ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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(4)『漫画とアニメと絵画』:漫画に夢中!

漫画は主人公が「跳んだり、撥ねたり、走ったり、そして着地する」のが楽しみなのだ。最初に夢中になったのはターザンの活躍だ。ツルにぶら下がって「あ~ああ~」と叫びながら木から木へ伝わって象の背中に「着地」する。ときには河に飛び込んでワニと闘うなど、男の子は「あ~ああ~」とターザンの真似を競った。ニョウボは女の子だったけれどターザンが縄で縛られている絵をよく憶えているそうだ。

そういうわけで、山川惣治の『少年ケニヤ』が産経新聞に連載が始まったとき拡販員が熱心に勧めるので、親に頼んで、しばらく購読したけれど、コマ割りマンガに慣れた目には、絵物語を読むのは面倒ですぐにやめた。「跳んだり撥ねたり」は紙芝居の『黄金バット』や『ライオンマン』につながり、そして鉄腕アトムの「ロケット噴射」になった。

横山光輝の『鉄人28号』の連載が始まって、難しい問題が生じた。鉄腕アトムは良心回路のようなものがあるのだけれど、鉄人28号はリモコンで動く。大きくて下から見上げた鉄人28号は力強かったけれど、リモコンで操縦されているのは納得できなかった。当然正太郎がヒーローになった。ところがリモコンが敵の手に渡って、正太郎が無力になると正太郎の魅力もなくなった。 最初は鉄人28号が突然主人の正太郎を思いだしてくれるのではないかと思ったけれど、そんな奇跡は起きなかった。

たぶん正太郎は新しいタイプのヒーローだったのかもしれない。最近知ったことだけれど、「ショタコン」という言葉があって、ロリコンの少年版らしい。『エヴァンゲリオン』の碇シンジタイプとまでは言えないけれど、東浩紀の好きな言葉を借りれば「マッチョ」とは反対のタイプだろう。リモコンが敵の手に渡ったとき、正太郎は「跳んだり撥ねたり」の活躍で敵をヤッツケテくれると期待したが、そんなこともなかった。ヒーローはキャラクターではなく、交換可能な役割なのだ。

「跳んだり撥ねたり」のヴァリエーションとして柔道漫画や野球漫画があり、その他いろいろあって『少年マガジン』から『少年ジャンプ』になる。そしてドラゴンボールが終わって私の漫画の読書歴も終わる。

最近の漫画はよく知らない。それでも「飛んだり跳ねたり走ったり」は映画の中に残っている。『スパイダーマン』がクモの糸で高層ビルのジャングルを飛び回るのは、ターザンだろうし、『インディアナ・ジョーンズ』はそれこそ「跳んだり撥ねたり」の特撮の集大成のようなものだ。しかも、吊り天井や回転する壁や鞭(ムチ)やら、おまけに吊り橋上の格闘まであって、昔の東映時代劇そのままだ。CGを使ったものでは、ゲーム的な『マトリックス』よりも『007 カジノ・ロワイヤル』の冒頭の追跡劇がアナログ風味があって面白い。

コマ割りをした日本のマンガは動きを表わすのには一番優れたメディアだ。ターザンの「蔓づたい」はワイズミューラーの実写映画を見てがっかりしたし、アニメ版の鉄腕アトムが空を飛ぶところはジェット噴射がチラチラ動くだけで間が抜けていた。制作会社の「虫プロ」は日本で初めてのアニメ工房で赤字のためにセル画の枚数を節約をしなければならなかったそうだ。

CGが進歩して映画もアニメも変わっていくだろうし、日本のコマ割り漫画の優位もいつまで続くかわからない。メディア芸術祭の歴代マンガ大賞は「跳んだり撥ねたり」系ではないものもあるし、2012年度の大賞はバンド・デシネ系の『闇の国々』が受賞した。もちろんマンガは国際的なものだし、外国のマンガが大賞を受賞するのはマンガの国際化にも貢献するだろう。しかし、JUDOのように国際化したのはいいが柔道とは似てもにつかぬものになってしまっては、漫画も柔道を笑えない。クール・ジャパンやメディア芸術祭など役人が出てくるといいことはない。

「飛んだり跳ねたり」が現在のマンガの主流なのかどうかはわからない。昭和の昔だっていろいろなマンガがあった。女の子は男の子とは違うマンガを読んでいた。今だってそうだろう。オタクたちのロリコン漫画もある。少女漫画にボーイズ・ラブがある。

それでも「飛んだり跳ねたり」系は永遠だと思うのだが、どうもサブカルチャー批評では次第に論じられることが少なくなっていくようだ。大塚英志の『「おたく」の精神史』、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』、そして東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』などのポストモダン批評にとっては、「跳んだり撥ねたり走ったり」はそれこそマッチョなモダン世界なのだろう。

サブカルチャーの隆盛は浮世絵で分かるとおりエロが大切だ。そうならば「飛んだり跳ねたり」よりもロリコンやBLものに未来があるのかもしれない。しかし、児童ポルノ反対派はエロマンガまで禁止しようとしているし、「大きな物語の終焉」を言挙げするポストモダン批評が「飛んだり跳ねたり」系のマンガの衰退に与えた影響は大きい。宇野常寛の批評の対象はよりにもよって《アンチ飛んだり跳ねたり系》のアニメやマンガだし、東浩紀の批評の対象は漫画アニメではなくライトノベルなのだ。

そもそもポストモダン批評というものが私には理解できない。いったい物語は衰退したのか、それともミクロの物語素としてデータベース化されているのか。歴史の終焉と言いながら、「3・11」にはアーティストはみんな大喜びで終末論という巨大な物語を語っていたではないか。一番のポストモダンは、いずれ福島の人たちは癌になってみんな死ぬと言っている人たちではないか。彼らはデータに基づく合理的判断を一切信用しない反モダンニストなのだ。


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2014.03.02[Sun] Post 20:20  CO:0  TB:0  漫画とアニメ  Top▲

(3)『漫画とアニメと絵画』:絵画における「空間と運動」 会田とマチス

絵画では「空間や運動」はどのように表現されるのだろう。

映画やアニメなどの動画はもともと残像を利用して動きを表わすメディアだから、あらためて論じるまでもないだろう。また漫画の一齣ひとこまは静止画だが、コマとコマの間は想像力が補うので、映画やアニメよりもむしろ活き活きとした運動が表現できる。CGが進歩してもしばらくは漫画優位の時代が続くだろう。もちろん優れた漫画だけのことだが。

絵画はいわば一枚の「静止画」とも言えるのだが、その絵画の「動き」については例えば未来派のスピード表現などに関連してよく論じられる。未来派のジャコモ・バルラの《綱に引かれた犬のダイナミズム》は犬の足や尾が何本も描かれていることで有名だ。しかし、この手法はもともと漫画の手法で、確かに動いてはいるけれど、同じ場所でバタバタしているように見える。他にも動きを表わすものに効果線や擬音語擬態語がある。運動する物体の後ろに土ぼこりが舞い上がるのもある。こう言う手法は通常絵画では使われない。絵画の面白さとは別物だからだ。 

絵画の運動を知るために会田誠の《巨大フジ隊員VSキングキドラ》とマチスの《ダンス》を比べて見よう。《巨大フジ隊員》に動きが少ないことは、少し前のブログで大理石像の《ラオコーン像》と比較して書いた(注1)。子供の頃《ラオコーン像》の写真を見て、そのリアルで精緻な仕事に感嘆したが、特別な「芸術的」感動は感じなかった。ヴァティカンで実物を見たときはむしろ失望した。写真をで見ると素晴らしいのに実物を見るとつまらないのは何故か長い間疑問だった。それは平面の写真よりも立体の彫刻の方が知覚が優位なので、動きのない彫刻はよけいに生命がないように見えるからだと知ったのは随分と後になってからだ。同じ静止していても「知覚に基づいた想像」である写真の方が活き活きと見えるものだ。誰にだってロダンの実作を見てがっかりした 経験があるだろう。そんな筈はないと繰り返しロダンを見てもダメで、しまいに自分には美的感覚がないのだと諦めてしまう美術愛好家もいるだろう。

《巨大フジ隊員VSキングギドラ》はセル画として描かれたので、動きは動画のイリュージョンに任せたのだろうか、漫画的手法は使っていない。《巨大フジ隊員VSキングキドラ》を最初に見たとき、背景の町並みが小さかったこともあって、宙に浮いているように見えた。しかし、よく見れば尻もちを突いている。漫画やアニメならもくもくと土ぼこりが舞い上がるところだ。『エヴァンゲリオン』でもしきりに舞いあがっていた。

ラオコーンが大蛇に絡まれて身動きできないように、フジ隊員もキングギドラに噛まれレイプされて身動きができない。彫像と絵画を比較するのは無理があるように思えるが、そうではなく、むしろ動きを比較することで彫像と絵画の違いが明瞭になる。平面的な《ダンス》と比べると《フジ隊員》は三次元的で立体的に正確に描かれているので、かえって動きがないように見える。《ダンス》はダンスを踊っているのだから動きがあって当たり前だというなら、ドガの《踊り子》が静止しているように見えるのを思い出して欲しい。

Youtubeに《Dance》を立体にした動画を見つけたのでアップする。




冒頭のカメラが動いていないショットが一番絵画作品に近く動きも空間の広がりもある。しかし、カメラが動き始めるとダンサーたちはより立体的になるが動きはむしろなくなる。動画と写真と絵画を比べると、知覚、(知覚に基づいた)想像、錯視の三者が絡まり融合して、三つを截然と区別することは難しい。冒頭の静止画とマチスのオリジナルの絵画作品と較べてみよう。





《ダンス》の「立体像の動画」と「冒頭の静止画(写真)」と「マチスの絵画」の三つを比べれば、一番動きがあるのは間違いなく絵画だ。それはマチスの平面的な描写においては、絵画意識(知覚に基づいた想像)の想像作用が動画や写真と較べて強く働くからだ。実写の静止画(写真)は遠近法や陰影があるため、想像より知覚のリアリティが強められる。スーパーリアルの絵画が触ってみたくなるような錯視が生じることはよく知られている。

絵画の《ダンス》は平面的な描写で、肌色はフラットに塗られ、体には陰影はないけれど、輪郭線は太く、カーブは強いので、手足の動きが強調されている。特に注意を引くのは、男のように見える左端の人物で、頭から背中、そして脚へと弓のように反っている。それに答えるように2番目の女性は上半身を前に曲げて、右足を左足の脛に当てている。三番目の人物は右足を広げ、四番目は反対側の左足を前に上げ、五番目は前のめりになって、最初の人物の伸ばした右手を掴もうとしている。五人が輪になって、漫画のコマのように次々と時計回りに動きがつながって行く。五人は同じキャンバスの平面に描かれながら輪の真ん中に空間を作り、五番目の女性が輪を崩すように前に倒れこんで時計回りのモーメントを生み出している。平面的に描かれたほうが三次元的に描かれた人物よりも豊かな空間や動きを表現する可能性があると言える。

以上で「空間と動き」についてはひとまず終わりにする。説明が錯綜しているけれど、ポイントは絵画を見るということは「知覚にもとづいた想像」であることを忘れないようにして、あとは「知覚」と「知覚に基づいた想像」と「自由な想像」と「錯視」を混同しないようにすれば、それほどの混乱は生じないと思う。それから絵画の平面性は「知覚に基づいた想像」が発動するためには重要な契機だということも付け加えておきたい。

PS:これは決して会田誠を貶めるものではない。会田の絵とマチスの絵はもともと違うものなのだから同一には論じられない。北斎の影響という視点から見れば、会田は主題の引用だが、マチスは北斎の線を学んでいる。《ダンス》の脚の線はバレリーナではなく、北斎の職人の脚ではないかと疑っている。男の裸の脚なんて北斎漫画の職人たちの他にどこにも見られない。しかも、マチスはある意味で頂点を極めた《ダンス》の線に満足せずに新しい実験を生涯つづけたのが会田と一番ちがうところであり、そこが北斎の「画狂」につながるのだ。会田誠は『絵バカ』と言ったかと思えば、『天才でごめんなさい』と言い。そして今度は「もう俺に何も期待するな」という。

つづく

注1:《巨人フジ隊員VSキングギドラ》と《ラオコーン像》 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-860.html





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2014.02.17[Mon] Post 21:57  CO:0  TB:0  漫画とアニメ  Top▲

(2)『漫画とアニメと絵画』:宇野常寛批判 〈本当にサブカルとハイカルはボーダレスか〉

人はアニメをどう楽しむのだろう。アニメの批評はいろいろあるけれど、近頃人生論風社会評論風なものばかりで一向に面白くない。一番話題になったのは『エヴァンゲリオン』の批評だろう。いくつかの論争も生まれている。小谷真理VS山形浩生は何でも「テクスチュアル・ハラスメント」の論争だということだが、もともとつまらぬアニメに二項対立もどきを無理やり見つけて大騒ぎするポモ批評をからかったという至極退屈な出来事だった。

どうやら『エヴァンゲリオン』をいかに論じるかで評論家や思想家の立ち位置が決まるらしい。中でもエヴァンゲリオン論でサブカルチャー批評を確立したのは宇野常寛だ、ということなので、早速Amazonで『ゼロ年代の想像力』を買って読んだ。彼は九十年代の「古い想像力」とゼロ年代の「新しい想像力」を分け、前者を体現するのが『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ(引きこもり/心理主義)であり、後者を体現するのが『DEATH NOTE』の夜神月(サヴァイヴ系/決断主義)だという。いったん類型を決めてしまえば、あとは一瀉千里、アニメや漫画のサブカルチャーばかりか、ボーダレスだとばかり、ハイカルチャーもふくめて手当たり次第にあら筋や登場人物を分類して社会評論人生論を展開する。

それはそれでいいのだが、我々は本当に漫画やアニメに社会評論や人生論を求めているのだろうか。他人は知らないが、わたしは人生論なんかより、キャラクターが「跳んだり、撥ねたり、走ったり」するのが大好きだ。普通の言葉で言えばアクションだ。子供の頃母親に連れられてデズニー・アニメを見に行った。一番良く憶えているのは、ダンボがサーカスの空中ブランコの櫓の上から跳ぶ場面だ。耳が大きいのは羽ばたいて空を飛ぶためだったとは予想もしなかったので、飛んだときはひどく感動した。それにくらべ白雪姫の仕草や動きは子供の目にもぎこちなく気取っているように見えて楽しめなかった。

アニメと実写の違いを知ったのは、白黒テレビの『スーパーマン』の放送だ。出だしの「弾よりも速く、力は機関車よりも強く、高いビルもひとっ飛び!」の所が大好きで、毎週楽しみに見ていた。ところがあるときアニメではなく実写版にかわった。とたんに面白くなくなった。メガネを外したクラーク・ケントは間が抜けて見えたし、空に飛び上がるときはドッコイショと言う感じだった。マントはどう見ても扇風機の風で翻っている。二三度見ただけで見るのを止めてしまった。

アニメと漫画の違いは『鉄腕アトム』で比較したことは前回述べた。アニメと言っても当時はTV漫画と言われたように動きが少なかったこともあるが、アニメより漫画の方が断然面白かった。単純に考えれば漫画アニメ実写の順でつまらなくなるのだが、最近のコンピュータによる合成編集の発達でアニメと実写の優劣は無くなってきた。

そうは言っても「跳んだり、撥ねたり、走ったり」の基準から見れば、『007 カジノ・ロワイヤル』の高層ビル建設現場のクレーンからクレーンに飛び移るシーンや『スパイダーマン』がクモの糸でビル街を飛び回るシーンもCGとの合成なのだろうが、ちょっとやり過ぎな感じもする。いずれ技術が進歩して、こういう問題は解決されるだろうし、ジャンルの違いで棲み分けるかもしれない。

「跳んだり、撥ねたり、走ったり」で忘れてはいけないのは子供用のアニメだ。ダンボはもちろんのことアトムもドラえもんもアンパンマンも空を飛ぶ。子供は夢中になるのだろうが、小学生も高学年になれば飽きてくるし、そもそもこれらのお話はアニメバージョンと漫画バージョンにはそれ程の差はない。なぜ差がないかというと「跳んだり、撥ねたり、走ったり」に差がないからだ。日本の漫画が面白いのはこの「跳んだり、撥ねたり、走ったり」の描写がすぐれているからだが、もちろんアクション描写に重要なコマ割りの技術の優秀さもある。

漫画の技術については専門家に任せるとして「跳んだり、撥ねたり、走ったり」から見れば、白土三平の忍者ものが優れていた。特に白土三平は「跳んだり、撥ねたり、走ったり」の他に「着地」の魅力を付け加えた。いま、ハリウッド映画の『スパイダーマン』がこの「着地」の魅力を存分に使っている。

白土三平の忍者ものは史的唯物論だそうだ。なかには白土三平で左翼思想を学ぶなどと言う者もいたけれど、そんなふうに人は漫画を読むものではない。読んで面白いかどうかだ。わたしは「跳んだり、撥ねたり、走ったり、そして着地する」のを楽しむために漫画を読む。同じことが『エヴァンゲリオン』にもいえる。すでに述べたが、ブログを始めたとき、宇野常寛が持て囃されていた。宇野常寛を読んだら『エヴァンゲリオン』を見なければブログは書けないと、TSUTAYAで借りてきた。ところがこれがトンデモアニメなのだ。「跳んだり、撥ねたり、走ったり」全然しない。「サザエさん」か「ちびまる子ちゃん」を見ている気分になった。ときどき「シモネタ」が入るのがなお退屈だった。あれはジェンダーの問題だったのかもしれない。

白土三平のあとは『ドラゴンボール』が一番の贔屓だった。『AKIRA』や『ジョジョの奇妙な冒険』が期待できそうだったが、理屈が多すぎで連載を一回読むのを忘れるとすぐに話しが分からなくなった。年寄りには漫画は無理なのだろう。いや、そんなことはない。『AKIRA』や『ジョジョの奇妙な冒険』は説明が多すぎるのだ。ポストモダンのサブカル批評が影響を与えたのかもしれない。それにくらべ『ワタリ』や『ドラゴンボール』はお話がシンプルでわかりやすい。ともかく、私の漫画歴は『ドラゴンボール』で終わったわけだ。

ついでに付け加えておくと、「走る」については注意しなければならないことがある。子供が「走る」シーンはアニメや漫画によく出てくる。ときどき転んだりする。宮﨑駿のアニメや『はだしのゲン』がそうだ。どういう意図があるのかあらためて言う必要はないだろう。この前ドイツ在住の日本人学生が福島の放射能汚染で外で遊べない子供を主人公にして制作したアニメ『Abita』が国際賞を受賞した。受賞作をYoutubeで見ると女の子が地震でびっくりして裸足で外にでる。周囲が明るくなる。以前は走ってトンボになって飛べたのに、今度は走って跳んだけれどそのまま飛べずに転ぶ。防毒マスクの男が来て女の子を除染してマスクを掛ける。これでは福島の放射能汚染がまるで危険なレベルのような間違った情報をあたえることにならないか。(

この「走って転ぶ」のは非常に安易な漫画アニメの表現方法だ。フランスで騒ぎになった韓国製の慰安婦性奴隷の漫画もきっと「走って転ぶ」場面があるのだろう。別に反日的だからつまらないと言っているのではない。『エヴァンゲリオン』がツマラナクて『ドラゴンボール』が面白いのは、「跳んだり、撥ねたり、着地したり」が面白いからだ。きっと日本側の反論漫画も同じようにツマラナイものだろう。(注1)

宇野常寛は漫画アニメの音痴ではないか。近頃の評論家も美術家もハイカルチャーとサブカルチャーはボーダレスだという。宇野常寛もサブカルチャーの漫画アニメを材料に高級な人生論や社会評論を展開する。しかし、サブカルチャーとハイカルチャーは別物ではないか。『はだしのゲン』を原爆文学として読むことはできる。人生を論じ社会を論じる事も出来るだろう。そうなればハイカルチャーと言えるかもしれない。しかし『はだしのゲン』の通俗的な正義感や憎悪にまみれた描写にどれほど論じるに足ることが含まれているだろうか。他方通俗的な正義感や憎悪であっても、「跳んだり、撥ねたり、走ったり」が面白ければ、それでよい。それがサブカルチャーの真髄だ。

CG技術の発達が予想に反してアニメよりも実写(映画)を面白くしている。もちろんコマ割が使えるかぎり漫画の優位は変わらない。娯楽としての動画に関して言えば、アニメと映画のどちらが勝利を収めるかわからない。今話題の村上隆の『めめめのくらげ』はもはやアニメでもない映画でもなく、両方のミックスメディアというべき作品だが、まだ、実験の域をでていない。

実写とアニメと漫画の空間と運動を考察してきたが、静止画すなわちイラストと絵画と写真の空間と運動についてはまだ触れていない。もちろんイラストにも絵画にも「空間と運動」はある。動画の「空間や運動」とはまったく違うものだ。それを会田誠の《巨大フジ隊員VSキングギドラ》とマチスの《ダンス》の空間と運動を比較することで考えてみよう。

注1:ツマラナイどころかその反論ブースの漫画にはハーケンクロイツが描かれていたそうだ。それじゃ、フランス側主催者が怒るはずだ。

スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2014.02.04[Tue] Post 15:29  CO:0  TB:0  漫画とアニメ  Top▲

(1)『漫画とアニメと絵画』:空間と運動

村上隆が監督した映画『めめめのくらげ』がレンタル開始になった。例によって罵倒と絶賛が相半ばしている。私もTSUTAYAの宅配レンタルのリストに加えた。

ちょっと前にシュウウエムラとのコラボで制作したアニメの「シックスハートプリンセス・ピンク・オア・ブラック」が話題になったばかりだ。これで村上はイラスト、フィギュア、アニメ、映画とすべてに関わったことになる。画家が映画を撮ることはよくある。例外もあるけれど、おおかた失敗する。池田満寿夫も、それから画家ではないけれど絵心のあった黒沢明も構図や色彩に拘って失敗した。

映画やアニメは動画なのだから静止画の写真や絵画とは時間の様相が異なることは誰にでもわかる。しかし、時間だけではなく空間もまた異なることに人はなかなか気づかない。3D映画の『アバター』は両眼視差を利用した立体映画なのだが、観客は多かれ少なかれ吐き気を感じたのは、余計な錯視現象を無理やり付け加えたから、冗長になったのだ。動画は両眼視差がなくても、運動視差あるいは「時間視差」によって三次元空間の「擬似知覚」が生じる。 錯視ではなく《擬似知覚》と言ったのは、これはあくまで「知覚に基づいた想像」なのだが、限りなく知覚に近い想像だからだ。

両眼視差など使わず、実写とCGの合成でみごとな3D空間のイリュージョンを生み出したのは『007カジノ・ロワイヤル』の冒頭の追走シーンだ。観客は明らかに三次元空間の中で三次元のジェームズ・ボンドが激しいアクションを繰り広げているのを「知覚」する。スチール写真の場合は、我々は印画紙の図像を見ており、その知覚に基づいて三次元空間を想像している。その三次元空間は写真を見ている我々の身体空間とは印画紙の表面で分離されている。それに対して動画ではカメラの視線と観客の視線は重なりあって、我々の身体空間は動画の空間と接続し一体となる。このことは映画がストップして静止画になったとき矩形のスクリーンが現れ、自分の身体がスクリーンの外へ放り出されることで分かるだろう。

身体の運動感覚と対象の連続的な見え方(射映)の変化の統一として三次元の事物が知覚されるのだが、動画の観客自身は動いていないのだが、カメラの移動や対象の変化があたかも観客の動きであるかのような感覚を与えてくれるのだ。もちろんこれは真正の知覚でも、オプティカル・イリュージョン(錯視)でもなく、写真や絵画とおなじように「知覚に基づいた想像」なのだ。退屈な映画を見ているとふと我に返ってスクリーンの四角が気になることがあるだろう、それがスクリーンに映った図像の知覚なのだ。 運動変化のある動画のほうが、静止画よりも立体感や奥行きのリアリティがあるのはそういうわけだ。

ニンテンドウが3Dのゲーム機で失敗したのが業績低迷の原因の一つだと言う。なかには3Dのスイッチを切ってゲームをするプレーヤーもいたそうだ。何度失敗しても手を変え品を変えて「3D映画」が出てくる。子供の時分赤と青のセロファンのメガネを掛けて立体映画を見たけれど、これはダメだと子供ごころに思った。それ以来色々な方式が案出されたけれど成功したものはひとつもない。これからも両眼視差を利用した新式の3Dが鳴り物入りで登場しては失敗するだろう。原理的にダメなのだ。

さて、今度は「アニメと漫画」を考えてみよう。アニメも動画なので漫画と比べればリアリティがある。動いているキャラクターはフラットな描写でも漫画よりはるかに立体的に見えるし、自分の周りに容易に三次元の空間を作り出す。それだけではなく、その動いているものには魂が宿るのだ。 もともと彫刻やフィギュアと較べて絵の人物は生きているように見えるけれど、絵が動けばなおさらのこと生き々々としてくる。ディズニー・アニメで椅子や箒が踊りだすと生き物のようにみえるのはその例だ。

『鉄腕アトム』のアニメは第一回目の放送から見た。あんなに面白かった漫画の『鉄腕アトム』が全然面白く無い。それで同じエピソードの漫画とアニメを較べて見た。アニメが面白く無いのは一言で言えば動きがちゃっちいのだ。キャラクタだけ左右に動いて、背景は静止したまま、なかにはキャラクターの口だけがパクパクしているのもある。カメラはズームするか左右に移動するぐらいで、運動視差がないので奥行きや立体感は生まれない。 それにくらべ漫画はコマとコマの間を想像力が埋めるので、アニメよりもむしろ豊かな空間が生まれると言って良い。もちろんどんな漫画でもそうだと言うわけではなく、優れた漫画だけに言えることだ。

注意して置かなければなければならないのは、コマとコマの間を想像で埋めると言っても、その想像は勝手気ままな「自由な想像」ではなく、前のコマと後のコマの「二つのコマの知覚に挟まれた想像」が働いている。 漫画を見るということは前のコマの記憶(過去志向) と次のコマの予期(未来志向)の時間の流れを構成することだ。漫画を読んでいてしばしば前のコマやページに戻るのは、もう一度その時間の流れを体験するためなのだ。
 
現在のアニメ制作はCGであり、セル画の代わりにレイヤーが使われている。ずいぶんとリアルになり、カメラの動きにしたがって背景も変化するようになったけれど、上手く使わないと、逆にそれがちぐはぐな印象を与えることもある。村上隆の『6HP』はセル画方式のアニメのような極端なぎこちなさはない。秋葉原の遠近法の街を巨大なプリンセスが浮かんで行くシーンはセル画方式では難しかったろう。奥行きのない舞台の上のパラパラは音楽に合わせてとても可愛い動きをするけれど、パラパラはバレーやダンスとは違って日常的な仕草から生れたサブカル的な踊りだから、バレーやダンスの動きの美しさは絵に描けても、パラパラの可愛さは絵に描くことも、写真に撮ることも難しい。

それなら絵画の根拠は何だろうか。絵画にしか出来ないこと、マンガやアニメや、そして写真や映画には出来ないけれど、絵画にできる事があるだろうか。もちろんある。まさにここにこそ絵画の「知覚に基づいた想像」の出番があるのだ。

絵画の「空間と運動」を理解するために会田誠の《巨大フジ隊員VSキングギドラ》とアンリ・マチスの《ダンス》を比較してみよう。


(2)『会田誠とマチス』:(空間と運動)へ


2014.01.24[Fri] Post 22:52  CO:0  TB:0  漫画とアニメ  Top▲

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