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泉太郎 『捜査とあいびき』(hiromiyoshii)★★★★☆

泉太郎名人天才である、と以前書いたことがある。久しぶりで見た。相変わらずの天才ぶりである。

今回の上京では、高柳恵里も見たけれど、ちょっとがっかりした。もう一人、好きだった田中功起もちかごろマンネリ化しているような気がする。そんな中で、泉太郎の活躍は際立っている。

ニョウボは泉太郎とは知らずに、「抽象画製作器」(?)を見て笑っていた。そういえば、ART@AGNESで泉太郎のアフレコを使ったビデオ作品を見たときも笑っていた。もちろん、泉の笑いには、いつも絵画あるいは現代美術に対する批評性、あるいは、揶揄がある。

高柳と泉についての感想は帰ってから書くので、ともかくhiromiyoshiiの泉太郎は是非見ておいてください。11月20日まで開催です。


『泉太郎』へ:http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-114.html

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2010.10.24[Sun] Post 17:14  CO:0  TB:0  ー泉太郎  Top▲

泉太郎

「マイクロポップの時代」(水戸芸術館)★★★★☆

 泉太郎は突然あらわれてほとんど天才である。(注)

 泉太郎の作品を初めて見たのは、今年のART@AGNESの「hiromi yoshii」だった。そのときのブログから引用する。  hiromi yoshii 泉太郎と小金沢健人合作《泡顔タブ》はバスタブに何か分からないものを浮べ、ビデオプロジェクターで底の垢を掃除するような映像を投影していた。水の透明な厚みが奇妙なリアリティを持って美しい。

そのほかにも、ビデオ作品があり、一人はボールペンを持って、もう一人は下の紙の方を動かしてイタズラがきをする作品は、鉛筆の代わりに紙が絵を描いているような不思議な感覚。画家の独創性をからかっているようにも見える。地下道で通行人に選挙の立候補者みたいに男が挨拶をしている。女房がしきりに笑っている。何故か、ちぐはぐな感じがして、面白い。男がアフレコで「こんにちは!」と言っていると女房は言うのだが、わたしには、アフレコだとは、なかなか判らなかった。挨拶している男(たぶん作家本人)と通行人の何とも言えないチグハグなコミュニケーションが面白い。ほかにもアフレコを使った作品があるらしいが、パフォーマンスだけで終わってしまうのか、それとも傑作を描くのか、この二人には注目である。(一部修正)  と書いたのだが、所詮ビデオ・アートだからと、それっきり忘れていた。

ところが、水戸芸術館の「夏への扉-マイクロポップの時代」展に泉太郎が出品していると聞いて、彼の面白さを確かめるために出かける気になった。といっても、静岡から茨城まで渋滞がなくても片道5時間の道のり、なかなか決心がつかない。それに、この「マイクロポップ」という言葉が薬事法違反のやせ薬みたいで怪しい、そのうえ「時代」と「扉」が付いて、おまけに「夏へ」とくれば、どう見たって詐欺商法、わざわざ水戸まで騙されに行くのはイヤだと、ぐずぐずしていると、ちょうど東京へいく用事が二つも出来て、やっとのことで水戸まで泉太郎を見に行ってきた。

 展覧会全体の感想はいずれ書くとして、泉太郎の作品は素晴らしかった。指に鍵の絵を描いて、それを錠に差し込もうとするのや、階段の手摺りでアミダをするといった旧作のギャグも、もちろん面白いのだが、中にギャグを超えた作品が二つあった。二つともモニターではなく、プロジェクターで壁に大きく映し出されていたのだから、自信作なのだろう、ギャグとしてもなかなか良くできている。  一つはテレビに落書きする作品だ。モニターにテレビのニュース番組が映し出されている。そこへ横から出てきた手がモニターに映し出されている司会者の顔をなぞって、落書きをする。すると場面が変わって司会者が消え、落書きの顔だけがブラウン管に残る、あわててそのイタズラがきの顔を消して、次に映し出された人物の顔を描く、それがまた居なくなるという追っかけごっこのギャグなのだが、これが面白くて笑ってしまう。イタズラ描きというのは、人物画にヒゲやメガネを描いて喜ぶのだが、それが絵ではなく映像なので、場面は変わって人物は消えてしまい、後に残ったイタズラ描きは、「図像破壊」という特権的な意味を失い(ちょっとポモ風)、たんなる間抜けな落書きになってしまう。

 この主客転倒が面白いのだが、この作品がまがりなりにもアートになっているのは、「なぞる」ことが絵画の起源だからだ。恋人の影をなぞった輪郭が、恋人が去ったあと恋人の似姿(絵)になるのだが、モニターになぞった顔は似ていない。しかし、似ていないから面白いのだ。そこには絵ではなく、なぞることの面白さがある。お絵かき遊びの楽しさがある。なぞることこそ絵を描くことの始まりなのだ。  もう一つのビデオ作品にも絵画の起源が隠されている。といっても、それはあとになって気付いただけで、初めはただギャグがおかしくて笑っていただけだ。これもモニターが大きく映しだされていて、そこに監視カメラのような俯瞰で廊下が映し出されている。そして、モニターの前に作家のものと思われる左手がチラチラと見える。そこへ男が現れ、廊下をウロウロする。すると左手がその男をピシャリと叩くのだ。叩くといっても、モニターのガラスを叩くのだが、叩かれた映像の中の男はペッチャンコなって、靴と衣服が床に平たくへばり付く。中味はモヌケの殻なのだが、男もいっしょにペシャンコになったようで、おかしくてたまらない。

 もちろんこれは、モニター(物理的映像)を叩くと、映像の中の男が叩かれるというギャグなのだが、この作品にはギャグ以上の面白さがある。どうやら叩かれて、ペチャンコになるのが面白いらしい。それが証拠に自転車に乗った男が叩かれても、自転車が横倒しになるだけで面白くない。自転車も同じようにペチャンコになって欲しい。確かに、ペッチャンコが誇張のギャグとわかっているのだが、それでも、やっぱりペッチャンコが誇張だけとは、どうしても納得できない。

 そもそも我々はペチャンコが好きである。踏みつぶされた空き缶でも、座布団の下敷きになった饅頭でも、車に轢かれた蛙でもいい、あるいは、ペチャンコが活躍する赤塚不二夫の漫画でも、なんでもペチャンコが大好きである。  しかし、そのペチャンコがなぜそんなに面白いのか分からない。誇張だけではないとは思うが、それがなんだか分からない。ところが翌日行った国立新美術館の「20世紀美術探検」展で、偶然おなじペッチャンコが展示されていたのだ。コーネリア・パーカーの《ロールシャッハ》だ。作品の説明はカタログから引用させて貰う。

 かろうじて原形をとどめてはいるものの、平坦に潰され、厚みと本来の機能を失った銀の燭台、器、スプーン、フォークや管楽器が、床から10センチ程度の空間に細い針金で水平に吊られ、繊細さと神聖さを湛え幻想的に浮いている。(本橋弥生解説から)  この《ロールシャッハ》を見てすぐに分かった。ペッチャンコは絵画の起源なのである。泉はペッチャンコとなぞることで絵画の起源を物語ってくれたのだ。

 つづく  

(このあとはコーネリア・パーカーの《ロールシャッハ》に続きます。) 注:山本夏彦の向田邦子への讃辞「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」を無断で借用したもの。以前から一度使いたいと思っていたのだけれど、なかなか名人が現れないので、泉太郎で我慢することにした。


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2007.02.24[Sat] Post 16:25  CO:0  TB:0  ー泉太郎  Top▲

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