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黒瀬陽平VS今井俊介 抽象表現主義とは何か。

近頃はあまり聞くことのない「抽象表現主義」と言う言葉を続けざまに二度聞いた。一度は村上隆が、もう一度は黒瀬陽平が、二人とも批判的なニュアンスで使っている。

村上隆
ワシが現代美術を始めた90年代初頭は、戦後の歪んだ藤枝晃雄式アメリカ抽象表現主義礼賛が中心に動いていた。そのシーンへの嫌気が比較文化的アートを産み出す背景となったのだが、今やその比較文化的アートが本流となっており、それはそれで、歪んでしまったものだと感じる。 via Echofon 2014.02.19 09:48


村上隆はちゃんと藤枝晃雄の名前を出しているし、「ポップ/ネオプップ」の立場から見れば概ね正しい現代美術の把握なのだろう。「比較文化的アート」というのは、おたくやクール・ジャパンやスーパーフラットのことになるのだが、それがすでに歪んだものになっている。それなのに日本の美術界は気づいていないと言うところに村上のメディア芸術祭の鼎談(司会楠見)での怒りになっている。村上は前回の鼎談ではおたくの感性には鋭いものがあると評価していたが、最近ではおたくにはネガティブになっているようだ。(比較文化論的アートが美術を音楽と比較する楠見氏を批判しているように読める箇所もある6月30日追加)

村上のツィッターの4日後に、黒瀬陽平が今井俊介の『shiseido art egg』展に噛み付いた。

黒瀬陽平 @kaichoo
webでも見れるように今井氏の絵画は、60年代のアメリカ抽象表現主義を直接想起させるようなものだ。「旗」のモチーフ、平坦な色面による構成、平面性と空間(イリュージョン)についてのステイトメントなどからして、抽象表現主義との明確な違いがどこにあるのか、ぼくにはわからなかった。 via web 2014.02.23 12:08

黒瀬陽平 @kaichoo
これはつまり、可能性があるかもしれない若手アーティストが、審査員ふたりのノスタルジックな趣味(「我々の知ってる抽象表現っぽいものが出てきてうれしい」)の巻き添えをくらっているということなので、大変グロテスクな光景である。そして、それに対して何もツッコミがないというのも最悪。 via web 2014.02.23 12:33

村上隆も黒瀬陽平もアメリカ抽象表現主義が何か正確に述べているわけではないが、黒瀬陽平の方が具体的に今井俊介を批判しているので分かりやすいと言えば分かりやすい。今井俊介の作品は「アメリカ抽象表現主義を直接想起させる」と言っているけれど、私はむしろオプ・アートを思い出した。そもそも抽象表現主義はペインタリーな絵画ではなかったろうか。「旗のモチーフ」がもしジャスパー・ジョーンズことを意味するなら、ジョーンズの旗はキャンバス表面に塗られた蜜蝋入りの絵具が見えるように描かれているのだが、今井俊介の旗はアクリルで丁寧に塗られてキャンバスの物理的表面の絵具は見えない。変な言い方が、古典大家のように絵具で絵具を隠しているのだ。

黒瀬氏は抽象表現主義にノスタルジーを感じる審査員が若手アーティストを巻き添えにしているのは「大変グロテスクな光景である」とまでいうのだが、そういう黒瀬さんの作品の方がグロテスクではないのか。他でもない、黒瀬陽平の《ミステリー・ツアー》のシリーズのことだが、これはどう見てもデ・クーニングの《女》シリーズのパクリではないか。ところが《女》はまさにグリーンバーグの言う抽象表現主義の「ホームレス・リプレゼンテーション」の代表的作品だ。キャンバスに油絵具の荒々しいタッチの代わりに、紙にクレヨン、オイルパステル、アクリル、インク、色鉛筆を使い、直線の代わりに曲線を使って描いているけれど、これは偽装工作ではないか。もちろん偶然似てしまうということはあるだろう。しかし、致命的なのはその手法がただの手法であり、なんら絵画的表現の効果に寄与していないことだ。ただパクったのがばれないように画材を変えているとしか思えない。いや、そう思われても仕方ない。それなりに面白い作品になっていれば引用盗用流用影響オマージュ、なんとでも理屈はつくが、これだけ魅力のない線しか描けなくてはどうにもならない。

黒瀬陽平はツィッター等で《カオス・ラウンジ》のことで何かもめているようだが、仔細はしらない。ただ、村上隆のアメリカ抽象表現主義に関するツィッターと黒瀬陽平のアメリカ抽象表現主義に絡んだ今井俊介批判のツィッター、それと黒瀬の《ミステリー・ツアー》を見ての感想を書いただけなので悪意はない。「抽象表現主義」に関する問題はモダニズム、フォーマリズム、アヴァンギャルド、ポップ、ポストモダンナドなど、すべてがごちゃごちゃになって、一言で言えば「絵画忘却」の問題なのだが、忘れている者は忘れていることも忘れているのでなんとも仕方のないことだ。

pop/neo-popは絵の分からない絵描きたちの難民収容所化している。今、彼らはウォーホルがスゴイスゴイとうわ言のように繰り返している。作家も評論家も好事家も。彼らはサブカルとハイアートに差はないという。差はあるのだ。ただ、彼らには区別が出来ないだけだ。今、必要なのは絵画の再生だ。そのためには「絵画とはなにか?」を問わねばならない。幸いというか、絵画の復活の予感がある。何よりも小林史子の壁のインスタレーション、小林正人の絵画の脱構築、原田郁の絵画のシミレーションなど絵画は着実に復活している。

それでは平面と立体を同時に示したという今井俊介はどうだろうか。次回につづく。

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2014.03.07[Fri] Post 17:53  CO:0  TB:0  黒瀬陽平  Top▲

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