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野田裕示と小林正人 : 〈オブジェと絵画〉

野田裕示という不思議な画家がいる。

「国立新美術館」の大々的な回顧展(2012年)は「絵画のかたち/絵画の姿」のサブタイトルが付いている。神田直子(学芸員?)が「絵画としての平面性と、豊かなイリュージョンが横溢する絵画空間とを共存させることへの挑戦である」と言っている。

ところが野田裕示の絵画は、イリュージョンのない「絵画もどき」のオブジェに見える。キャンバスに凹凸をつけたり、額縁状の箱にいろいろなものを詰め込んだり、あるいは、ロール・キャンバスをそのままくっつけた作品は三次元の立体である。立体はそもそも知覚の対象でありオブジェなのだ。オブジェは知覚されており、射影を通して現れるから、イリュージョンをもちにくい。通常の絵画のように平面上に「イリュージョン」が見えるのではなく、絵画の平面にいろいろな加工をして凹凸を作り、それを少し離れて見れば、矩形の平面的な絵画に見えるという何か倒錯した絵画になっている。野田氏は「平面的な矩形」という絵画の必要条件を残すようにしている。ジャッドのミニマル・アートやラウシェンバーグのコンバイン・ペインティングと違って、あくまで絵画みたいに見える。その限りではイリュージョンが残っているともいえる。

ところが、野田裕示の「絵画」には、絵画を絵画たらしめている「イリュージョン」を台無しにしてしまう特徴がある。「工芸性」だ。野田は絵画表面を磨いたり削ったりして表面を工芸的に仕上げている。そのため絵画平面が「事物の表面」になって「知覚に基づいた想像」が働かなくなり、イリュージョンのない「平たいオブジェ」になってしまう。知覚の対象ならそれは絵画ではなく、オブジェだ。ロスコの絵画表面も一見すると工芸的な表面仕上げに見えるけれど、その色彩は事物(キャンバス)の表面に反射した「表面色」ではなく、質感や距離感のない「面色」であり、従って空間のイリュージョンがある。

野田裕示は「絵画のかたち/絵画の姿」を求めながら、絵画を絵画たらしめるイリュージョンを排除することに30年間努力してきたことになる。しかし、野田はイリュージョンを「なだめ・すかす」ばかりで、ジャッドのように絵画を極小にすることも、ラウシェンバーグのように平面性を破壊することもしなかった。中途半端で生ぬるい。それが野田氏の作品を見るとき感じる凡庸さの理由だ。

『国立新美術館』の個展会場に入ったとき、最初に目に入る赤い花弁のような作品、そして最後の親指か仏像のような大作はまさに野田裕示の「絵画のかたち/絵画の姿」だったのだろう。具象でもない抽象でもない絵柄や工芸的な仕上げを素晴らしいという観者もいるだろうが、私には工芸的な仕上げでイリュージョンを否定し、「~ような形」でイリュージョンを密かに持ち込もうとしてるように思えた。

野田裕示と小林正人はともに「絵画とは何か」を探求している。野田氏は「絵画の可能性」を探り、小林氏は「絵画の脱構築」を試みている。二人が異なる点は、野田裕示が「絵画は四角い平面」だと考えているのに対して、小林正人はあくまでも「絵画はイリュージョン」だと考えていることだ。





 

スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2014.06.01[Sun] Post 00:52  CO:0  TB:0  野田裕示  Top▲

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