来、美術史的価値を得ることだってあり得ると至極もっともなことをいう。そして、その例として、《模造千円札》ではなく、同じ赤瀬川原平の《患者の予言(ガラスの卵)》と《ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)》を挙げる。これらの作品が当時どのように評価されていたのか、検察はどうしたのか、知らないけれど、《ヴァギナのシーツ》という性器をモチーフにした恰好な例があるなら、最初からそれを例にすれば良かったのだ。それなのに「国家の恥部」などと意味ありげにヒトをさんざん引きずり回しておいて、最後に「美術史的価値」だなんて、未来のことをもちだすとは、あんまりじゃないか。

ポルノはすぐに飽きると言えば済むものを、どうして美術評論家は難しく言いたがるのだ。と言っても椹木野衣氏のことは『シミュレーショニズム』や『日本・現代・美術』でこりていたはずだ。いまさら嘆いてもしかたない。

ここまで来たら、最後まで付き合うほかない。まず「美術史的価値」のことだが、実は、「現代美術」にとって、「現在の評価」ではなく、現在が過去になる未来の「美術史的価値」が重要なのだ。岡田斗司夫がYoutubeで現代美術の美術史的価値について述べている。まことに明快な解説だから、よく見て欲しい。




現代アートが何かというと、アート評論業界にどのように評価されるかが重要で、性差別や戦争、おたくなどの現代の問題、日本だけではなくグローバルな問題、20世紀21世紀がこういう社会だったんだという50年後100年後のポジショニングのために作品を作っている。将来のメルクマール、将来の栞になるため、すなわち将来「美術史的価値」を得るために現代美術家は作品を作っていると岡田斗司夫氏はいみじくも言う。

椹木野衣氏も岡田斗司夫氏と同じことを言っているのだが、ただ、「芸術か猥褻か」という古いパラダイムに執着するあまり、強引なレトリックの乱用に陥っている。まず、ろくでなし子の作品は猥褻ではないけれど、どうしても猥褻にしたい。それで赤瀬川原平の《模型千円札》を持ちだして《国家の恥部》だという。そして、《3Dま*こ》は所有者本人が隠したい恥部ではない、隠したいのは国家なのだ、みたいな屁理屈をいう。

つぎに、芸術とはとても言えない《3Dま*こ》を芸術にするために、《模造千円札》の替りに、同じ赤瀬川原平の《ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)》を例に出す。なぜなら、《模造千円札》は早い時期から大勢の現代美術家や評論家がすでに芸術だと応援していたけれど、《ヴァギナのシーツ》(61年)の一番目のプレゼントは評判にはならず破棄されており、現在美術館に展示されているのは赤瀬川原平の初期作品の再評価にともなって、94年に再制作されたニ番目のプレゼントである。このことが、現在は芸術と認められていない《ま*こ》も将来は芸術として評価されるかもしれないと椹木野衣氏は言いたいようだ。

ところが《ヴァギナのシーツ》自体が「芸術」ではなく、「はてな?」クイズに出したいようなガラクタなのだ。椹木野衣氏は反権力のポーズをとっているけれど、美術館という権力の殿堂に納められれば芸術になると思っているのだから、むしろ「美の官僚」と言える。森美術館の『会田誠展:天才でごめんなさい』のキューレーションを自分の著作の盗作疑惑まで持ちだして批判したのもなにやら役人のいいがかりのように思えてしまう。

それならば、ろくでなし子の作品が今という時代のメルクマールになるかどうか検証してみよう。まず、《デコまん》と《3Dデータ》の区別をしなければならない。警察がわいせつ物だといっているのは後者の《3Dデータ》であり、前者の《デコまん》がわいせつ物だとは言っていない。たしかに《デコまん》は観光地のおみやげ品になりそうで、猥褻とはとても言えないし、フェミニズムの時代のメルクマールになるような作品でもない。それならろくでなし子の性器を3Dプリンターで立体造形したものはどうだろうか。会田誠は男性器は「健全」な感じがするが、女性器は「不健全」な感じがすると言って、フェミニストと論争になったが、この作品を見たら、誰もがあまりの「健全さ」におどろいたのではないか。これなら神輿に担いでもおかしくない。

警察は鷹野隆大の男性器の写ったポートレイト写真をわいせつだと警告した。警察の判断の適否はここでは問わない。ここで言えることは、《デコまん》がセーフで、《3Dデータ》がアウトなのは、3Dプリンターでプリントアウトした造形物を写真と同じ写実的でリアルなものと見なしたのだ。しかし、3Dプリンターの造形物は、石膏の型取りと同じように、写真のようなリアルな描写性があるわけではない。にもかかわらず、「電磁的記録記録」というだけで、権力を誇示したい警察が、早とちりして逮捕拘禁してしまったのだろう。「いい気になるな」といったん逮捕したからには、必ず有罪にするのが、日本の司法制度だ。ろくでなし子の事件は、「模造千円札事件」よりも「ライブドア事件」に似ていると言うべきだろう。

《3Dプリンター》の制作物は、整形手術のおかげか、男根にまけない造形的面白さがないわけではない。だからと言って芸術とも言えない。機械的な複製である限りそれは擬似的な自然であって芸術ではない。ところが、これは時代のメルクマールになる可能性がある。3Dプリンターを使った「先端技術作品」だからだ。

3Dプリンタでプリントアウトしたという作品をネットで見たとき、それがてっきり《デコまん》だと誤解して、これは、会田誠さんの《よかまん》とろくでなし子の《デコまん》の世紀の対決だとおもしろがった。もちろん勝負は《デコまん》の勝ちなのだ。たしかにパフォーマンスの《よかまん》は裸の女性がザルで股間をチラチラさせながら数え歌を歌うという貧乏臭いものだったが、《デコまん》はあっけらかんとして、女性器は不健全という会田さんの言葉に反して、至極健全な「おま*こ」なのだ。

以上、中途だけれど、一旦はおわりにする。日本の美術評論はますます混迷を深めている。この分野のエキスパートは会田誠である。彼の絵描きの原点は「自家製自家用ポルノ」だという。「美少女」という文字に向かって自慰をするパフォーマンスの作品もある。これも目的から見ればポルノだ。児童ポルノに関する会田さんの見解は、想像はいいが、リアルはダメだという至極穏当なものだ。その会田誠は「ろくでなし子事件」には沈黙している。

先日、彼は以下のツィートをしていた。

2年前にも書いたが、僕は「表現の自由」という言葉を脳内でさえも一度も使ったことがない。これからも。使ったら「ある大切な野蛮さ」が死ぬ。美術は現代においては「アイズ・ワイド・シャット」のように地下に潜るべきか(金も権力もないけど)。 都美術館で天才ハイスクール‼︎‼︎を見ながら。 ↑ 2015.01.10 12:35


前半の「表現の自由」に関しては、本文中にちょっと触れたように、たぶん、同意できる。しかし、後半は分からない。本当に会田誠に権力はないのか。

【コピペ終わり】


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スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.01.18[Sun] Post 17:11  CO:0  TB:0  ろくでなし子  Top▲

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