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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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野田裕示の工芸性、岡崎乾二郎のグリッド、小林史子の壁画

絵画論で重要なことは「知覚」と「錯視」と「知覚に基づいた想像」の三つを区別することだ。最後の「知覚に基づいた想像」が本来の「図像意識」だ。

【野田裕示の工芸性】
「野田裕示と小林正人 : 〈オブジェと絵画〉」 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-906.html 
野田裕示の平面性を保っている抽象画も、表面を磨いたり削ったりしてあるので、まるで工芸品の表面のようにみえる。当然、表面は事物のように知覚され、ロスコのようなピクトリアル・イリュージョンは生じない。グリーンバーグのコレクションも大半が工芸的な表面なのは大きななぞである。

【岡崎乾二郎のグリッド】
「岡崎乾二郎の《ポンチ絵》はウンコですな」(山形浩生の訳本『ウンコな議論』に拠る) http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-910.html
立体のイリュージョンは錯視によることが多い。岡崎氏のこの作品は複雑に組み立てられているので、単純にオプティカル・イリュージョンとはいえない。

【小林史子の壁画】
「小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は紛れもなく一枚のタブローである。」 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-872.html
小林史子は芸大修士課程の壁画科修了である。彼女は椅子と古着で壁を作った。それはデコボコで何よりも壁の知覚だ。それが平面のイリュージョンになり、さらに椅子の直線と古着の絵具で一枚のタブローになる。観者の距離によって現われ方がことなる。少し離れて立てば「知覚に基づいた想像」が働く。

以上の三つは知覚と錯視と知覚に基づいた想像が組み合わさっている。要は知覚錯視想像のどれが優勢な作用かということだ。

イリュージョニズムというとき、我々はピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョンの違いに注意することが肝要である。この二つはまったく違うものなので、混同することはない。錯視は知覚の変異なので、どちらか択一的にしかあらわれない。しかし、絵画意識は知覚に基づいた想像なので、例えば、モノクロ写真の灰色の人物を知覚しているのだが、それに基づいた人物は桃色の肌をしている。我々は灰色の肌の知覚に注意を向けることも、肌色の肌の想像に注意を向ける事もできる。しかし、PHOTOSHOPで衣服をカラーにしてやると、灰色の肌は灰色の肌に見えるので違和感が生じる。これで少しは「知覚」と知覚に基づいた「想像」の違いが理解できただろう。



スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2014.07.02[Wed] Post 14:28  CO:0  TB:0  小林史子  Top▲

小林史子と小林正人:《平面と矩形と絵具》

小林史子はインスタレーションのアーティストである。 確かに、これまではそうだった。しかし、今回の《1000の足とはじまりの果実》はインスタレーションを超えている。

裏側から見ると、ディズニーのアニメのように椅子が次から次へと這い上がって壁になっていったように見える。椅子は裏から登って、表側に矩形の平面を作る。隙間には青黒赤黄の古着が詰められ椅子は壁の平面に矩形の模様を描く。古着はレンガであり絵具である。そして壁は一枚のタブローになる。タブローの平面から空間のイリュージョンが現れる。

優れた作品というのは、その時代の美術のいろいろな課題や傾向を一つにまとめてくれるような作品だ。小林史子は芸大の油絵専攻を卒業し、壁画専攻で修士をでている。在学中から幾つかの賞をもらっているのだが、検索しても絵画作品は出てこない。 小林はもっぱら「オブジェ」の周辺を巡って来たかのように見える。 「コンセプチャル」らしきものもあるけれど、小林はあまり喋らない作家だ。ジャンク・アートがあって、レディメイドがあり、プロセス・アートがあって、そして何よりインスタレーションがある。すべて事物(オブジェ)を使った作品だ。

小林史子は絵画から壁画を経て、オブジェと戯れて、再び壁画から絵画に戻ってきた。絵画を忘却した現代美術の記憶を取り戻そうとしているかのようだ。《1000の足》はオブジェから絵画への回帰ともいえる。もちろん、再度オブジェに帰ってしまうかもしれない。

同じように絵画とオブジェの問題を探究している画家に小林正人がいる。しかし小林正人は小林史子とは反対に絵画を解体してオブジェを作ろうとしている。彼は自作の《Unnamed #7》(注1)を「素っ裸だ」と言う。「この絵具とこのキャンバス、この木材。その間に中間物はいっさい存在しません。」と。どこかで聞いたことがあるような言葉だ。そう、グリンバーグが「モダニズムの絵画」について述べた言葉だ。

リアリズム的でイリュージョニズム的な芸術は、技巧を隠ぺいするために技巧を用いてミディアムを隠してきた。モダニズムは、技巧を用いて芸術(アート)に注意を向けさせたのである。絵画のミディアムを構成している所々の制限----平面的な表面、支持体の形体、顔料の特性----は、古大家たちによっては潜在的もしくは間接的にしか認識され得ない消極的な要因として取り扱われていた。モダニズムの絵画は、これら同じ制限を隠さずに認識されるべき積極的な要因だとみなすようになってきた。(太字安積/『モダニズムの絵画』グリーンバーグ)


この三つの条件を小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は満たしている。だから、これは「壁」ではなく「絵画」なのだ。それに対して、小林正人の《Unnamed #7》はどの条件も満たしていない。いや、そうではない。小林はモダニズムを極限まで進めたのだ。絵画を脱構築しているのだ。絵具は色彩ではなく汚れであり、キャンバスは捩れた布であり、木枠は矩形ではなく台形であり、平面を作るためではなく、ただの木材である。言わばこれは絵画の解剖標本なのだ。彼は魂を見つけようと人体を解剖したけれど何も見つけられなかった解剖学者に似ている。

彼は小林史子と違って話す作家である。絵画の秘密を知ろうとタブローを解体して見たけれど、そこには木材とキャンバス地と絵具のほか何もなかった。だから小林正人はしゃべり続けなければならない。解体するのではない、絵画を作っていくのだと言い訳をする。絵具が塗られ、キャンバス地は枠に張られ、矩形のタブローが完成するはずだった。ところが小林正人は「完成とはなにか」と、勿体ぶって問う。そして、「この作品、完成を目指して途中で止めたのではない。この作品は完結しない世界でのあるひとつの完成の仕方なのだ」と答える。

たとえば小林は「光」について語る。評論家も同じように小林の「光」について語る。評論家が先なのか作家が先なのか知らない。古谷利裕は「光を捕獲する」と言い、保坂健二朗は「反重力の光」と言う。そして小林正人は「生きている光」について語る。フェルメールやレンブラントなど古大家の光は、暗い所を背景に明るい所の表面色として現れる。ところが小林正人の光は図像主題の明暗ではなく、キャンバス表面の反射光として現れる。他にも面色の《青い空》や光の点である《星》など表面色ではなく面色や空間色を好んで使う。三次元のイリュージョンを抑圧している。

ここで「語る作家」と「語らない作家」の間に捩れが生じる(注2)。語る作家は語るものがないから語るのだ。絵画の面白さは「自由な想像」ではなく、「知覚に基づいた想像」にある。想像は絵画平面の知覚から生じる。立体は知覚されるだけで想像は生じにくい。三次元の事物は眼球の運動や視点の移動で様々なパースペクティブで現れる。オブジェと観者の身体は連続した同一の空間に共存している。それが三次元事物の知覚だ。マイケル・フリードがいうリテラルなものである。リテラルなオブジェは退屈である。だからこそ、オブジェ作家の小林正人は知覚できる微妙な差異を執拗に語り続ける。

それなら美術評論家や語る作家に騙されないようにするにはどうすれば良いか。それは言葉を聞くのではなく、作品を見ることだ。作品を見るというのは、「知覚にもとづいて想像」することだが、まずは 《Unnamed #7》を見てみよう。素直に見れば画家が捨てた粗大ごみに見えだろう。美術館に展示していなければ、誰も芸術作品とは思わない。もちろん、モダニズムの理論を知っていれば、木枠が台形なこと、キャンバス地が弛んで平面ではないこと、絵具が擦り付けられたようで汚れに見えることなどの意味を理解して、そのラジカリズムに感動するディレッタントもいるだろう。しかし、そうであっても三次元の事物は絶えず異なる側面を見せるので、知覚が支配的であり、平面のように想像が作動することはなかなか起きない。少し複雑な形をしているけれど、これはマイケル・フリードがいうリテラルな客体であり、ジャッドのキューブと同じ知覚の対象なのだ。

《1000の足とはじまりの果実》はどうだろう。インスタレーションは複数のオブジェが組み合わされ配置されている。そのリアルな空間の中を観者は現実に歩いて入れる。もちろん想像ではなく、知覚しながらである。壁の裏から表からそして横から近づいたり離れたり、あるいは見上げたりたりする。もちろん視知覚が作動している。壁に少し離れて正面から対峙する。つめ込まれた古着や椅子の脚や背凭れが見える。隙間や凸凹がある。もちろん三次元の事物を見ている。ところが壁の表面が突然平面になる。イリュージョンである。壁は矩形のキャンバスになり、古着は色彩になり、椅子の足は線になる。そして壁は抽象表現主義のタブローになる。知覚に基づいた想像が作動したのだ。

絵を見るということは、繰り返し言うけれど「知覚に基づいた想像」である。これは「自由な想像」とはまったく別物である。例えば会田誠の《犬》シリーズの美少女と文字の《美少女》を比べてみれば理解できるだろう。《犬》の美少女は絵に描かれた通りの美少女を想像しなければならない。紙の上に書かれた平面的な図像の知覚に基づいた、三次元でぬくもりのある乳房の少女を想像する。文字の《美少女》は概念を意味しており、美少女を思い浮かべるとしたら、それは自由な想像なのである。そういう意味では絵の知覚に基づいた美少女の想像というのはある意味で「不自由な想像」と言える。もちろん絵の美少女から注意を逸らして、自分の好みの美少女を自由に想像することも出来る。

絵を見ることは「知覚に基づいた不自由な想像」だということを忘れないようにすれば、作家や評論家の怪しげな理論に騙されることはないだろう。この不自由さこそが「絵描きの自由」の根拠なのだ。 



注1:『プレイバック・アーティスト・トーク』展(国立近代美術館2013年6月~8月)のパンフレット
注2:藤枝晃雄による。ちなみにマチスは画家になるならまず舌を切れと言ったけれど、マチス自身は語る作家であった。もちろん画家が語っていけないことはない。何を語るかが問題だ。










2014.01.07[Tue] Post 01:18  CO:0  TB:0  小林史子  Top▲

小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は紛れもなく一枚のタブローである。

小林史子のこの作品は産経新聞の『六本木クロッシング2013展 アウト・オブ・ダウト』の美術展評で見た。解像度の悪い印刷の写真だけれど胸がジーンと来た。解説にはインスタレーションとあるが、これは紛れもなく一枚の「タブロー」だ。

表面に凸凹があるので絵画のようにイリュージョンが現れることはない。事物の知覚が優勢だ。古着が隙間を埋めている。様々な色の古着がある。様々な形の布がある。椅子の直線があって、丸められた布の曲線がある。まるで抽象表現主義の絵画のようだ。

そこで逆転が起こる。知覚された絵画平面の向こうに空間が生まれるのではなく、椅子や古着の凸凹や隙間から平面のイリュージョンが生まれる。写真だけれど、少し平面が見える。「首振り立体視」()をすれば奥行きの錯視が現れる。

写真のほうが実物よりも分かりやすいかもしれない。実は我々はこういう平面を知っている。おみやげでいっぱいになったスーツケースを帰国して開けたとき、リサイクルのゴミを固めて運ぶとき、大型プレス機で潰した廃車などの面が、この作品とそっくりな抽象画のような面を作っている。もちろん小林史子の作品のように凸凹や色彩が豊かではないのだから面白さには欠けるけれど。

シュヴィッタースのメルツ絵画や大竹伸朗のジャンクアートにも凸凹の立体的なコラージュによって絵画的なイリュージョンを生み出そうとした作品があるがとても成功しているとは思えない。お皿をキャンヴァスに貼り付けたジュリアン・シュナーベルも、プロセスアートの手法で絵画を解体した小林正人もただ物質の知覚が強化されるばかりで、「知覚に基づいた想像」という絵画の神秘が出現するわけではない。

想像が働かなければ、どんなに絵画に擬態しても、知覚が優位なオブジェになる。シュヴィッタースや大竹伸朗や小林正人と比べるのも大きなお世話だが、小林史子には立体と平面に対する鋭敏な感覚がある。椅子二つ使ったオブジェも自転車を使ったインスタレーションも立体ではあるけれど、写真に撮れば絵画的な平面性に対する感性がすぐれて繊細であることが分かる。

ニョウボは《1000の足とはじまりの果実》の写真を見てポロックみたいだと言った。たしかにエナメルの絵具が盛り上がっているところが知覚を刺激し、線と線に挟まれた空間のイリュージョンが脈動しているところは似ていなくもない。いずれにしろ私はデ・クーニイングの抽象表現主義を思い出したのだから、ニョウボと私には《ファーマリズム》理解にそれ程の差はない。

なぜ、デ・クーニングか。すでにお分かりだと思うが、念のため説明しておく。デ・クーイングの《おんな》についてグリーンバーグが言った「帰する場所なき再現性」の問題である。

私がこの語で意味しているのは、抽象的な目的のために適用されはするが、再現的な目的をも示唆し続けるような、彫塑的かつ描写的な絵画的なるもののことである。(グリーンバーグ『抽象表現主義以降』)

《1000の足とはじまりの果実》の古着や椅子は抽象的な線や色や形の面白さのために使われているが、再現的な役割も担っている。デ・クーニングの《女》は三次元のイリュージョンが再現(represent)を担ったが、小林の《1000の足とはじまりの果実》では三次元の事物がリテラル(直接)に現在(present)しているのである。

小林史子の図像検索をしていたら、驚いたことに下の作品《The Island Over There-Hiroshima》(2009)を見つけた。何故驚いたかというと、もちろん上で述べたシュヴィッタースや大竹伸朗と同じ仲間の立体コラージュだけれど、タブローではなくインスタレーションの作品だからだ。外見は幾何学的抽象もどきの絵画の擬態をしているが、「知覚に基づいた想像」が発動することはない。インスタレーションとは作品の中に知覚する観者が歩いて入れる実在の場所なのだ。《The Island Over There-Hiroshima》はインスタレーションではあるが、壁のような実在の平面に遮られて中に入ることは出来ない。ただ、目で知覚できる隙間や穴が空いているだけだ。

グリーンバーグは「観者が歩いて入っていける自分を想像できる古大家の空間のイリュージョン」と「観者が覗き見ることしか出来ないモダニストの空間のイリュージョン」と区別したが、小林史子は文字通り「観者が歩いて入れるリアルなインスタレーションの空間」と「手で触れることのできるリアルな隙間や凹みや穴ぼこの立体コラージュの空間」を区別する。インスタレーションと立体コラージュの空間は観者の身体的空間と連続した同一の空間である。小林史子は立体コラージュの隙間や穴ぼこを古着で充填して、椅子の硬い表面を柔らかいいろいろな色彩の布で和らげ絵画的(ペインタリー)な表面を生み出している。

《The Island Over There-Hiroshima》と《1000の足とはじまりの果実》の間には無限の距離がある。前者は知覚の支配するオブジェであり、後者は「知覚に基づいた想像」が支配する一枚のタブローなのだ。

小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は今年一番の収穫である。何よりも自分の絵画理論を実現してくれたような作家を発見したのだから。







                                     The Island Over There-Hiroshima /2009



       《1000の足とはじまりの果実》(2013年)




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2013.12.23[Mon] Post 00:20  CO:0  TB:0  小林史子  Top▲

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