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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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デュシャンの《瓶乾燥器》と《便器》 : 田中功起と高柳恵理

デュシャンなんか簡単だ。

《飛行機のプロペラ》 航空ショーで、ブランクーシに、「絵画は終わった。このプロペラ以上のものを誰が作れるというんだ」と言ったという。() 写真のときも誰が写真以上の肖像画を描けるのだと言われた。ところが、写真にはできないモダニズムの絵画がうまれた。プロペラも同じことだ。彫刻も絵画も工業デザイン以上の素晴らしい「線」を生み出した。ブランクーシの抽象彫刻しかり、マチスのドローイングカットアウトしかり。

《大ガラス》は透明のガラスが支持体なので、厚塗り薄塗りをした絵具の物質性が透かして見える。《絵画の暗殺》だ。タイトルの意味に悩むことはない。

《自転車の車輪》は説明の必要はないだろう。誰だって子供のころ自転車の前輪を回転させて遊んだことを思い出すだろう。ときどき車輪が逆回転したように見えるのが不思議だった。影を見るとなお面白かった。でも、大人用の前輪を持ち挙げているのは大変だ。それで、デュシャンは丸椅子に取り付けて楽ちんをしたわけだ。

《瓶乾燥器》と《便器》の違いは素直に見れば一目瞭然だ。《瓶乾燥器》はどこに置いたって面白い。厨房や居間だって、美術館だって、どこに置いても「ちょっと面白い」オブジェになる。最初に見たときは「バベルの塔」みたいだと思った。

それに比べ、《便器》の方はそれほど面白いものではない。ふつうの日用品のデザインだ。それが証拠にスティーグリッツが撮った写真を見て、初めて、人は便器が仏陀のように神々しいと言った。

便器が道徳に反するとか、オリジナリティがないという理由で展示を拒否されたとき、デュシャンが匿名で「日常品を日常の世界から芸術の世界に「ずらす」と芸術になる」と反論した。

《瓶乾燥器》は「ちょっと面白い」からスキャンダルにならなかった。それでは自分の《反芸術》の目的は達せない。だからデュシャンはスキャンダルが必要だった。デュシャン自身だって《便器》がアートだなんて思っていない。ところが意に反して便器は現代アートになってしまった。デュシャンはムキになって、反芸術どころか、無意味な痙攣のような作品を作り始めた。

従ってデュシャンのレディメイドには、《瓶乾燥器》のようなちょと面白いものと、《便器》のような反芸術的なものがある。《便器》の系列からポップ・アートが生まれた。最近《瓶乾燥器》のアーティストも日本に現れている。それが田中功起と高柳恵理だ。

二人は日常生活の中の「ちょっと面白い」ものを見つける。高柳恵理は雑巾やハンカチのオブジェを、田中功起は風に飛ばされるビニール傘や魚を捌く料理人など、見たことがあるけれど、そのまま見過ごしてきた「ちょっと面白い」ものに注意をむけてくれる。

二人はいずれ行き詰まるだろう。今は、アーティストというだけで補助金やイヴェントの仕事はあるだろう。しかし、販売する作品がなければ、そのうち、理屈の上に理屈を積み重ねることしか仕事はなくなる。「作品」は次第に哲学的に空虚になる。ここで美術評論家の出る幕である。そして、アーティストは学芸員や編集者のご機嫌を伺うようになる。あの独自の仕事をしていた中村一美さえも。


皮肉なことに、現代美術を破壊したダダのデュシャンと、ポップ・アートのウォーホルが20世紀後半の美術業界の収益の大半を稼ぎだしたのだ。ポップ・アートのバブルはまだまだつづくだろう。







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2014.05.16[Fri] Post 22:31  CO:0  TB:0  デュシャン  Top▲

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