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バルチュスのポラロイド写真 :《芸術か猥褻か》

以下の文は 『ZEIT ONLINE』の記事《Die Bilder des Begehrens》(「猥褻写真」15.12.2013)の要約です。



バルチュスの少女のポラロイド写真をめぐって芸術か猥褻かの論争が起きている。

バルチュスの死後未成年のAnnaの2400枚のポラロイド写真が発見された。それが現在NYのメトロポリタン美術館で展示されている。それだけではない。ガゴシアン・ギャラリーで一枚最低2万ドルで販売され、さらに豪華版写真集が発売される。

絵は芸術的に昇華されているかもしれないが、ポラロイド写真は淫らで、小児性愛者の欲望の記録だ。児童擁護団体はそういうものは犯罪を誘発するから、蔵に仕舞うか、ただちに破棄すべきだと主張する。

イギリスでは最近Graham Ovendenがリアルの少女虐待で有罪になった。オヴェンデンはホックニーなど他の美術家に高く評価されている。ヴィクトリア&アルバート美術館にも所蔵されている。テート・ギャラリーは34枚のオヴェンデンの写真を所蔵しているが、その大方は猥褻なポーズをしている。テートは有罪判決を受けてオヴェンデンの展示をヤメて、インターネットのサイトはタイトルだけ残して写真は削除されている。

長い間誰も気にしなかったことが突然タブーになった。航空会社は一人旅の子供を男性客の隣に座らせることを禁止した。スイスではサンタクロースが疑惑を招かないように子供を膝にだっこしないことにした。それ以来、児童虐待はどこにでも潜んでいると思われた。美術館は細かくチェックされた。実直に調査する者には、美術史は容易に小児性愛の歴史のように見えて来る。

ゴーギャンは13歳の少女を誘惑したし、キャロルがアリスの写真を撮ったのは11歳のときだった。

これまで多くの美術館は寛大だった。芸術家は貪欲な者であり、市民的な道徳は尊重しないと思われてきた。ブリュッケ・グループの画家たちもそう思われて来た。彼らは少女たちを湖に連れて行きそこで裸の絵を描いた。しばしば脚を広げたポーズを描いた。キルヒナー達のお気に入りのモデルを最初に湖に連れて行ったのは八歳の時だった。かれらによれば芸術は自由で、他のものは自由に狩猟してもよい獲物なのだ。

今日の基準から見れば明らかに虐待と思われるとキュレーターのフェリックス・クレーマーは言う。彼は数年前キルヒナーの大展覧会を開催した。しかし、過激なモチーフの作品の展示は諦めた。子供の性がいやらしい視線にさらされるのは望まなかったという。これは検閲だろうか、それとも正しい差し止め措置だったのだろうか。

これまで繰り返し裸の少年少女が展示されて来た。もし良いものと悪いものを一旦分けようとすれば、境界線を引くこがいかに難しいかすぐに分かるだろう。どこから露骨が始まり、どこから猥褻が始まるのか。カラバッジョやドナテッロのいろいろと噂のある少年愛の像を展示してもよいのだろうか。もし今日思春期の裸体像を制作しようと思ったら嵐のような抗議に見舞われるだろう。

さて、そうだからと言って、芸術家の自由が危険にさらされるなんて誰も言わないだろう。これからも、人は好きなモノを描き、好きなモノを書いてもかまわない。ところが、もし、グラハム・オヴェンデンの場合のように、芸術家の実生活の品行が彼の写真を陳列しても良いかどうかを決めることになると、芸術の自由に奇妙な影がさす。不当なことが起きていないか写真の領域をあたかも道徳警察がパトロールしているかのような事態が起こる。ただ自分だけに従い、いかなる他の目的にも従わない芸術の自立性という、決して犯罪になりえないことが犯罪にされてしまうのだ。

これまでの画家と児童虐待を巡る議論には強引に整理しなければならない多くの混乱がある。整理してみよう。

第一の問:芸術家には何が許されているのか。《答》想像であるかぎり何を考えても、何を展示しても許される。

第二の問:犯罪を犯した場合はどうなるか。芸術の領域を逸脱して法律や規則を破った場合はどうなるか。《答》その場合は法の裁きを受けなければならない。

第三の問:彼の芸術はどうなるか。《答》さしあたって何も起きません。というのは作品は相変わらず同じものだからだ。作品は引き続き芸術の自由の権利を要求できる。

第四の問:そうなったら、作品はどう評価されるのか。《答》もし、芸術家が自分の芸術のモチーフと現実の行為と明確に区別しなければ、観客たちに彼の芸術のモチーフと実生活の行為を区別して貰うことは期待できない。ブリュッケの画家たちは実生活と絵を描くことの境界を意識的に無くしたいと思っていたので、観客はブリュッケの児童モデルの虐待を知らぬふりをして、かれらの美学の大胆さばかりに感嘆することは出来ない。

第五の問:美術館やギャラリーや出版社が写真を展示したり、出版したりするのは写真を認めたことにならないか。バルチュスのポラロイド写真の場合のように高価に販売することは写真をフェティシュ(呪物)にすることだ。《答》だからといって、それらの写真が危険になり、さらに虐待を誘発するというのは的外れだ。インターネットの時代、児童虐待者は刺激を得るために芸術作品を必要としない。

芸術が犯罪を誘発するなんてことは断じてない。パルチュスの写真を展示するのはかまわない。しかし、そうではあるが、無条件に見せなければならないかどうかはやはり疑問が残る。というのは、このバルチュスのポラロイドは本当に芸術的価値があるのかどうか問題だからだ。今、ポラロイド写真はそれ自身独自の芸術作品だとしてプレゼンテーションされているけれど、作品には署名がない。だからといって、すべて習作(Vorstudien)だというのも疑わしい。というのはそんな大量の写真があることが説明できないからだ。「そこで、これは老人がたんに刺激が欲しかったからではないかという疑いが生じる」とカタログを出版したGerhard Steildが言う。それにもかかわらず、彼は写真を出版するのを躊躇しなかった。写真の色が素晴らしかったからだ。あとで油絵にする時の色調の雰囲気を伝える写真だと思った。それが芸術かどうかはそうしたい人が判断すべきだと彼は言った。

誰が芸術にしたいと思っているのか、そこがまさに問題なのだ。バルチュスはこれらの写真を単純に思いついたのではない。彼は現実の少女Annaをソファベッドに長い間ポーズを取らせ、最後にはゴヤのマヤのように(たぶん裸になって)寝そべらせるに至る。彼は写真を発表するつもりもなく、ただ少女を性の対象にしていただけだ。バルチュスは芸術だとは思っていなかった。ところが今芸術として公表され、税金で運営されているフォルクヴァング美術館がそれに加担している。おそらくスキャンダルを嗅ぎつけて、一儲けしようとしているのだろう。より一般的な多くの人の覗き見趣味を利用して儲けようとしているのだ。色が素晴らしいというだけではそんなに関心を集めることはできない。美術館の覗き見趣味による少女アンナの搾取は正当化出来ない。

以上



これが欧米の標準的な考えなのだろう。特筆すべきことはバルチュスのポラロイドをエロ老人の楽しみで芸術ではないと断言していることだ。そして、アンナが公開に同意しているに拘わらずこれは児童虐待だとしていることと、著作権者の夫人を暗に批判していることも重要だ。

他方でイギリスで児童虐待で有罪になったグラハム・オヴェンデンの作品は児童性愛的な描写にも拘わらず芸術的に優れていると言う理由で展示の自粛には反対している。あくまでも芸術の自由を守る立場だ。
 
もう一つ付け加えておきたいのは、欧米と日本では、根本的に性文化が異なるということだ。欧米では児童虐待も日常的に起きているようだが、日本のロリコンいうのは一種のコスプレであり、あくまでも想像の世界を楽しむことなのだ。たとえば会田の《犬》シリーズもSMの異常性愛ではなく、可愛い犬のコスチューム・プレイをしているのだ。
 
椹木野衣の森美術館の『会田誠 天才でごめんなさい』展批判の文章を再読してみたい。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2013.12.20[Fri] Post 21:14  CO:0  TB:0  バルチュス  Top▲

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