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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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中村一美とマチス、そして佐藤順子の場合

国立新美術館で『中村一美展』が開催されている。中村一美は東京都現代美術館の収蔵展(?)で見て、抽象画というものに初めて感動した画家だ。今、そのときのブログを読み返してみても、何やら要領を得ないことが書いてある。憶えているのは《連差ー破房XI(斜傾精神)2002年》の巨大なピンクの「フデ跡」がぐらりと動いたように見えたことだ。

今日の産経に渋沢和彦が展評を書いている。例によって物語のないアクションペインティング風の抽象画から、次第に物語を語り始める。もちろん現代美術では物語は評論家と作家の合作だ。東日本大震災の死者への悲しみ、生命を与える神秘的な力、少年時代の思い出、再生を暗示する鳥の形や具象らしき人の姿、次第に社会状況や哲学的テーマが現れる。中村一美、作家自身が「存在の飛翔についての絵画」と言い、国立新美術館の南雄介副館長は「描くことの意味を模索し、到達したのが鳥としての絵画」と言い、結局何が何だか分からなくなる。お馴染みの光景だ。

産経(5月1日)の写真《織桑鳥Ⅳ》(フェニックスⅣ)2002年を見たら、これまでのピンクと紫、黄色と青のような彩度の高い色彩とずいぶん違う色だ。奥行きが浅い平面に鳥やオットセイのような形が見える。鳥のような緑の色面には天気図の風向のような模様があり、オットセイのような煉瓦色の色面には乱暴に引かれた白いストライプ模様がある。

これは失敗したマチスだと直感した。鳥やオットセイなど「らしいもの」は視線を自由にしてくれそうだが、実は反対に視線を束縛する。人は「らしきもの」を見ると、「であるもの」を見ようとする。「絵画」ではなく「壁のシミ」になる。タイトルまで「らしきもの」なのはちょっと微笑ましいけれど。

マチスに《かたつむり》という作品がある。タイトルを知らないまま、抽象画として見たとき、「いったい、この絵はなんだろう」と思い、色や形の組み合わせやバランスを見ようとする。無駄である。ところが、タイトルが《かたつむり》と知れば、視線は「意味」から開放され、形から形へと自由に切れ目なく流れていく。それがマチスなのだ。

中村一美はマチスの表面をマネて失敗した。佐藤順子も模様やパターンをマネたり、彩度の低い色や、補色対比の弱い色を試したりして失敗している。今回の《昭和35年度都立西高等学校入学 1年D組》は写真があったのでそれほど自由に描けなかった。ただ、マチスの《PURPLE ROBE》のような幸せになれる絵を描きたかっただけだ。まさか、マチスのように描けるわけがない。しかし、佐藤順子は幸せになる。思い出にではない。一枚のタブローにだ。

ニョウボは、第一次候補作にもなっていないのに、大賞なんかもらわなくてよかったわ、百万円で手放すなんてとんでもない、いつでもみられるように手元に置いておきたいと強がりを言っていたのに、審査過程選評を知るにつれて「入選したのは奇跡みたいだ、ともかく入選して良かった」というようになった。

来年は応募しないだろう。









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2014.05.05[Mon] Post 21:33  CO:0  TB:0  中村一美  Top▲

中村一美展再訪(東京都現代美術館)★★

やっぱり抽象画はむずかしい。

 カルティエ・コレクション展の帰りに、中村一美を見るために特集展示を再度見た。入り口の受付で「いつもありがとうございます」と館員に歓迎された。また来たと思われたのである。それほど、客が少ないのか、それともこちらの風体人相があやしいのか、わからない。

 とにかくすぐに二階にあがって、中村の「連差ー破房XI(斜傾精神)2002年」の前にいった。

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2006.05.26[Fri] Post 21:25  CO:2  TB:0  中村一美  Top▲

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