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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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⑯『ポロック展』:知覚と想像の分離 赤塚祐二の場合

絵を見ることは「知覚に基づいた想像」であることはこれまでも繰り返し述べた。古大家の作品では、知覚は中和変容されて、観者はもっぱら図像主題を見ている。マネなどのモダニズム絵画は物理的表面の知覚を顕在化した。図像主題のない抽象画であっても、ゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》のように、知覚に基づいた想像によって空間のイリュージョンが生まれる。

知覚されるのは物体である。想像されるのはイメージである。ただ、図像意識の想像は知覚に基づいたイメージであり、自由な想像のイメージではない。

これは知覚が優勢か、想像が優勢かの問題である。しかし、実際の作品鑑賞では、さらに錯視も加わって、三者を明確に区別することは難しい。斉藤規矩夫の作品では、この三つが微妙に戯れている繊細な作品だし、野田裕示の作品は、磨き上げた漆塗りの工芸品のような知覚優位の作品だ。

ところが、知覚と想像が分裂した絵画もある。曖昧な表現だけれど、絵画の現象学では重要なことなので、簡単にまとめておく。

1:【図像意識における知覚と想像】 知覚に基づいた想像であり、中和変容によって知覚が想像を基礎づけている。知覚された線や色や図形を知覚しながら、それに基づいて図像主題や、(抽象画の場合は)空間のイリュージョンを見ている(想像している)。

2:【知覚と自由な想像あるいは想起】 例えば、風景を眺めながら、別のことを想像していることがある。また、絵画の図像主題を見ながら、連想した別のイメージを想像する場合は「知覚に基づいた想像」と「自由な想像」が重なっていることになる。これは文学者の美術評論でよく見られる手法だ。

3:【知覚と図像意識の分離併存】 これが一番よく分かるのが、ゲルハルト・リヒターの《Overpainted Photographs》だ。写真図像の上に絵具をスクイーズすることで、絵具の物質の層と写真の遠近法的空間とが分離共存している。絵具の層に抽象画として空間のイリュージョンが現れることももちろんある。


ポロックの《ポーリングのある構成Ⅱ》は知覚と想像が分離している。ポーリングの技法を使い始めたころの作品で、出来上がった抽象画にポーリングしている。近からず遠からず、適当な位置から見ると、黒いエナメルの線が知覚され、その下の抽象画が後退して、ポーリングした線と抽象画の間に透明な空間が生まれている。もちろん頭を動かせば、運動視差が見え、透明な空間の奥行きは深くなる。他方、《インディアンレッドの地と壁画》では、さまざまな色や太さのポーリングの線が重ねられていて、知覚と想像は分離されていないように思える。

斉藤規矩夫の作品は絵画表面の物質性(知覚)とイリュージョン(想像)が絵画表面で渾然一体となって和音を響かせている。ただ繊細ではあるけれど、どこか物足りなさは残る。

ネット・サーフィンをしていたら赤塚祐二の作品を見つけた。知覚と想像の分離を巧みに利用した面白い作品である。

赤塚祐二 《another mountain5

手前から奥に線遠近法で描かれた道があり、遠くに山が見える。その風景画の上にグリッドが白い線で描かれている。グリッドの中央の線が道のセンターラインになっている。そこは風景の空間の内部とつながっているけれど、絵画上部のグリッドの縦横の線は、風景の空間とは分離した浅い空間に描かれている。キャンバス表面に重なって見える線もあり、それは当然知覚された絵画表面の物質性を強調することになる。成功しているか失敗しているかはともかく、グリッドは風景画の空間と絵画表面の物理的平面をつなげる働きをしていることになる。

斉藤規矩夫のグリッドと赤塚祐二のグリッドを見て、どちらが優れているか比べて見て欲しい。

さて、ポロックの完成されたポード絵画では、知覚と想像はどうなっているのだろう。分離しているだろうか。それとも渾然一体となっているだろうか。答えはたぶん《インディアンレッドの地と壁画》にあるだろう。



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2012.03.16[Fri] Post 23:37  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑮『ポロック展』:絵を見る距離

絵は見る距離によって見え方が違ってくる。例えば、会田誠の《灰色の山》は、近づいて見れば背広を着たサラリーマンやOA機器のゴミの山である。桑久保徹の作品も近づけば離れては見えなかった細部が見えてくる。もちろん会田誠の《灰色の山》ように、まったく別の図像主題が現れるわけではない。どちらにしろ、遠くからでは見えなかった細部が、近づくと見えるということだ。

上の例では、図像主題の見え方が変化するのだが、別の変化もある。それは、近づくと知覚が優位になり、絵画の物理的表面が現れ、遠ざかれば想像が優位になるという現象だ。見る距離によって、知覚、想像、錯視が微妙に変化する。通常の具象画では、「知覚に基づいた想像」が働いている。例えば、クールベの《ルー川の洞窟》では、キャンバスの黒い色面の知覚に基づきながら、洞窟の奥深い暗闇を想像している。この場合、黒いキャンバス表面にも、洞窟の暗闇の空間にも注意を向けることが出来る。野田裕示の凹凸のある作品は観者の動きに伴ってさまざまに変化する。観者の身体は物理的絵画と同じ空間に属する。したがって絵画表面にデコボコの凹凸があるとき知覚が支配的であり、イリュージョンが生じにくい。さらに野田氏には凹凸ではなく、表面を漆塗りのように研磨して、工芸品のような物質感を出した作品もある。もちろん工芸的な表面は平面であっても、漆塗りの板(事物)のように射影を通して知覚される。

斉藤規矩夫の《Indian Beans》が、知覚と想像と錯視が渾然一体となっていることについては、すでに「『ポロック展』番外②」で述べた。『Vision's』で展示されていた《ロ・ロ・パス》や《二つ月》はさまざまな技法を使っているのだけれど、それは、距離や視点の変化にともなって、知覚と想像が絡まって繊細な空間のイリュージョンを生んでいる。

斉藤規矩夫の作品とは違って、ポロックには、知覚と想像がはっきりと分離した作品がある。1943年制作の《ポーリングのある構成Ⅱ》は、出来上がった抽象画の上から疎らに広い範囲にポーリングした作品だが、ちょっと頭を動かしただけで、ポーリングの線が浮き上がり、下の抽象画の表面が沈み込んで、間に厚い透明の層が現れる。いろいろ試して見たところ、一番強い錯視が生じる距離があって、これは推測なのだが、エナメルの盛り上がった線が知覚され、下の抽象画が想像されて、その間に空間のイリュージョンが生まれ、さらに頭を動かしたことによって運動視差の錯視が生じ、なお一層の深い空間のイリュージョンが見えたのではないか。これは推測なのだが、あまり近づいても遠ざかっても、それほど強い錯視が現れないのは、たぶん、黒い線の知覚と背後の抽象画の想像が上手く分離しないからではないか。(今、カタログの写真を見ても、実作ほど強い錯視は生じない。写真に撮ると、絵具などの盛り上がりが見えなくなるので、知覚と想像の分離が現れにくくなったのかもしれない。)

知覚と想像と錯視が相互に区別できないわけではないが、実際の絵画を観賞では、三つは入り交じっているので、明確に区別するのは難しい。斉藤規矩夫の作品はそういう区別が難しい作品の例だが、逆に知覚と想像が明確に分離した作品として、ゲルハルト・リヒターの《Overpainted Photographs》を挙げることができる。説明の必要はないだろう。






さて、ポロックの《インディアンレッドの地と壁画》では、知覚と想像と錯視はどうなっているだろうか。愛知県美術館ではあまりに錯視が強く、知覚と想像と錯視の協働を見ることが出来なかった。東京近代美術館で《インディアンレッドの地と壁画》を見るのが楽しみである。
2012.03.08[Thu] Post 00:33  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

斉藤規矩夫とゲルハルト・リヒターの空間-「ポロック展」番外②

野田裕示の絵画が立体的であれば、知覚が優位であるのはもちろんだが、それが平面的であっても、工芸的に加工されていれば、桑山忠明や斉藤義重などのように、知覚が優位になる。絵画を見ることは「知覚に基づいた想像」なのだが、知覚と想像のどちらが優位かは相対的なもので、通常の絵画では、クルーべの《ルー川の洞窟》で見たように、想像にも知覚にも原則として注意を向けることが出来る。古典大家の絵画では、想像の図像主題が画面を支配しており、野田裕示の抽象画では知覚の対象である物質性が優位だといえる。

それに対して、斉藤規矩夫の作品《Indian Beans》は、知覚と想像と錯視が渾然一体となっている。一体という表現が適当かどうか分からないけれど、たぶん、空間を統一するための図像主題が欠如しているからこそ、逆説的に知覚と想像と錯視が微妙な戯れを生んでいるといえる。といっても空間がバラバラになっているわけではない。遠近法の線の代わりに、グリッドが空間の枠や奥行きの基準面になっているようにも見える。線が消えかかっている箇所もあるし、格子の中にローマ字が描かれており、その文字も薄かったり、断片だったり、掠れていたり、輪郭線だけだったり、絵の具が垂れて格子からはみ出したりして、擦ったような汚したような輪郭線のぼやけた薄い青みがかった色が、文字の上や下に描かれている。だからと言って、決して焦点の定まらないぼやけた絵ではなく、浅いけれど、確かな空間のイリュージョンが現れている。曖昧さと緊密さが併存した不思議な作品だ。(Jasper Johnsのペインタリーなアルファベットや数字の作品と比べて見れば、その空間の違いは一目瞭然である。また、『会田誠の記号論』①~⑤を参照のこと)

《Indian Beans》は「Vision's」に展観されていた作品ではなく、オークションサイトの「Artnet」から拝借したものだ。会場には、グリッドやローマ字を使った作品とは別の技法を組み合わせたような作品もあった。たとえば、パンフレットに載っている《ロ・ロ・パス》と《二つの月》は、おそらくジェルを混ぜた絵の具をムラがあるように塗りつけて、乾く前に棒で線を引いている。塗り残したところが矩形や楔型の白地として残る。その中に線や図形を描いたり、絵の具を線状に垂らしたりしている。縁が滲んでいるのは、生のキャンバスなのか、あるいは綿布なのかもしれない。技法に関しては確実ではないけれど、ジェル、ひっかき線、ムラ、ステイニング、滲み、ポーリング、地と図の逆転、生のキャンバスなどが、近い距離から見れば、たしかにアクションの物質的痕跡として知覚できるのだが、その知覚に混在しながら、想像と錯視の空間があらわれてくる。地の部分が塗られ、残った部分が図になるということでは、ポロック展で見た《Totem Lesson 2》のマスキング的技法を思い出すが、《Totem Lesson 2》ほどは平面的には見えない。ついでに言っておくと、この《Totem Lesson 2》はグリーンバーグが「どんな強い言葉でもほめてもほめ足りない」と言った作品だ。

斉藤規矩夫の絵画空間を理解するにはゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》と比較するのが手っ取り早い。リヒターの空間は古い遠近法的手法を使った奥行きであり、斉藤規矩夫の空間と比べると、むしろ分かりやすい空間のイリュージョンだ。私には面白くないが、ただ、リヒターには、技法を純化することによる絵画についての絵画という「自己言及性」があって、ポロックとは違った意味でリヒターを理解するのは難しいところがある。

リヒターの《アブストラクト・ペインティング》は、まったくホッベマの《並木道》の空間と同じ伝統的空間であり、「知覚に基づいた想像」の空間だ。もちろん《並木道》のような一点透視図法の空間ではないのだから、リヒターの空間は捩れているとか、四次元だとか言う評論家もいるだろうが、そんなことよりも、想像空間が支配する因習的な絵画だということが重要なのだ。それに対して、斉藤規矩夫の作品は、知覚と想像のどちらか一方が優位ということはなく、両者が弁証法的緊張の関係にある。


それでは、ポロックの《インディアンレッドの地の壁画》はどうだろう。ポードされたエナメル絵具は盛り上がっていて、まず、何よりも、適当な距離をとれば、物質的な表面の知覚が優位に現れる。ところが愛知県立美術館でみた《インディアンレッドの地の壁画》はあまりにイリュージョンが強すぎて、絵画的想像力が働かず、結局はポード絵画を理解することができなかった。藤枝晃雄は『現代美術の不安』の中で、ポロックのポード絵画の焦点について以下のように述べている。

「ポロックにおける緊張は、焦点のあるようなないような、遠視と近視の状態の間におけるそれである。」

「ポロックの絵画は、近視と遠視の間に立って焦点を求め、縮小したり拡張したりする。」

「画面に近づけば、それは不規則な網目でしかないし、遠ざかれば壁になってしまうといわれるのはそのためである。」



この文の意味を正確に理解することは私にはできない。ただそれが、「知覚に基づいた想像」という絵画の根本的な問題に関係があることは間違いないだろう。まずは、斉藤規矩夫とゲルハルト・リヒターの空間を比較することから始めるのがポロック理解の近道なのではないか。もちろんリヒターの空間が伝統的な遠近法の空間であることは言わずもがなのことである。





             斉藤規矩夫 : 《Indian Beans》


               斉藤規矩夫 : 《二つの月》























2012.02.26[Sun] Post 14:43  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

『野田裕示展』と『斉藤規矩夫展』-「ポロック展」番外①

昨日(2/17)、東京で二つの展覧会を見てきた。

『斉藤規矩夫展』の案内状が「現代芸術研究会」の名簿で送られてきた。初めて聞く名前だったけれど、企画が藤枝晃雄とあったので行くことにした。ついでに『ポロック東京展』にも行っておこうと思ったのだけれど、国立新美術館のHPで『野田裕示展』の開催を知って、『ポロック展』をやめて『野田裕示展』を見ることにした。

と言っても、野田裕示の名前を知っていたわけではなく、ただ『野田裕示展』のサブタイトルに「絵画のかたち/絵画の姿」と言う言葉があって、それが、ちょうど「絵画おける知覚」の問題、すなわちマイケル・フリードの『芸術と客体性』で論じられている「絵画の形態」の問題と関係がありそうな気がしたので興味を持った。もちろん、絵画を知覚すると言うことは、想像が作動しないということであり、絵画をイリュージョンのないリテラルな物体として見ることだ。HPに出ていた《WORK1536》も知覚が優勢のように見えた。

初めに『Vision's』で斉藤規矩夫を見た。詳細は次回に書くが、ゲルハルト・リヒターの《Abstraktes Bild》のような造形的な絵画言語ではなく、もっと多様な方法で、知覚と想像と錯視が微妙に戯れる絵画空間を生み出していた。そういうわけもあって、どうしても、今日のうちに、おそらく知覚が優勢と思われる絵画をニョウボに見せておきたかった。国立近代美術館はやめて、国立新美術館に行こうとおそるおそる提案したけれど、ポロックは一度見たからとさして反対はしなかった。

ところが、新美術館の会場に入った途端、ニョウボは不機嫌になった。HPに載っていた赤い花びらのようなシリーズは、写真で見るより、なお一層リテラルに射影を通して現出する。表面には切れ込みを入れたり、削ったり、磨いたりしているが、工芸品のように見える。神田直子という人が「物体としての絵画の観念を打ち破る」とか「絵画としての平面性と、豊かなイリュージョンが横溢する絵画空間とを共存させることへの挑戦である」と書いているが、私には知覚された平面的な物体にしかみえない。キャンバスに凹凸をつけたり、額縁状の箱にいろいろなものを詰め込んだ作品もあるけれど、立体というのはそもそも原理的に知覚の対象なのであり、事物は射影を通して現れるから、イリュージョンをもちにくい。木片をキャンバス地で包んだ作品も遠くから離れて見れば、平面的な作品に見えるのだが、そうなると豊かなイリュージョンが生まれるどころか、何か民芸品のデザインのように「貧乏臭く」見える。

ところが、途中まで会場を回って、《WORK629》を見たら、突然「オペラシティー」で見たことを思い出した。今、調べてみると、《『ジオメトリック・イメージズ』東京オペラシティコレクションより》(http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-687.html) の記事で野田裕示について触れている。そこを引用する。

たしかにいろいろな技法がある。理論がある。いや、あるらしい。その技法や理論が分らなければ、抽象画はわからないのでは困る。野田裕示は、支持体と絵画 の関係を追求しているという。キャンバスの一部が切除されている。キャンバの上にキャンバスの切片が貼りつけられている。絵具の下塗りが蒔絵のように研出 しされている。こういう技法は反イリュージョンの方向に作用する。イリュージョンがなければ、絵は余計にみすぼらしくみえる。

この時の『ジオメトリック・イメージズ』展で展示された野田の作品はこの《629》だけだったと思うが、それだけでも、野田の「欠点」を知るには十分だったのだ。「みすぼらしい」というのはリテラルに見えるということだ。今回、沢山の絵を見て、いったい野田裕示という画家は何者なのか不思議に思えてきた。

次回は、そのことについてちょっと考えてみる。







2012.02.19[Sun] Post 00:52  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑭『ポロック展』:抽象画の見方と見え方(その4) 〈絵画の知覚と身体性〉

絵画は二つの方向に逸脱した。

一つは図像学の方向への逸脱だ。図像学が述べていることは絵画本来の図像主題、すなわち「知覚に基づいた想像」の記号性ではない。百合が純潔を表すといっても、その百合は、図像主題の百合だけではなく、生花の百合でも、造花の百合でも、「百合」という言葉でも純潔を表すことはできる。また、イヴ・クラインのモノクローム絵画には図像主題がないけれど、そのブルーの表面が「宇宙の神秘」を表すという。表すと言っても約定的なものではなく、ただ、作家が解説しているだけなのだが、いずれにしろ、知覚された事物が図像主題(イリュージョン)を媒介にせずに「神秘」を表現できるということになる。これらは、絵画本来の記号作用である「知覚にもとづく想像」ではない。

もう一つは、「オブジェ」への逸脱だ。絵画を見るということは、本来は図像主題を見ることだったが、抽象画の出現によって、図像主題がなくなり、さらに、空間のイリュージョンさえ殆どない絵画が現れた。想像ではなく、知覚が優位になった。知覚が優位になると、絵画が平たい物体になり、観者の身体はオブジェと同じリアルな空間に所属することになる。

と言うところまで書いたけれど、あとが続かない。記号論的アプローチをすると収拾がつかなくなる。もう一度「絵画の記号学」から「絵画の現象学」にもどって、絵画の「見方」ではなく、絵画の「見え方」を考えることにしよう。

【身体性】 まず、「身体性」を考えてみよう。この言葉は美術評論などで、よく目にするけれど、それが一体何を意味するのかはっきりとしない。どうやらメルロ・ポンティから借用した言葉のようだが、初めて聞いたのは李禹煥の《余白の芸術》(横浜美術館)のときだった。もの派の芸術運動と関係が在るらしいことまでは分かったが、どういう意味なのか正確には分からなかった。ただ、アクション・ペインティングから生まれたパフォーマンスやハプニングが身体性と結びついていることは理解できた。
 知覚(物体)と想像(イリュージョン)の視点から見ると、身体性の意味がよく理解できる。重要なことは、観者がオブジェ(彫刻などの物体)を知覚しているときは、観者の身体はオブジェを容れている空間と同じ空間に所属していることだ。他方、絵画の想像空間と観者の身体空間とは絵画の物理的表面で切断されている。そのため、観者は絵画の想像空間に歩いて入る自分を想像するか、目だけでなぞることしかできない(グリーンバーグ)。もちろん物理的絵画(平たくて矩形の立体)を知覚しているときは、観者は絵画物体とおなじ空間に属しており、身体を動かせば、その運動に沿って、物体としての絵画の見え方は変化する。横から見れば、図像は歪んで見える。

絵画を見ることは「知覚に基づいて想像」することである。 知覚は身体と密接に結びついている。メルロ・ポンティはこれを「知覚の受肉」と言っている。反対に想像は無化することだとサルトルは言う。想像する観者は無化する自由な意識である。しかし、絵画は「知覚に基づいた想像」であり、「自由な想像」ではない。絵画はこの受動性と自由の境界領域にある。


2012.02.06[Mon] Post 00:56  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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