ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

マティスの『感情の遠近法』

前回、マティスの《肘掛椅子の踊り子》の遠近法について述べたけれど()、マティスの『画家のノート』(二見史郎訳)に遠近法について触れている箇所を見つけた。

遠近法について----私の最終的な線描のデッサンはつねに自分の鮮明な空間を具えていて、デッサンを構成している対象はそれぞれ別の平面に置かれている。したがって遠近法のなかにあるが、“しかし、感情の遠近法のなかに”、暗示された遠近法のなかにある。(『画家のノート』P184)


「感情の遠近法」というのは「線の遠近法」のように合理的な空間ではないということだろう。しかも、対象はそれぞれ別の平面に置かれているというのだから、透視図法に従った一つのまとまった空間ではない。線遠近法の空間は解体され、そのかわり平面に基づいた新たな「感情の遠近法」が生まれる。

上述の文が引用された章(注1)は「デッサンは芸術の誠実さである。」というアングルの言葉から始まる。国立美術学校のデッサン室の入り口に掲げられていたエピグラムだけれど、マチスはこの言葉の意味が理解できなかったという。誠実さ(probity)とは対象を正確にデッサンすることだろうが、マチスにとってそんなデッサンの考えは間違いだと思った。

-----表現すべき対象のありのままのデッサンを忍耐強くやらせることを通して彼らを制作に釘づけにすること。(服の裁断と仕立てに失敗して、体を締めつけ、その動きを不随にするような手直しをいくつもやって服をお客の体に密着させることで窮地を脱しようとはかる仕立屋を私は思い浮かべる。)

-----構図の機械的な手段を通して想像力の貧困をすくうこと。(P180~181)


マチスには「誠実さ」とは誤魔化しにしか思えなかった。

私の線画は私の感動の直接の、もっとも純粋な翻訳である。(P183)


マチスは、自分の線画は「感情の遠近法」であるといっている。これはモデルのデッサンについてばかりではない。

彼女(モデル)たちが私に引き起こす情緒的関心はとくにその体の描写に現れるわけではなく、むしろ、しばしばカンバスまたは紙の全体に広がって、その編曲、その建築構成を形づくっている線や独特のヴァルールによって表されている。しかし、誰もそれを感じとらない。おそらく、これは昇華された逸楽であって、まだみんなにとっては感じとれないのかもしれない。


感情の遠近法は人物像としてのモデルだけではなく、室内の線や色彩によってキャンバス全体の空間を支配する。しかし、モデルのデフォルメには容易に気付く観者も、キャンバス全体の感情の遠近法を理解してくれるひとは誰もいない。これは、おそらくマチスの線と色彩の葛藤、あるいは平面性と空間の問題が装飾的であると誤解された理由でもあるのだろう。

ピカソの新古典主義がキュビスムの解体された空間の再生だったように、マチスの「感情の遠近法」もまたキュビスムの理知的な遠近法に生命を吹き込むことだった。ピカソは『ボリューム』によって、マチスは『平面性』によって、二人は別の道を通って同じ場所を目指していたのだ。

マチスの《感情の遠近法》は新表現主義のような激しい情緒的な空間ではなく、絵画の平面性に基づいた繊細で感覚的な空間なのだ。これは具体的な作品によって説明しなければならない。


注1:『デッサンと色彩の永遠の葛藤』

スポンサーサイト
2013.01.04[Fri] Post 22:10  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

岡田さんへの手紙 遠近法から平面性の空間へ(1)

岡田さんへ
ご無沙汰しております。もうお忘れでしょうが、遠近法について改めて述べておきます。その前に下のマチスの《肘掛け椅子の踊り子》見て下さい。マチスの平面性と空間の〈早わかり〉になっています。


henri-matisse-danseuse-dans-le-fauteuil1942-12185.jpg


さて、「ハ」の字の遠近法です。壁に大きく書いた「ハ」の字は壁に描かれた「ハ」の字に見えます。ハの字に見えるときは壁の表面を知覚しています。

それから平行線が遠方に伸びているように見えます。このときの見え方は二つあります。一つは錯視で、このときは壁の表面は知覚していません。擬似知覚です。もう一つはハの字を知覚して、その知覚に基づいて平行線が遠くに伸びているように見えます。これがいわゆる図像主題(絵)を見るということです。

この3つの見え方は個人差もあるけれど、非常に不安定です。このことは再三述べました。岡田さんは「不安定だ」ということにご不満のようですが、事実だから仕方ありません。

それなら、安定して見るためにはどうしたら良いか。「ハ」の字を「道路」にしてやればいいのです。街路樹や中央分離帯、そして遠くに山や雲をかいてやれば、「ハ」の字は安定して遠くに続く同じ幅の二本の線に見えます。もちろんこの時は壁に描かれた図像客観の知覚に基づいて図像主題の道路を見て(想像して)いるのです。

裸の「ハ」の字では図像主題がないので不安定に見えます。

日本画の線遠近法の歪みについて述べます。ヨーロッパの中世の絵を考えましょう。たしか岡田さんのブログにもあったと記憶していますが、その絵はテーブルの手前の縁と向こう側の縁が同じに長さに描かれた絵です。遠近法から言えば、向こう側の辺は短く描かなければ、同じ長さに見えません。

それなら対辺が同じ長さに描かれたテーブルは台形のテーブルに見える筈ですが、そうではなく間違ったヘンな絵だと感じます。何故でしょう。それは、遠近法の全体の整合性の問題もあるけれど、テーブルは大抵は矩形だから、そうでないテーブルを見ると違和感を感じるのです。

(勿論、日常的態度ではテーブルの向こう側の辺は短く見えていますが、同じ長さだと認識しています。遠くにあるものの大きさを知る能力は文化によって、あるは職業によって差があるけれど、それは実在の三次元の空間の中での知覚の問題だ。絵画では同じ距離の紙の表面に描かれている)

日本画もまったく同じ問題を抱えている。廊下や畳や襖の線遠近が歪んでいる。線遠近法の問題は西洋と日本では違ったものではない。ただ、日本では俯瞰図や雲や中景の省略などで「誤魔化した」けれど、西洋はリアリズムの伝統を背景に線遠近法を生み出していった。

岡田さんに叱られそうだが、何故日本画の方法を誤魔化しかというと、絵画としての発展性がなかったからです。

というわけで、上のマチスの《踊り子》を見てみよう。何も感じませんか。よく見ると肘掛け椅子の透視図法が歪んでいます。しかし、台形のテーブルのような違和感はない。椅子が歪んでいるようにはみえないし、ちゃんと左右対称の肘掛け椅子の絵なのだ。というのは言い過ぎで、図像客体としては歪んでいるけれど、図像主題としては普通の椅子なのだ。

もっとはっきりしているのは市松模様の床だ。床と言ったけれど、遠近法から見れば、白と黒の四角は同じ大きさで、キャンバスの平面と平行に描かれている。しかし、市松模様の平面は垂直の壁ではなく、水平な床を真上からの視点で描いている。

ところが肘掛け椅子に座った踊り子は手前のやや高い視点から見ている。別々の視点から見た《床》と《踊り子》が同じキャンバス平面に重なって描かれて居ることになる。ここで重要なことは絵(具象画)はキャンバス平面に描くから、見るときもキャンバス表面に対して垂直の方向から見なければならない。(ハンス・ホルバインの《大使たち》の髑髏については別の記事に書いています。)

二つの視点があるので、初めはちょっと違和感があるけれど、「台形のテーブル」のような遠近法が間違っているという誤謬の感覚は生じない。《踊り子》を最初に見たときの違和感は、そのうち豊かな空間のイリュージョンに変わっていく。

この絵の空間をまず支配しているのは踊り子だ。「人間は万物の尺度」であり、上下左右、足や手の伸びる方向、重心、頭の角度、視線などによって空間は構造化されている。

踊り子の上半身は右上から左下の隅の方へ両脚を伸ばし、右腕は広げている。視点の異なる〈踊り子〉と〈市松模様の床〉を繋いでいるのは黄色い肘掛椅子だ。矩形の背もたれは床と同じ平面に描かれている。もちろんこの矩形は市松模様の平面とキャンバス平面を媒介している。

最初は違和感を感じた市松模様の床も見ている内に次第に踊り子の身体空間を豊かにしていることが分かってくる。下部の市松模様は水平な床に見えるし、上部の市松模様は垂直な壁に見える。そして全体を見れば、市松模様の縦の線は上に向かって、遠近法的に幅がやや狭くなっている。また、横の線は右肩下がりになっており、縦横の線が正確に垂直水平になっているわけではない。

市松模様はフェルメールなどの室内画の床に好んで描かれているが、もちろん遠近法にしたがって室内空間の広がりを表わすためでもあった。その市松模様の縦横の正方形をわざわざキャンバスの矩形の水平垂直に重ねて描くことによって、線遠近法を解体し、絵画本来の平面性や空間の豊かさを手に入れたのだ。

遠近法の歪みというのは、とくに日本文化特有なものではない。その解決方法が文化によって独特のものがあるということだ。山口晃が日本の大和絵の技法で現代の風俗を描けばそれはそれで面白いけれど、それは所詮イラストであることは、画家自身も認めているところだ。

何も職人の技工を貶めるつもりはない。『美術手帖』流に言えば超絶技巧だ。近づいてその技を楽しめばいい。しかし、その線をよく見てみよう。キッチリと引かれているけれど、魅力的な線とはいえない。産経新聞の『龍馬を慕う』の挿絵()は少し自由な線で描こうとしたのか、かえって「ヘタクソ」が目立っている。空間を捉えるデッサンが分かっていないのだ。

《肘掛椅子に座る踊り子》を見れば、空間を把握するデッサンとは何か容易に理解できる。まず、椅子の背もたれと肘掛けと座部が作る空間、そこに収まっている上半身とはもちろん、一番空間の緊張感を生んでいるのは右手と左手の不均衡だ。右腕は太く、広げられ、左腕は肘を曲げて短く縮こまって、左右の腕のバランスが悪い。その両腕の不均衡は同じ方向に伸びる太い左腿で解消しているのでデッサンの間違いには見えない。試しに脚を隠してやると、右腕が左腕に比べてアンバランスに長く太く見える。

細かく書けばキリがないけれど、線が雑で、色はムラや塗り残しがあり、市松模様も結構いい加減に描いてあって、はじめはデッサンや遠近法の間違いのように見えるが、決してそうではなく、むしろ絵画空間に開放感と緊張感を与えていることが分かる。ムラや塗り残しがあるから黒い輪郭線もデッサンとして生きてくる。

マチスの絵を最初に見たとき誰でも感じる違和感は、線遠近法の「間違い」によって生じる違和感とは異なるものだ。見慣れるにしたがって、「キャンバスの平面」と「描かれた平面」の対立の中に絵画空間が見えてくる。その平面性が生み出す空間は、ホッベマの《並木道》やダ・ヴィンチの《最後の晩餐》の線遠近法の死んだ空間とは異なる緊張感のある空間になっている。

岡田さんへの返事つもりだけれど、返事になっていないことは重々承知している。そして納得しないことも。「現象学」と「不安定」について反論を書きかけたけれど、不毛な論争になったようで、今更いうのも何ですが、やめにしました。これを書いたのは、絵画を理解したい思っている数少ない《ART TOUCH》の読者のためです。

わたしは美術史や芸術論が絵画を理解するために何の役にも立たないと思っています。









2012.12.31[Mon] Post 00:49  CO:1  TB:1  美術評論とは何か  Top▲

公立美術館での企画展について: 『野田裕示展』と『松井冬子展』

『野田裕示展』は本当に、何が何やらよくわからない。国立新美術館開館5周年を記念して野田裕示の30年間に渡る140点の作品をあつめて展観に供するというのだから、大回顧展と言って良いだろう。今、横浜美術館で『松井冬子展』をやっている。『美術手帖』が特集を組んでいたから、美大生もたくさん見に来ているだろう。それにくらべ野田裕示の会場は閑散としている。美大生も来ていない。新作に取り組んでいる野田氏を映したビデオを画家らしき初老の男がじっと見ている。

泰西名画展なら美術愛好家たちで会場は溢れる。でも、現代アートの展覧会には観客は少ない。これまでにも日本人美術家の大掛かりな個展を幾つか見ているけれど、都立現代美術館の『大竹伸朗展』にしろ、横浜美術館の『李禹煥展』にしろ美術雑誌とタイアップしないと観客が集まらない。特集を組めば美大生が集まってくる。村上隆に言わせれば、美大生は美大に喰い物にされている。

どちらにしろ、にぎやかなのはいいことだ。少しぐらい作品が貧弱でも、なんとなく元気が出てくる。あるいは、客が少なても、芸術的に優れていれば、閑散とした美術館も悪くはない。ところが、この『野田裕示展』は、どうしてこんな大回顧展が企画されたのか良く分からない。カタログによれば若い頃からすでに「反絵画」を志していたらしい。そして初めから現代アートの文脈の中にいた。それは良い。しかし、その反絵画はとても質の低いものではなかったか。ブリジストン美術館でみた《アンフォルメル》の作品と変りないように私には思える。

初期の立体絵画や工芸品のような作品、キャンバスに凹凸をつけた作品など、どれも知覚が優位な物体的な絵画だ。それからデザインや挿絵やカットのような絵画が続き、そして何よりも終わりの方に展示されていた近作はわたしには全く理解不能の作品なのだ。二つの傾向があって、一つは、女体のような抽象図形のような、どっちつかずの作品、もうひとつも指を並べたような、仏像を並べたような、あるいはただの抽象的な模様のような作品だ。どちらも見ていると、少し神経を逆なでするような絵だ。抽象画と思えば具象画に見えるし、具象画と思えば抽象画に見える。なにかとらえどころがない。だからといって、マチスやデ・クーニングのように、具象画とも言えるし、抽象画とも言えるような緊張のある作品にはなってない。これも反絵画といえば言えそうだが、理論があろうがなかろうが、つまらない絵はつまらない。近づいて見れば、表面に何か仕掛けがあるかもしれないと思いはしたけれど、遠くから見ただけで、とても近づいて見る気は起きなかった。

それはともかく、気になったのは、こんな『野田裕示展』が国立新美術館で相当のお金をかけて開催され、『斉藤規矩夫展』は阿佐ヶ谷美術専門学校の入ったビルの一階のギャラリーVision'sで行われていることだ。アサビが後援し、野村財団が助成しているが、野田展の予算と比べれば大した金額ではないだろう。斉藤規矩夫を検索すれば、メジャーとは言えないまでも、海外ではそれなりに知られた作家であるし、美術批評の対象にもなっている。その作家が渡米して以来の日本初個展だという。松井冬子が華やかな個展を開催するのは分からないではない。しかし、野田裕示の個展と比べるとき、斉藤規矩夫に対する日本の美術界の応対はいささか冷淡な気がするのはわたしだけだろうか。













2012.03.02[Fri] Post 02:11  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔23〕遠近法と空間

《ニースの大きな室内》で、空間あるいは奥行きについて気づいたことを書いておく。

ひとつ化粧テーブルだ。テーブルというのは水平をあらわす。セザンヌでは水平が崩れて、キャンバス表面にせり上がっている静物画がある。ここでは、床がテーブルの右と左でズレており、左側が右に向かって低く傾斜している。そのズレた両側の床を水平のテーブルがつなげているのだが、その白い矩形が室内空間と窓外の空間を切り離している。心なしか、テーブルの右上の隅が迫り上がって見える。

もう一つの矩形が、壁に掛かっている絵だ。テーブルと床は水平だが、絵は壁や窓と同じように垂直である。この絵の中の壁に掛けられた絵は、この絵の縮小版になっている。左の縁の赤い線は元の絵にもあるし、右側の緑の線はフラインドだし、その左隣のモスリンのカーテンも縮小版に描かれている。そしてヴェランダの女性は、左下、化粧テーブルと鏡のあたりに描かれている。

もちろん縮小版といっても、そのなかに消失点があるわけではなく、言わば、一種の凝縮点で、窓外の遠景がわれわれの視線を遮るとするなら、壁に掛けられた絵は、手前の室内の空間を支えている。マチスは作品の中に窓や絵画を好んで描く。それが窓なのか絵画なのか区別がつかないこともある。窓が風景画に、絵画が窓や隣室に見えることもある。それは空間のイリュージョンの連続性によるだろう。

絵画のイリュージョンについて整理しておこう。絵画は紙やキャンバスの平面に描かれた線や色である。紙の上に丸を描く。数学の教科書にある円の図形である。円の内側は図で外側は地である。これはゲシュタルト心理学で言う図と地であり、反転することもある。これがイルージョンかどうかは難しい。現実の3次元の知覚世界でも事物が背景から浮き上がってみえる。もちろんこれが地と図の関係と同じではない。平面の知覚と立体の知覚は違うものだからだ。図形の知覚はあくまでも平面の知覚だが、立体はもともと背景より手前にあるからだ。これは両眼視差や、単眼でも運動視差があるからだ。

それでは、円に陰を付けたらどうなるだろう。これは「陰影による奥行き知覚」として知られた現象である。下に陰をつけると凸で、上に陰をつけると凹に見える。リアルに陰を描いたか、雑に描いたかで違うけれど、平面の上の濃淡に見えずに、球や凹みに光が当たって陰ができたように見えるのだ。これも平面上の濃淡や球や凹みに見えて不安的な現象といえる。特に上に陰がある凹みは容易に凸にも見えるようだ。凸や凹に見えるのは不安定なこと、そして、その時独特の非現実感が伴うことによって、それがオプティカル・イリュージョンであることが分かる。陰影を付けたハイパーリアルな球が浮き上がって見え、返って非現実的に見えることもある。この場合は、浮き上がった球体のイリュージョンが円の濃淡を付けた図形の知覚を隠してしまい、イリュージョンが安定的に見えることもある。そして、この場合は容易に首振り立体視(運動視差)が見える。球体と背景の間に遠近のイリュージョンが現れるので、頭を動かすと擬似的な運動視差が見えるのだ。(それから、序に言っておくと、上に陰をつけて凹んで見える方の円を首振り立体視をすると、あるいは瞬きを繰り返すと、次第に凸に見え浮き上がり、運動視差のイリュージョンが見えてくる。次のサイトで試してください。)

つづく




2011.11.09[Wed] Post 00:44  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔22〕遠近法:マティス《ニースの大きな室内》 藤枝晃雄

パノフスキーによれば、遠近法というのは、理想と秩序という世界観を表わす。そして、空間は、消失点に向かって「吸い込まれる」ような奥行き感覚を生み出すというのは紋切り型の絵画観賞だ。もちろん、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》やホッベマの《並木道》には深い奥行きのイリュージョンがある。しかし、そんな遠近法的奥行きは死んだ空間であり、吸い込まれるような空間のイリュージョンが絵画の芸術性とは思えない。

藤枝晃雄がマティスの《ニースの大きな室内》の評論で、設計された空間ではなく、生きた空間について述べている。まず、遠近法に注意しながら、《ニースの大きな室内》を見て欲しい。




はじめにジョン・ジェイコブスの言葉を引用して、われわれは「モデルの目の高さに向けて直接窓を見ている」、一方、室内は肘掛け椅子や化粧テーブルなどが上から「直接、見下ろして」おり、窓の外の風景と室内が異質な空間として描かれているという。

ところが、峯村敏明が、この開かれた窓にによって仲立ちされた二つの異質な空間について、「高い位置から平面的に捉えた手前の空間が、ねじれるようにして窓外の透視空間に吸い込まれてゆく」と言う。この「室内が平面的で窓の外が透視空間だ」と言うことに対して、藤枝晃雄は、それとはまったく反対の見方をすれば、この絵画の特徴を理解できると反論する。

手前の空間が、俯瞰されているが、床の勾配が急になっており、そのために平面的ではなく立体的になっている。窓の外は通常の視点から描かれている点で透視空間をもつといえなくはない。見るものと女性の間には距離間があるが、それはまさに手前の空間が平面的ではないからである。だが、女性の後ろでは海の上に空が幾何学的に積み重ねられていて手前の空間よりもはるかに平面的である。透視空間の視点によって描かれながら透視空間が拒まれているのであって、そこに手前の空間が「吸い込まれてゆく」のではなく、その逆、すなわち手前の空間を積極的に作り出し、画面を見るものの手前に広げている。


「透視空間なら、海、空は立ち上がり、空の色彩がカーテンへ、鏡、化粧テーブルへと結びついてゆく」けれど、そうなってはおらず、この絵の線や色彩や形がどのような空間を産み出しているかを説明したあと、藤枝晃雄は次のように結論する。
「この作品でマチスが表しているのは、人間とか事物の関係からさらに、これによって成り立つ室内の、不可視の空気なのである。」「『ニースの大きな室内』で、画面はわれわれ見る者の手前に進出する」「そこには深さがあり、空気に満ち膨張した室内=空間があり、それがわれわれに開かれている。ここでは、西洋の伝統が逆転されて息づいている。」

「西欧の伝統」というのは、ここでは消失点を持った線遠近法の奥行き空間のことであり、それが逆転されて消失点のない空気に満ちた室内空間が息づいていると言う。

これは、グリーンバーグの言う、浅くなっていく空間のイリュージョンと関わることだと思われるが、そのことは別の機会に。





2011.10.31[Mon] Post 23:32  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。