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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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 岡田さんへの手紙 ⑦

岡田さんの反論の中に図像主題に関する誤解があるようなので、HPの『写真はインデックス記号か?』を転載しておきます。図像の三層構造が必ずしも明確に分けられるわけではない。図像主題は実在するとは限りません。ケンタウロスの絵はケンタウロスを示しています。まあ、そんなことより、写真について語るなら写真をよく見なければなりません。肖像画と肖像写真の比較、知っている人と知らない人、ゲルハルト・リヒターのピンぼけやブレたフォトリアリズム、一度もあったことない有名人の写真。モノクロとカラー写真のリアリティーの違い。「写真と模写とコンピュータ加工」を繰り替えした作品。森村泰昌の仮装のセルフポートレイト、写真を撮った写真、まだいくらでもある。
 
岡田さんは「あるいは、マンガの図像であるサザエさんは江利チエミや 星野知子、 浅野温子 、観月ありさを模造再現しているとでも言うのでしょうか。」と言っていますが、たしかに「摸造再現」というのは誤解を招くことばです。これはフッサールが考えていた図像が写真や写実主義の絵画だったからです。だから絵画を制作する立場から、「図像客体と図像主題の関係」と「絵画とモデルの関係」を混乱してしまったのだ。このことは、図像記号は類似によって自分以外のものを指示すると、何度か注意を促している。図像客体が図像主題に類似いるのと、図像主題がモデルと類似しているのとは、まったく別の「類似」だ。図像の類似は内在的関係すなわち志向的関係(笑い)で、モデルとの類似は外敵関係である。両者は独立に存在する(外的知覚の対象)もので、例えば、双子が類似しているようなものだ。後者の類似が本来の意味での類似である。サザエさんの例では、江利チエミがサザエさんを模倣している、演じているのだが、必ずしも外見が似ている必要はないし、少なくとも図像記号の関係ではない。これは、演劇のイリュージョンと役者に関する昔からある難問だ。たとえばハムレットとハムレット役者の関係だ。我々はハムレットを見ているのか、それともハムレット役者を見ているのか。それに、サザエさんをラジオドラマにしたらどうなるか、知覚することしかできない絵画の問題で行き詰まっている私には、とても手におえる問題ではない。目で見なければ、見えない絵画について、見ないで論じる人が多いのは、嘆かわしいことだ。

それから空間の問題になると岡田さんは逆上するようだけれど、わたしは、空間についてまとまった考えを述べたことはない。ポロックのときも、ただ首を振ると奥行きのイリュージョンが見えると言っただけなのだが、突然、叱られた。それに対して、わたしは『首振り立体視』というブログで答えた。
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2011.10.19[Wed] Post 15:24  CO:0  TB:0  岡田さんへの手紙  Top▲

岡田武さんへの返事(5)

『美術評論とは何か』の〔16〕で掲載した図をもう一度見て欲しい。


ミュラー錯視






左の窓を描いた直方体は、常に透視図法で描いた二階建てのビルに見えるけれど、右の窓を消した図形では、立体的な直方体と平面的な六角形とが交替に現れる。両方とも平面に描かれた線分を「知覚」している。そこに図形あるいは図像が現れる。図像が安定的に現れるのは、それが具象的な対象だからだ。輪郭線だけの直方体の図形は、平面的な六角形にも見えるけれど、具体的な二階建ての建物の図像のほうは、日常的な風景の経験があるので、常に立体的な二階建ての建造物に見える。色や陰影がついていれば、いっそうピクトリアル・イリュージョンは安定的具象的に見えるだろう。

(この六角形と直方体の交替現象はオプティカル・イリュージョンというよりも、ゲシュタルトの問題のような気がする。陰影をつけても下図の円の場合ほどイリュージョンの感覚が強くなるわけではない。直方体は具象的な箱ではなく、抽象的な形体であり、建物のように具体的な大きさはない。この辺の問題は、抽象画と密接な関係があると思われる。)

下の図は『陰影による奥行き知覚』であり、通常は上から照明が当たっているように見える。上部が明るい円は凸に、下部が明るい円は凹にみえる。


ところが、下図の「hollow face 錯視」では、マスクを表(凸上)と裏(凹下)から写真にとって平面にすると、どちらも凸の顔に見える。平面ではなく、実物のマスクを裏側から見れば、両眼視差などのために凹に見える。単眼視などすれば、凸のオプティカル・イリュージョンがみえることもある。もちろん誰でもやることだが、「首振り立体視」(①~③)(運動視差のこと)をすれば、イリュージョンは消えて、凹面に見える。





ここで重要なことは、「陰影による円の凹凸」が不安定なことである。とくに凹の円は凸に見えることがある。また、凸の円が浮き上がって見えることなどから、「陰影による円の凹凸」がオプティカル・イリュージョンだということが判る。さらに、写真ではなく実物のマスクの凹面はもちろん凹面に見えるのだが、ときには凸面に見えたり、浮き上がって見える。これは、もちろんオプティカル・イリュージョンが見えているのだ。それに対して、写真に撮った凹面のマスク(図像ということ)は、凸面のマスクの写真と同じように安定して凸顔に見えるし、錯視のように浮き上がって見えない。(注1)

オプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンは異なる現象だ。オプティカル・イリュージョンは錯視的知覚であり、あくまでも知覚の仲間である。それに対してピクトリアル・イリュージョンは図像意識であり、想像の仲間だ。(注2) 図像意識とは「知覚に基づく想像」であり、自由な想像とは異なる。何度も繰り返しているが、モノクロ写真の「図像客観」は、灰色の肌をした5cmの少年だが、われわれが見ている「図像主題」は、ピンクの肌をした身長120cmの少年だ。

ピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョンの違いを「色」で考えてみよう。緑の円をしばらく見たあとに、白い壁を見るとピンクの円が見える。これは網膜の生理的現象であって、モヤッとした錯視的知覚である。知覚であるから確かにピンク色の円が見えている。それに対してモノクロ写真では、知覚をしているのはあくまで灰色だけれど、それをピンクの肌として見ている。それは知覚した客観的図像の存在定立を中和化して、線や色や形ではなく、図像主題(意味)の少年を見ている。知覚している図像客観を超越して、図像主題を想像志向する。

絵画は言語と似ている。言葉も絵も、自分自身ではない他のものの代わりを(stand for)する記号だ。我々は文字を知覚している。しかし、文字を見ているのではなく、意味を見ている(記号意識)。文字は弁別差異のシステムだから、差異が弁別できれば、如何様に書いても意味が分かる。音声でもジェスチャーでも構わない。絵画も知覚している。しかし、文字と同じように絵具や線を見ているのではなく、林檎だとか人物だとか具体的な対象を見ている(図像意識)。絵画は弁別的差異の記号ではなく、類似によるアナログ記号だから、線や色や形の微妙な違いで、ピクトリアル・イリュージョンは様々に変化する。絵画の秘密は、この知覚に基づく想像ということにある。自由な想像のように観者の勝手にならない所が、むしろ、絵画の豊かなイリュージョンを生み出す。

イリュージョンが、そうでないのにそう見えるということ、あるいは、あたかも知覚しているように見えるということなら、ピクトリアル・イリュージョンはイリュージョン(錯視)ではない。絵画は平面上の線や色や形の「知覚に基づいた想像」であり、図像主題というのは「意味」でもあるのだ。

さて、図像客観と図像主題の違いをもう一度確認しておきたい。実際の絵画を見るときは二つが截然と分かれているわけではないし、オプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンも同様である。知覚と想像が混じっているのだ。しかし、現象学的還元をして、ということは、意識の志向的対象に注視するのではなく、対象を志向している意識の方に注意をむけながら、対象がどんなふうに現れるかを見れば、知覚と想像とイリュージョンの違いが見えてくる。モノクロの写真の少年の図像客観は肌は灰色で身長は10cmだが、図像主題の少年は肌がピンクで身長が120cmぐらいに見える。灰色ではないことは、たとえば、白黒の広告写真で、モデルが身につけている商品(装飾品など)だけがカラーでプリントされていると、モデルの肌はピンクではなく、灰色に見えるので、不気味な感じがする。一部がカラーなので、モノクロ写真ではなく、カラー写真として見られるのだ。それで肌の灰色が灰色に見える。

前々回の「線路」の絵を見て欲しい。「一番手前の枕木と五番目の枕木はどちらが長いですか」と問われたら、たぶん同じ長さだと答えるだろう。しかし、「一番目の黒い線と五番目の黒い線はどちらが長く描かれていますか」と問われたら一番目の線が長いと答えるだろう。前者は図像客観、後者は図像主題である。図像客観は知覚している線分で、図像主題は同じ長さの枕木だ。遠くにあるので、短く描かれている。この場合、われわれは図像客観と図像主題を比較的自由に切り替えることができる。

それに対して、正常な知覚と錯視的知覚は自由に切り替えられない。ポンゾ錯視の例(Wikipedia)を見てみよう。



下の黄色の線は線路の内側にあり、上の黄色の線は線路の上に橋渡しされているので、遠近法的空間としてみれば、明らかに上の黄線のほうが長い。しかし、図像主題の遠近法的空間ではなく、図像客観の平面的図形として眺めた場合はどうだろう。上の黄線のほうが長く見えるような気がするけれど、確かではない。目を細めて日本の線を比較すれば、同じ長さに見えなくはない。黄線は目立つので、線路の遠近法的空間から図像表面に浮き上がって見えるような気もする。そうなると同じ長さに見えてくる。赤い平行線は、二本の黄線が同じ長さであることを示す補助線のつもりなのかもしれない。しかし、生憎、赤い補助線は平行に見えることもあるし、下のほうが狭くなっているように見えることもある。その場合は、下の黄線が短く見えているということだ。これも、ポンゾ錯視の一種なのかもしれない。しかし、二本の黄線は「本当は」同じ長さなのか、それとも下の黄線が短いのか我々には判らない。

二本の線が同じ長さだということは、物差しで測るか、重ねて見るしかない。二本の線が離れていたり、角度がことなると、長短は余計に曖昧になる。

ポンゾ錯視がオプアートのように、ハッキリと錯視的知覚(オプティカル・イリュージョン)と判るなら都合が良いのだが、残念ながらポンゾ錯視もミュラー錯視もチラチラしたり、浮き上がったりするようなものではない。上の黄線のほうが色が濃く太く見えるけれど、それが知覚なのか錯視なのかは、やはり測定するなり、近づけて比較するなりしなければ判らない。

われわれはミュラー錯視やポンゾ錯視を否定しているのではもちろんない。様々な視覚実験から、客観的に同じ長さの線分が背景や周りの図形の影響を受けて、異なる長さに見える「錯視」があることは間違いない。しかし、われわれは通常の絵画の観賞では見えるとおりに見るのであって、客観的長さはどうなのかは関心がない。もし、その錯視現象がチラチラしたり、浮き上がって見えたりして、逸脱した知覚(オプティカル・イリュージョン)であると判ったとしても、それはただのオプ・アートということである。もちろん、ポンゾ錯視を認知できるよう工夫した実験装置をインスタレーション・アートだと主張して、美術館に展示することはできる。

以上は暫定的な分析である。現象学とは常に暫定的であることを覚悟する学なのだ。我々にとって重要なことは、知覚と錯視的知覚と「知覚に基づいた想像」である図像意識を区別することである。絵画を見るということには、この3つの意識作用に立ち会うことなのだ。

次回は「遠近法」について。

注1:『奥行き知覚と行動 : 陰影とハイライトが奥行き知覚に及ぼす効果』(井上浩義 熊本大学学術リポジトリ)が参考になる。
注2:ブログ記事『絵画の現象学』参照〔http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-707.html〕



2011.10.13[Thu] Post 22:05  CO:0  TB:0  岡田さんへの手紙  Top▲

ミュラー・リヤー錯視

以前コメントをしてくれた岡田武さんから質問があったのでお答えしておきます。

ミュラー・リヤー錯視や二つに交わる線分の間に平行線を入れると、上の線分が長く見える、ポンゾ錯視はご存知だと思いますが、この同じ長さの線分が違った長さに見えるのは知覚でしょうか、それとも知覚による想像でしょうか、あるいはイリュージョンでしょうか。


行き違いになったけれど、前回の『美術評論とはなにか〔7〕』にほぼ答えがあると思います。最後のところは分かりにくかったので、少し書き加えておきました。

まず、純粋な知覚はないということ。知覚というのは常に想像や記憶を含んでいるし、想像というのは記憶に基づいているし、記憶(想起)というのは知覚に基づいている。あるいは、また、絵画を見ると言うことから考えれば、平たい物理的立体の知覚があって、その平面に絵具で描かれた図像客体が見える。これは知覚とイリュージョンが同じ視野の中に共存している。

また、円が球に見えるのは知覚とイリュージョンが融合しているともいえる。さらにそのイリュージョンを内包した知覚を通して図像主題が現れてくる。これはイメージ(イリュージョン)と意味(概念)が合わさったものだ。

まとめると、絵を見ることは、知覚に基づいた想像だということだ。

岡田さんがあげた錯視の例はいわゆる幾何学的錯視と言われるもので、これは、錯覚ではなく知覚と考えてよい。もちろん、一本の線でも、すでに地と図の違いが現れ、ゲシュタルトとしてのまとまりがあらわれるので、その限りでは、イリュージョンではある。しかし、それは、見える通りに見えているのだから、知覚と考えてよい。

もう一つ、通常言われる錯視がある。オップ・アートのチラチラする錯視だ。このチラチラするのはあきらかに知覚ではなく、目の錯覚だ。それは大抵は、チラチラしない状態と交替にあらわれる。チラチラしないほうが知覚で、チラチラする方は錯視(オプティカル・イリュージョン)だ。

このあたりも、実はかなりあいまいで、チラチラするからと言って、単純に視覚的な(オプティカル・イリュージョン)とはいえない現象もある。たとえば、これまでも何度か取り上げた親指が二本ある手が、一本の親指が前後に動いて見えるのは、明らかに、親指は一本だという知識が、二本の親指の代わりに、前後に動く一本の親指のイリュージョンを生んだのだろう。ここには明らかに、モノクロ写真の灰色の肌を桃色の肌に見るのと似たような現象がある。

さて、われわれはここで、「知覚」と「錯覚」(オプティカル・イリュージョン)と「知覚に基づいた想像」(ピクトリアル・イリュージョン)の三つに大雑把にわけることができる。知覚と知覚に基づく想像(図像主題)の区別は私の『絵画の現象学』を読んだ人にはあらためて説明する必要はないだろう。錯覚というのは図像客体とは別のものです。錯覚は準知覚、知覚もどきで、一瞬知覚と間違うこともある。しかし、それはすぐに訂正されて、知覚もどきであることが判る。たとえば、踏切の点滅する赤いランプが移動しているように一瞬みえても、すぐにそれは錯覚だと訂正される例を想い出せばわかるだろう。

この区別は、これまでも述べてきたし、これからも必要に応じて触れていく。立体(彫塑彫刻)でもこの区別はある。たとえば、ジャコメッティの塑像ではハッキリと三つが区別できる。

さて、ミュラー錯視に話を戻すと、これは見える通りに見えているので、間違いなく知覚だ。実はそのことはあまり重要ではない。というのは、絵画は見える通りに見るのであって、二本の線が「本当は」同じ長さだとか、違う長さだとかはどうでもよいことなのだ。

そもそも「本当の」長さとはいったいなんだろう。

本当は同じ長さというのは、物差しではかったり、目を細めて指を立てたり、周りを囲んでいる三角形を隠したりしたときに現れる長さだ。それは絵を通常鑑賞しているときの長さではない。「本当は」同じ長さだということは少なくとも絵を見るときには何の関係もない。絵を見るときは「見かけの」長さをみるのだ。それとも、あなたは、絵の一部を隠して鑑賞するのだろうか。それとも、物差しで測りながら、鑑賞するのだろうか。

物差しで図りながら絵を見る人はいない。美術史家で物差しを使って美術批評を書く人がいる。遠近法とか黄金分割とかむかし流行った方法だ。美術評論は目で見て書くもので、物差しで書くものではない。

絵の中で長さを見るということは、どういう事か、簡単な例で考えてみよう。ここに幾何学的図形の台形がある。上辺が底辺より短い。ところが、この台形がテーブルだとする。脚を付けてもいいし、上にコーヒーカップを置いても良い。するとその台形は矩形に見える。上辺と底辺は「本当は」同じ長さだけれど、上辺は遠くにあるから短く見える。ということは奥行きのイリュージョンが現われたということであり、これが遠近法ということだ。


セザンヌ 赤いチョッキの少年

もう少し具体的な絵画で見てみよう。

セザンヌの《赤いチョッキの少年》は手前の腕が長く見える。しかし、左右の腕は同じ長さだのはずだ。この長さの違いは遠近法の長さの差に収まりきれない。だから、不自然にもみえる。しかし、よく見ると左の前腕はむしろ右の前腕よりも長く見えるような気もする。遠近法の縮小が十分に行われていないように感じるのだ。

それにしても、右の上腕が異様に長い気もする。また、左の上腕が胸飾りの膨らみに隠されて、肩が見えないので、上腕の長さが判らない。また、右手を載せている台と左の肘を突いている台の高さが異なるのも、両腕のバランスを崩しているなどなど、われわれは、セザンヌのデッサンの未熟さを超えた不思議な魅力を感じる、というわけだ。

ここまで述べてきたことで、わかることは、ミュラー錯視などの知覚心理学の知見は絵画鑑賞にも絵画制作にも役立たないということだ。「本当の」長さなど何処にもないのだ。あるとすれば、たとえば、それは左右の腕は同じ長さのはずだという万物の尺度としての人体の比例だ。だから、われわれはヌードデッサンをするのだ。

ところが、数学的関係や知覚心理学や大脳生理学などを持ち出して絵を分析する美術評論家があとを絶たない。社会現象で絵画を解釈するのと大同小異のばかげたことである。絵の外部で絵の内部を説明することは出来ない。もちろん、フォーマリズムに置いては、形式が内容であり、内容と言われる象徴的な意味などはむしろ絵画の外部なのだ。このことは別に論じる。

それよりも、絵画において重要なものは、ピクトリアル・イリュージョンだ。上の例で言えば、左右の腕は同じ長さだということだ。セザンヌのテーブルがせり上がって、林檎が転がり落ちそうなのは、それが水平であるはずの机が傾いているから違和感を生む。同じ青でも空の青と海の青では別の青だ。マチスの室内画は、床や机とは水平のはずで、壁は垂直のはずだ。壁に掛かった絵画の平面は壁に重なったおり、窓の外の風景はずーと向こうにあるはずだけど同じ平面にあるように見えもする。ピカソの女の尻や乳房は、曲線や直線は幾何学的図形で描かれて、それでも、やっぱり尻や乳房や脚なのだ。キュビスムは水平の机が垂直になり、円筒のワイン瓶が平面になる。

ここには、知覚と知覚に基づいた想像の間の弁証的緊張関係がある。具象画には抽象画にはない独自の豊かさがある。だから、ピカソとマチスは最後まで具象画に踏みとどまったのだ。それはピクトリアル・イリュージョンのためだったのだ。

そして、写真が退屈なのは、印画紙の表面をピクトリアル・イリュージョンが支配しているからだ。知覚と想像の緊張関係がないからだ。少年の灰色の肌は、桃色の肌に完全に抑圧されている。このことで、もし権威が好きならば、バルトの『明るい部屋』からの引用を読んでください。

 何を写して見せても、どのように写して見せても、写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは志向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである。
 要するに志向対象が密着しているのだ。そしてこの特異な密着のために、「写真」そのもに焦点を合わせることがきわめて困難になるのである。


バルトが志向的対象を被写体と同一視しているのは、必ずしも正確ではないけれど、志向的対象(図像主題)が写真そのものに密着しているというのは、上で述べたことを意味している。わたしはだから写真はつまらないといい、バルトは記号論風図像学に向かった。図像学もまた、美術史の方法であって、絵画の面白さを理解するのに役にはたたない。

ここで、ひとまず岡田さんの質問にたいする答えは終わる。

しかし、沢山の課題が残った。知覚とイリュージョン、立体と平面、知覚空間と想像空間、具象と抽象、文字と絵画などなど、次回は空間について少しだけ考えて見たい。
2011.05.21[Sat] Post 17:20  CO:1  TB:0  岡田さんへの手紙  Top▲

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