ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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「失敗した詐欺事件」と「成功した詐欺事件」:和田義彦と絹谷幸二の場合

昨日(8日)で『上野の森美術館大賞』東京展(後期)が終わった。これで佐藤順子の《集合写真》は永遠に見てもらう機会を失ったわけだ。残念だけど仕方ない。

この頃、朝早く起きると目が冴えて眠られない。以前は頭がボーとしたのだが今はそんなこともない。いろいろ、絵のことが頭に浮かぶ。これまで混乱していたことに様々な「組み替え」がおこる。小林史子の《壁》のように。今朝は小林正人の《この星のモデル(画家)#4》が小保方さんに似ているなぁ、おちょぼ口だからかなと思いながらも、何故、絵具のカタマリが眼鼻や口についているのに邪魔にならないのだろうか長い間考える。これは知覚なのだろうか、それとも知覚に基づいた想像なのだろうか。あるいはただの想像なのだろうか。ロダンに未完の彫刻がある。彫刻は彫られたところも彫られていないところも基本は知覚なのだ。立体では知覚が優位になる。立体の中から立体が現れる。しかし、小林正人の《この星のモデル》はちがう。絵具のカタマリの下から平面的な絵画が現れる。あるいは絵画の平面を絵具のカタマリが侵食し始める。

最近原美術館で展観されたミヒャエル・ボレマンスが大変話題になったようだ。あれは「絵画だからできる事」というけれど、ただスナップ写真風の「人の何げない表情やしぐさ」に化粧やペイントや飾りをつけただけではないのか。何故そんなに感動するのだろう。マネに「大げさな表情やしぐさや飾り」を付け加えただけとも言える。マルレーネ・デュマスの「無表情な」フェイスペイントを見れば分かるだろう。

それから、佐藤順子のキャッチフレーズを考える。これまで、『70才の新人』と『白いキャンバスの上のマチスとステラの偶然の出会い』というのがあったけれど、今度は『100歳まで生きて春画漫画絵画の三画を極める』というのを考えた。今、佐藤順子は北斎の春画をもとに絵を描いているけれど、それはあくまでダブルヌードのためなのだ。エロティックなものと線の面白さは両立しない。マチスはヌードと室内画を区別していたけれど、どちらにもエロティックなものはない。この問題はもっと深く考えることが必要だ。

もちろん最後は『上野の森美術館大賞展』と千住博のことだ。漠然と「詐欺」という言葉が浮かんだ。「絵で一儲けしようと企む者は画廊主であろうが画家であろうがみんな詐欺師になる」とまとめたけれどシックリ来ない。なんとか「詐欺」という言葉を使いたいのだが、そうは上手くいかない。いろいろ考えているとある盗作事件を思い出した。

この事件が起きたとき、私はこれは「失敗した詐欺事件」だと思った。そうであるなら「成功した詐欺事件」を知らなければ、事件の真相は分からない。成功した詐欺事件として絹谷幸二をすぐに思い出した。三越の個展を見に行ったことがある。政治家の花が並んでいた。名前を隠すのも変だから言うけれど、ちょうどその頃、和田氏はテレビでバッシングにあっていた。二人の経歴を調べると、同じころイタリアに留学していたことを知った。そしてもっと驚いたことは絹谷氏がすでに芸術院会員だったことだ。

ちょっと人より手先が器用だっただけで、ヘタウマのようなフレスコ漫画だけで官からあらゆる便宜を供与されているのを見ると、どうみたってあうんの呼吸ぐらいはあったとしか思えない。絹谷幸二の作品をあらためて見れば、ちょっと古いけれど、まさにポップ・アートの王道を行っていると思えてくる。「フレスコ漫画」という新奇な手法でイタリアの観光ポスターを描いたのだ。

私は終始一貫和田氏に同情的だった。和田氏を批判していた美術評論家に盗作疑惑があることが露見したことがある。しかし、盗作は露見するが、難解で意味不明な美術評論の嘘は露見することはない。近頃は美術家と評論家を兼ねた岡崎乾二郎や黒瀬陽平のようなアーティストが現れていっそう混乱に拍車をかけている。ふたりに共通していることはまともな線がひけないことだ。

和田氏は何をしているのだろうかと久しぶりにオフィシャルサイトを覗いてみた。事態は予想もしない展開をしていた。喜ぶべきなんだろうが、何か納得できないような気もする。

次回につづく

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2014.05.11[Sun] Post 12:54  CO:0  TB:0  上野の森美術館大賞展  Top▲

千住博は王道を行く 

2007年3月24日、今から7年前のブログです。hikawaseiwaさんのツイッター「いや違うな。”王道”を歩めない人間はいる。ある一定水準は超えていたとしてもいやそれは違うだろと踏み外してしまう人間への愛だ。彼の宿命への共感だ。」の”王道”の言葉を見て思い出した。「彼」というのはたぶん倉山満のことだ。

もちろん、それだけではなく、「『上野の森美術館大賞展』は千住博のためにあるのか」()の補遺としてアップした。

以下全文転載

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 千住博・浅田彰・黒川紀章の鼎談「美の王道」


 黒川紀章展-機械の時代から生命の時代へ-(国立新美術館2007年)に際して行われた千住・浅田・黒川の鼎談「美の王道」をネットで見たので、その感想を書こうと、もう一度ページを検索したら、すでに閉鎖されていた。2ちゃんねるの崇拝者の間で、その場を仕切る達人と評判の高い浅田が、千住と黒川を相手にどんな活躍をするのかもう一度確かめたいと思ったが、しかたない、いい加減なメモをたよりに書くことにする。


 浅田は、「建築文化」の古いバックナンバーを取り出し、そこに載った「現代建築の変容」という黒川との対談のことから話をきりだした。そこで浅田は、黒川が西洋の土木中心主義を批判するのに対して、自分は、たんなるアジア回帰でいいのか、新しい美術館はモノをためこむんじゃなく、半透明なインターフェースをもち、いろんな情報が行き来する開かれた美術館が必要だといっていて、それが、奇しくも今回、この「国立新美術館」として実現したわけでと、自分の先見の明を自慢することから始める。黒川は千住と浅田の背後から観客席のほうをカメラで撮っている。千住が黒川の「花数寄」について、本能的なものと概念的なものの融合だと説明しているうちに、いつの間にか千住の滝の絵の話になって、浅田がアンドレ・マルローは那智の滝(?)を見て、アパリシオン、出現であると言ったと、自分がマルローを那智の滝に案内したことに触れながら、そこには東洋的な時間の概念があるというと、千住は千住で滝はサブライムだと浅田とエールの交換をし、日本の庭園はその中を歩くということが大切で、線対称でも面対称でもなく、XとYの二つの変数が色と形の中間領域の利休鼠がエロティックな建築なのであるとだんだん話がおかしくなってきたところで、浅田が岡倉天心の「茶の本」は1907年に出たと突然言いだして、これはきっとフェノロサなんかを持ち出して、東洋と西洋の文化について蘊蓄を傾け、千住の混乱を整理してやるのかと思ったら、浅田は1907年とういう発行年に自信がなくなったのか、確か,そうだったと思います。あとで見ればわかりますというようなこといって、たぶん「建築文化」のことだろう、机の下を手のひらで示している。なぜ発行年を忘れたぐらいでそんなにあわてるのかわからないが、たぶんクラインの壺と同じに、西暦年は自分の議論をもっともらしくする小道具なのだろう。そんなこんなで浅田はemptyと数寄がどうしたこうしたと天心はそこそこに話は利休に飛んで、利休の侘び数寄はやりすぎのところがあって、茶室は暗くて相手の顔さえ見えないが、そのあとの誰かさんの茶室は窓が沢山あって明るいと、やっとのことで黒川の「花数寄」の話になったのに、千住がまた、花数寄にはお茶のコンセプトあって、異質なモノがぶつかって、コンクリートとガラス、直線と曲線が非常に絶妙に調和していると、まるで料理評論家のような物言い。


 こんな具合にかみ合わないままに二人の話がつづくのだが、一向に浅田の素晴らしい仕切が見られない。ところが、どこから話がそうなったのか思い出せないのだが、浅田が突然「永徳から千住へが王道である」と帯作家の面目を施す。誰のことか判らないが、マーケティングやいろいろと仕掛けるような覇道は十年経てば消えていく、そこへ行くと千住さんは王道、いずれ残るんですといって、これは仲間褒めじゃなくて言うんですけどと付け加えたけれど、さすがに心にも無いことを言ったので恥ずかしかったのだろう、ちょっと褒めすぎですけれどとしきりに弁解しているのだけれど、千住はそんなことにお構いなく、有り難うございます、自分が非難されるのは王道の宿命だと思っていますと応える破廉恥ぶり、何しろ千住は自分の滝の絵を紀貫之の花実相兼の美学を具現化したモノだと言っちゃうぐらいだから、浅田の褒め言葉なんかまだ足りないと思っているのだろう、ルノワールが王道だ、世間は本物が分かっていないとロリコン画家を褒め始め、肝心の黒川のことなんかそっちのけで盛り上がる。そこは、さすがに浅田、我に返って、黒川に話題を向け、商業的に成功したっていいじゃないか、売れたら売れたで何がわるいかというのが私の考えでと、ご都合主義もいいところ、とにかく、永徳を受け継ぐのが千住なら、黒川紀章は丹下健三を受け継ぐ王道だとまとめて一件落着。


 このあと、黒川が座談に加わって、自分のキーワードの共生とかメタボリズムとか花数寄とかの説明をする。すこし滑舌がわるいが、日本文化はミニマリズムではないと、ポストモダン風なことも付け加えてなんとか鼎談の格好をつけた。 千住は宗教のかわりに人類を救えるのは美術だというし、浅田はカント以降は真善美が切り離されたが、これからは黒川のように真善美を合わせて考えていくような発想がひつようだ、と随分と古くさいことをいったりしているうちに鼎談は終わった。 見終わった後の感想だが、浅田はそんな仕切の名人とはみえなかった。細木数子と加藤周一を足して二で割ったような非常に古めかしい感じの知識人で、颯爽としたところもなく、その場を仕切るなんてことにほど遠くて、三人が三人とも、勝手に自慢話をしているだけの奇妙な鼎談でした。 千住博展(山種美術館)へ

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以上
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2014.05.04[Sun] Post 21:50  CO:0  TB:0  上野の森美術館大賞展  Top▲

「上野の森美術館大賞」展は千住博のためにあるのか。

第32回上野の森美術館大賞展の受賞作はなぞである。

《玄牝》は、「さすがに大賞だけあって、なぞなぞも特大である。いくら二流の公募展といっても大賞(グランプリ)受賞作である。何か取り柄があるにちがいないと探すのだが、何もない」()

高度な描写技法があるのだが、絵画表現には何の効果も生み出していない。それを千住博は選評で「見たこともない色彩で描かれた人工的で誘惑的な世界、それをアクリル絵具の安っぽさと重ねあわせて描き切った作為は見事だ」とばかり、凡庸さの中に新奇珍奇を競うポップ・アートに祭り上げるのだ。

「描き切った作為は見事だ」の一文を読んで私は憎悪すら感じた。

Kindleで柿栖恒昭の『現代絵画の再生』を読んでいたら、ニョウボの佐藤順子がぷりぷりおこりながらやって来た。大賞展のカタログを開いて「ココを見てよ」と言う。指差すところを見ると、王青さんの経歴の一番最後に以下のようにあった。

2013年 芸術学舎千住博ザ・スーパー・アートスクール入学

とあった。佐藤順子は不正とは言わないまでも八百長があったに違いないと言う。でも、名前は隠して選考するんじゃないのか、と言うと、絵を見れば誰のか判るじゃないと言う。たしかにそうだが、もし不正のようなことがあったら、わざわざこんな経歴を書くだろうか。きっと隠すだろう。わざわざ書いたということは、むしろ不正は一切有りませんと揚言していることにならないか。

ためしに芸術学舎を検索してみた。すると、あっけなく、すべての疑問が解けた。『千住博 ザ・スーパー・アートスクール』は、京都造形芸術大学が東北芸術工科大学の協力で開いた社会人向けスクール「芸術学舎」で2013年8月より開講された新講座だ。日本を牽引し、世界に発信できる芸術家の養成をめざすアートスクールだ。その一期生が王青さんだ。

何か話が出来過ぎていないか。王青さんはいわば大賞をとるために送り込まれた人物ではないのか。送り込んだ学校の校長が送り込まれた公募展の選考委員をしているのは偶然だろうか。アートスクールは2013年に開講し、年4回の開講、受講料は10万円、第四回の最終講座は2014年2月16日、ちなみに大賞展の搬入は2月25/26日と理想的なスケジュールだ。しかも上野の森美術館大賞の選考委員は今年から大幅に入れ替えが行われた。しかも、しかもが続くけれど、上野の森美術館は既成の美術団体の枠を越えた組織であり、千住博も無所属だ。そういうわけで上野の森美術館と千住博の思惑は完全に一致する。

大賞展の選評を読むと明らかに千住博が仕切っている。ポップ・アートのレトリック(屁理屈)も自家薬籠中の物にしている。土屋禮一の「今回はセクショナリズムを超越した作品」とか、山本文彦の「精緻な今日的な技法」とか、あるいは岡田修二の「パラドキシカルなイメージ」などはたぶん千住博の影響にちがいない。田中一村やゴーギャンと比べるのではなく、主題が似ているルソーの《夢》と比べれば、王青さんの技法などコンピュータモドキの古臭いイラストの技法であることは明らかなのに。

結論を忘れていた。年四回の開講でしかない《千住博ザ・スーパー・アートスクール入学》をワザワザ書き入れたのは何も公明正大だからではなく、『上野の森美術館大賞展』は千住博のためにあるのだと高らかに宣言するためだ。アートスクールの出身者であることを書かなければ、王青さんを送り込んだ意味はなくなる。

ひとまず終わる。今日から『上野の森美術館大賞展』後期が始まる。もう、佐藤順子の《昭和35年度都立西高等学校入学 1年D組》を見てもらうことは諦めた。大賞展に行く入選者の親戚知人の方は是非とも、「植物遠近法」で描かれたルソーの《夢》の絵葉書でもポケットに忍ばせて大賞受賞作《玄牝》をゆっくりとご鑑賞ください。いずれ、ポップ・アートの傑作と言われる時が来るでしょう。


2014.05.02[Fri] Post 11:50  CO:0  TB:0  上野の森美術館大賞展  Top▲

上野の森アートスクール 男性ヌード

佐藤順子が月一回ヌードデッサンに行く上野の森アートスクールのスタッフはみんな良い人たちだ。入選したとき、エレベーターで助手に「おめでとう」と言われた話はした。佐藤順子が「入選なんて誰でもするんでしょう」というと、助手が「そんなこと言わないでくださいよ。わたしは2点出したけれど2点ともダメだったんだから」と言った。いつも一言多い佐藤順子は「わたしは3点出したから、もう1点出せば良かったのに」と口まで出かかってやめた。

絵画教室と違ってアートスクールというのはどこでもプライドが高い。佐藤順子はエッチング、塑像、デッサンといろいろ探したこともあるけれど、まともに対応してくれるところは少ない。年齢を聞いただけで冷たくされたことが再三あった。それに比べ上野の森アートスクールの事務は、高齢の生徒が多いこともあるが、親切で対応がいつも速い。あるとき事務からアンケートが来たので、その他のところに「男性モデル」と書いたら、次の学期からすぐに男性モデルの回を設けてくれた。

その男性モデルのデッサンをもとに紙にアクリルで描いたのが下の絵だ。



夫以外の初めての男性モデルのヌードデッサンをもとに描いた絵だ。紙にアクリルで描いた。プロフィールにある男性のバックヌードは夫のわたしがモデルを務めた。ずいぶんと上手くなったことが分かるだろう。これもアートスクールのスタッフのお陰だ。ありがとうございます。




2014.04.02[Wed] Post 18:58  CO:0  TB:0  上野の森美術館大賞展  Top▲

『上野の森美術館大賞展』の受賞作について考える

市原研太郎のツィートが私のTLに流れてきた。

アートに無知のみならず感受性に欠ける連中が審査員を務める展覧会には参加するな。審査員長を頂点とするアート界のヒエラルキーを維持するためのイベントでしかない。ヒエラルキーを拒否し自由と平等を実現するのがアートであるからには、そのような展覧会に出品することはアートへの背信行為である。

随分と過激な主張のようだけれど、少し前に茂木健一郎が同じように公募展批判をしている。ニョウボ(佐藤順子)は親戚に画家がいるので美術団体のことは知っていたが、上野の森美術館大賞展はその主旨に「既成の美術団体の枠を越えて」とあるので、ものは試しに応募した。

試しといっても、もうじき寿命もつきるので、入選ぐらいしておかないと画歴ゼロでは死にきれない。結局「下手な鉄砲作戦」で100号を三点応募することにした。三つとも落選か、一つでも入選すれば大賞までいくと思っていたらしい。いくらなんでもそれは無理にしても、発表された受賞作を見て黙ってしまった。今年は審査員の大幅な入れ替えがあったらしく、去年と比べると受賞作の質が明らかに落ちている。質が落ちたこともあるが、そもそも何故それが賞に値するのか皆目分からない。

まずは優秀賞。
彫刻の森美術館賞とフジテレビ賞の日本画が二点、片方が具象でもう片方が抽象だ。ところがこの二点双子みたいにソックリだ。なんだろう、なぞなぞみたいだ。ニッポン放送賞は写真を使ったものだがこれも何が面白いか見当がつかない。モノクロで夜の海にサーチライトが照らしている。近頃流行りの写真的な作品だが、きっと優れた描写の技法があるのだろう。最後の産経新聞社賞はタイトルを見ると夜の風景らしいのだが、最初見たときは不謹慎にも、3・11の洪水で火事が起きているのかと思った。ともかくグジャグジャでこんな汚い絵は初めて見た。これも専門家が見ると「凄い」テクニックなのだろう。

そして大賞。
さすがに大賞だけあって、なぞなぞも特大である。いくら二流の公募展といっても大賞(グランプリ)受賞作である。何か取り柄があるにちがいないと探すのだが、何もない。だからといって優秀賞のように魂胆がミエミエということもない。描写技法がひどく凝っている割には、その目的が分からない。アクリルにキャンバスというけれど、素直にみれば、PHOTOSHOPでレイヤーを重ねて作ったように見える。葉っぱが女の裸体の向こう側から股の間を通って、こちらの腿の上に同じ平面上で重なっているのは空間がぺっちゃんこで不自然に見える。なんといっても光がおかしい。女の体が不自然に光が当たって自然光には見えない。中央の奥にライトアップされたような明るい滝があり、屈んでいる女の長い髪が真っ白だ。どうもその辺りに光源があるらしい。半透明の葉もある。

どうやら、王青さんは《玄牝》で古典的な陰影の描写とは違う描写法を使っているようだ。故意に不自然に描くことで、新奇珍奇を狙ったのかもしれない。でも、案に相違してコンピュータやエアブラシを使って描いたようなひどくつまらない作品になっている。陰影や光(線)はレンブラントで分かるとおり、観者の視線や絵画空間を強く支配する。モダニズムはこの陰影や光(線)の描写を捨てることで視線の自由を獲得した。

ヌードは稚拙である。尻の線が『007 慰めの報酬』(昨日たまたまDVDで見た)のタイトルバックに出てくる影絵のヌードダンサーのように、どこにでもあるヌードだ。どう表現していいのかわからないが、たとえアクリル絵具で描いたとしても、映像的な描写の絵画をキャンバス上に描くには相当の技術が必要だ。たぶんこれは推測だが、ネット上ある画像を収集してCGソフトで加工して、プリントアウトしたものを見ながら、アクリルでキャンバス上に描いたのではないか。

もちろんそれがいけないとはいわない。今井俊介や原田郁のようにコンピュータで絵画のシュミレーションをしながら独自の作品を描いている画家もいる。王青さんが「これは、フォトショプで制作した映像作品を(のように)、アクリル絵具を使っでキャンバスに手で描いたポップ・アートだ。リキテンスタインはもう古い」というかもしれない。そうしたら、美術評論家はこぞって褒めそやすのだろうか。彼らは似たようなことを毎日やっている。『美術手帖』4月号はその記録だ。

われわれは「絵画」に還らなければならない。たとえば、王青さんの《玄牝》とルソーの《夢》を比べたら、その主題の類似に拘わらず、片方はジャンクであり、もう片方は紛れもなく絵画であることは、どんな無知な素人にも一目瞭然であろう。

本当はこのブログは佐藤順子のプロモーションのために書いているのだが、逆にますます泥沼にハマっていく。これでは『上野の森美術館大賞展』に来るなと言っているようなものだ。そうなると、佐藤順子の《昭和35年度都立西高等学校入学 1年D組》も見て貰えない。それじゃ困る。今年度の『上野の森美術館大賞展』の見どころは佐藤順子の《1年D組》である。どこを見るのか。「記録と記憶」ではない。「失われた時」でも「昔のクラスメイトの肖像」でもない。見るのは詰襟と女子の私服の平たいパターンを辿り、詰襟と私服の着せ替え人形の首をあちこちへと流れるように移りゆき、そしてその流れに身を任せる愉悦を味わうことだ。(柿栖恒昭)

佐藤順子の《1年D組》を見れば、古い主題絵画と新しいフォーマリズム絵画の違いが理解できる。どうぞ第32回上野の森美術館大賞展(後期5月2日金~5月8日木)にお越しください。(少しはフォローになったかな)



2014.04.01[Tue] Post 22:36  CO:0  TB:0  上野の森美術館大賞展  Top▲

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