誰でも理屈をつければポップになる。
北斎の『諸国滝廻り』は言わば観光地のポスターなんだから、理屈なしの正統派ポップだ。
千住博の《滝》は絵の具を流しているから、滝の描写ではなく滝そのものだそうだ。大量生産の技法でハイアートを作ったところがポップだ。山種美術館で千住博の《滝》の前で若い女性が涙を流していた。純正キッチュだ。
横尾忠則の滝の絵葉書のインスタレーション。絵葉書のコレクションというところがポップだ。靴を脱がないと通さないところがポップだ。観者が腹を立てるところがポップだ。絵が下手なところがなおポップだ。それでも「画家宣言」するところがなおいっそうポップだ。横尾忠則はジャパン・ポップの王様だ。
会田誠の《滝の絵》は会田自身がラッセンのイルカの絵と同じ癒やしがテーマだと言っている。ご存知とおり会田誠は当代随一の美術評論家である。会田の言葉にはいつも慎重で奥深い。その会田が以下の様にツィートしている。
会田誠 @makotoaida
↓(すげー間隔空いちゃいましたが)僕の「書道教室」は、見た目の雰囲気ではなく、内部の論理的に「ポップ・アート」のつもりで作りました。そして、僕のほとんどの作品はそのように作っているつもりです。だってファッションじゃないですから。2014.03.24 19:36
会田にしては意味不明である。というより分かりにくい。無理やり解釈すれば、会田の考える括弧付きの「ポップ・アート」は一般的にいうところのポップと違うということだろう。そう考えないと、何故「ファッション」と言う言葉が唐突に出てくるか分からない。会田は近頃のポップ・アートはファッションになっていると批判しているのだ。
会田は自分の作品を現代美術といったりコンセプチャルといったりしているが、今度は「ポップ・アート」だと言っている。しかし、会田誠は「現代美術には賛成出来ないところもある」と留保をつけたことも何度かあった。そのことを考え合わせると、会田誠が現代のファッション化した「ポップ・アート」に批判的だという解釈はあながち間違いではないだろう。
さて、ポップ・アート特集の『美術手帖』が届いている。まずは村上中原ヤノベの鼎談を読むことにしよう。