ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(4)(『絵画の現象学』)

【ステラのblack paintingは自己言及の絵画である】

話を戻して、尾崎の「作品の二つの意味」を整理しておこう。

尾崎はここでは「外部参照と自己参照」と「意味論的情報と統語論論情報」の二つを挙げているわけだが、具体的に絵画に即して述べられていないので、これらが何を意味するか、明確ではない。おそらく殆どの人にはチンプンカンプンだろう。

というわけで、われわれは、モダニズム絵画の純粋還元を理解するためには、「意味論的情報と統辞論的情報」や「外部参照と自己参照」のほかに、「具象画と抽象画」と「知覚(物体)と想像(イリュージョン)」の区分を導入した。この二つの対立軸なら容易に理解できるだろう。

尾崎の自己参照は、非常に曖昧に使われている。本来のself-reference(自己言及)は、クレタ人のパラドックスのように、ある命題がその命題自身に言及している場合や、ある集合が自分自身を含む場合に言うのだが、尾崎の絵画における自己言及は、ただ、リンゴや肖像や風景などの外部の主題に言及していないことを意味するだけだ。もう一度言うと、自己参照とは外部参照がないという否定的定義のことであり、肯定的に自己に言及するのではなく、他者、すなわち絵の外部にある対象を指示しない絵画のことを言う。

しかし、こんな否定的で曖昧な定義では、フランス哲学の巧みなレトリックを使えば、何でもかんでも自己参照になるだろう。そのことはともかく、絵画における本来の自己参照について触れておく。

考えられる唯一の自己参照の絵画は、その絵と同じ額縁をキャンバスいっぱいに描き、その内側に例えばリンゴでも肖像でも描けば、自己言及の絵になる。最初のリンゴの絵は,絵の中の絵のリンゴに言及していることになる。二つのリンゴは同じもので、一方のリンゴが他方のリンゴ、すなわち自己自身に言及していることになる。

なにか怪しい理屈で、本当かいなと言いたくなるが、いずれにしてもちょっとした誤魔化しがある。じつは、これは自分自身を描いた絵ではないのだ。もし、自分自身を描いたとすれば、描いた額縁の内側にさらに額縁を描かなければならない。そして、もちろんその内側にも額縁を描く、という具合に無限に描かなければならないのだ。

このことは、合わせ鏡を思い出せばよく分かる。テレビカメラでモニターを映しても、同じ無限後退が見られる。もし、黒いノートパソコンのモニターの枠をギリギリに映せば、ちょうどフランク・ステラのブラック・ペインティングのようになる。ブラック・ペインティングは自己言及の抽象絵画だ。

ついでなのでマチスに自己言及のドローングを見つけたので、コピーしておく。

《アトリエに横たわる裸婦》
              アンリ・マティス 《アトリエの横たわる裸婦》1935年




 ピカソの「画家とモデル」のシリーズと呼応するものだ。他にもフェルメール、レンブランド、ヴェラスケス、クールベなどに「画家とアトリエ」の絵があるが、マチスのように自己言及にはなっていない。マグリットにありそうだが、興味のある人は自分で探して下さい。





スポンサーサイト
2010.10.15[Fri] Post 18:42  CO:0  TB:0  絵画論を超えて  Top▲

『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(3)(『絵画の現象学』)

これまでのことを、まとめておくと、現代美術は、主題ではなく作品そのもの、すなわち、リンゴやヌードのイリュージョンではなく、知覚された作品そのものが意味を持つ芸術だということだ。

主題は作品の外部にあるけれど、作品そのものの構造は作品の内部にあるゆえに自己参照ということになる。作品のイリュージョン(主題)ではなく、作品そのものが意味を持つのは、知覚された作品が、たんなる物質ではなく、それが構造を持っているからだ。

しかし、アナログ記号の絵画が、デジタル記号の言語と同じ統辞論的構造を持つことはできない。というのは、言語にはアルファベットがあるが、絵画にはアルファベットのような綴りがないという根本的な違いがあるからだ。(注1)

いずれにしろ、尾崎が作品の構造というとき、キャンバス上の絵具の配置やキャンバスのサイズやマティエールなどを指すらしいのだが、それが正確に何を意味するのかはまだわからない。

というわけで、現代美術の「自己言及」とは、作品の主題(イリュージョン)であるリンゴや人物や風景など外部指示ではなく、知覚された図像記号そのものが作品になるということである。

まとめておくといったけれど、依然として絵画における「自己参照」や「構造」、そしてとりわけ「統辞論的構造」が正確に何をいみするかは曖昧なままである。

ともかく、第二節の「モダニズム美術と純粋化」を読んでみよう。ここでも、分からないところがあるけれど、議論はグリーンバーグのフォーマリズムとモダニズムを巡って行われる。

フォーマリズムというのは、何が描かれているかではなく、いかに描かれているかに注意を向ける鑑賞あるいは美術批評の態度のことだから、もちろん古典大家の作品についても言えるわけだが、彼らが、絵具によって絵具を隠したのだが、最初のモダニストと言われるマネは、むしろ絵具の物質性や絵画表面性を露呈させたのである。

古典大家もマネも自然的対象を描いたのであるが、マネ以降、絵画は何が描かれているかの主題よりも、いかに描かれているかの形式に価値がおかれるようになる。もちろんフォーマリズムというのはあくまでも具象画の範囲に留まっていることになる。

グリーンバーグには、フォーマリズムとは本来別の範疇であるはずのモダニズムがある。ファーマリズムというのは批評・鑑賞の理論であり、モダニズムは美術史の理論である。このフォーマリズムの視点から近代絵画を眺めれば、近代絵画は絵画の本質へと純粋化することだったとグリーンバーグはいう。絵画の本質的ではない再現性や空間性を排除していくと、さいごに絵画の本質として平面性が残る。

尾崎はここで絵画の平面性について触れているわけではないが、このグリーンバーグの平面性については誤解されているようなのでちょっと注意しておくと、この平面性は知覚された平面性ではない。なぜなら、どんな具象的絵画もイリュージョンの背後にキャンバスや壁の物理的平面があるからだ。

グリーンバーグのいうモダニズムの平面性とは、奥行きのイリュージョンがどんどん浅くなり、主題の事物の立体性が弱くなり、次第に空間のイリュージョンが浅くなり、絵画表面に近づいて平面的になっていったということであり、イリュージョンがなくなったということではない。だからこそ、グリーンバーグは白いキャンバスも壁に掛ければ絵画になりうるというのは、白いキャンバスでもイリュージョンを持ちうるということである。イリュージョンがない平面が絵画の本質だと言っているわけではない。グリーンバーグは『モダニズムの絵画』(1978年)のなかで以下のように言っている。

モダニズムは、絵画が絵画であることをやめて任意の物体になってしまう手前ギリギリまで際限なくこれらの制限的条件を押し退ける得ることを気づいてきた。


というわけで、グリーンバーグはイリュージョンがない平面が絵画だと言っているわけではない。グリーンバーグがステラやジャッドのミニマリズムを評価しなかったのは彼らの作品がイリュージョンのない「任意の物体」だったからだ。クラウスが、フォーマリストのグリーバーグがステラなどを評価しないのは可笑しいと批判したのは的はずれである。

というわけで、われわれは、モダニズム絵画の純粋還元を理解するためには、「意味論的情報と統辞論的情報」や「外部参照と自己参照」、あるいは「具象画と抽象画」などの対立軸だけではなく、「知覚(物体)と想像(イリュージョン)」の対立軸を考慮に入れておかなければならない。

つづく


注1:『世界制作の方法』ネルソン・グットマン
2010.10.10[Sun] Post 01:40  CO:0  TB:0  絵画論を超えて  Top▲

『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(2)(『絵画の現象学』)

第一部第一章「現代美術と自己参照」

第一節「作品の二つの意味」

ここで、尾崎は戦後美術を「自己参照」というキー・ワードで考えてみようとする。自己参照はセルフ・リファレンス(self-reference)自己言及のことであり、現代芸術の美学で使われる言葉で、『美術手帖』の評論でも目にすることがある。言語学や数学では明確な定義があるけれど、絵画の自己言及性については、絵を見ずに絵を論じる美術評論家が付け焼刃で書くから、混乱するばかりだ。

さしあたって、以下のように理解しておけばいいだろう。絵画はリンゴや人物や風景に言及している。それに対して自己参照をしている絵画というのは、同語反復だが、自分自身を主題にしている絵画ということだ。リンゴの絵ではなく、「絵の絵」と言えるかもしれない。しかし、これだけでは、自己参照の絵とはいえない。古典大家の「画中画」は、自分自身ではなく、他の絵を描いているのだから、自己言及とは言えない。それにくらべ、セザンヌやマチスの「アトリエ」を描いた絵は、「絵についての絵」という自己言及性があるように思える。それは、たぶん、平面性という絵画の「本質」に言及しているからではないか。(これは、いい加減推測なので無視してください)

ともかく、そういうわけで、尾崎はまず作品の意味を意味論的情報と統辞論的情報の二つに分ける。意味論と統辞論という言語学の二つの領域を記号学として一般化し、図像記号に適用しようというのだ。言語も図像も意味を表わすのはおなじだけれど、図像は類似による、いわばアナログ記号であり、言語は弁別的差異によるデジタル記号なのだ。図像には言語の文法のようなものがあるのか疑問である。

尾崎は、「統辞論的情報」によって絵画の何を意味するのだろうか。彼は,言う。「たとえば、肖像画が描かれた人物の情報と共にカンヴァスの上に絵具がいかに配置されているか、あるいはサイズやマティエールについての情報をも内包している」、これが統辞論的情報だというのだ。

この説明だけでは、統辞論的情報というのは、内容にたいする形式とも考えられるし、また、現象学からみれば、主題ではなく、色や線ということになる。尾崎はこれを統辞論的情報だというのだ。

今世紀を通じて作品は何かの事物なり概念の表象から、作品それ自体の構造についての言及へとその意味機能をゆるやかに変容させたのである。この事態をここでは作品の自己参照と呼ぶこととしよう。


分かりにくい文章だ。「作品それ自体の構造についての言及」が「自己言及」だというのはどういう意味だろうか。そもそも、構造とか自己言及という言葉がわかりにくい。

文字と絵はとても似た記号だ。文字も絵も知覚して、そこに意味を見る。「リンゴ」という文字を見て、その言葉の意味がリンゴであることを理解する。同じようにリンゴの絵を見て、そこに描かれている図像の意味がリンゴであることを理解する。共に知覚に基づく意味志向だ。この意味志向がレファランス(言及)といわれる。

意味志向が自己自身に向かうということは、シニフィエではなくシニフィアンに向かうということであり、このあたりの理屈が必ずしも明確ではない。記号というのは、ある知覚されているものが知覚されてはいない意味やイメージの代わりをする(stand for)ものなのだから、知覚されている記号そのものに言及するということは、それが何ものの代わりもしていない、すなわち記号ではないと言うことになる。記号でなければ、レファレンス(言及)とは言えないわけだし、いわんや自己言及がいったい何を意味するかわからなくなる。

文における自己言及というのは、たとえば『「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った。』というような嘘付きのパラドックスが生じるような文や、ある小説の主人公が書いている小説がその小説そのものだというような場合が自己言及といわれる。これは明らかに意味論的な構造の話であって、統辞論的な構造の問題ではない。

さて、何度も指摘している通り、意味論と統辞論はもともと言語学の二つの領域なのだが、言語学を記号学として一般化し、それを図像(絵画)記号に適用したのであり、同じ記号でも、弁別的差異のシステムを利用した恣意的な言語についての記号学を、類似による図像記号にそのまま適用することはできない。(注1)

ひとまず、自己参照というのは、記号が意味するもの、あるいは代わりをするものではなく、記号そのもの、知覚しているインクのシミである文字やキャンバス上の線や色彩すなわち物理的絵画に言及することになる。

余計に混乱させてしまったけれども、ともかく絵画にいったい統辞論的な構造があるのかどうか検討してみなければならない。

つづく


注1:言語の統辞論的構造は意味に導かれて発見される。













2010.10.01[Fri] Post 00:57  CO:0  TB:0  絵画論を超えて  Top▲

『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(1)(『絵画の現象学』)


尾崎信一郎の『絵画論を超えて』の帯には「モダニズム/フォーマリズムの方法論的な超克とは何か」とあるのだから、たぶん、『批評空間』の増刊号の特集『モダニズムのハードコア』と同じように、グリーンバーグのフォーマリズムを批判的に検討し、モダニズムのあたらしい批評的展開を目指そうというのだろう。

私の批評理論は絵を見て感じたことを言葉にするということに尽きる。絵に対して、自然で素朴な、日常的な絵画鑑賞の態度をとり、そこに現れた絵画の現れ方を記述する。

通常、絵を見るということは、描かれた主題を見ることだ。リンゴとか風景とか人物を見る。大方の美術愛好家はそうだろう。ところが何が描かれているかではなく、いかに描かれているか、あるいはそれを超えて、色彩や線や構図を鑑賞するハイ・アマチュアがいる。

これはフォーマリズムであり、フォーマリズムの美術批評上の祖はドラクロアを色彩家と称揚したボードレールである。形式(フォーム)というのはあくまでも主題という内容に対する形式である。

ところが、抽象画にはもともと主題がない。主題がないけれど、色彩や線や構成はある。具象画では形式だったものが抽象画では内容になるということだ。もともと、形式と内容は、プラトンのイデアやアリストテレスの形相と質料の議論でもわかるように、相対的なもので、グリーンバーグのフォーマリズムは、絵画の本質は平面性だというモダニズムと絡まって、議論が混乱しているように思える。たぶん、岡崎乾二郎や上田高弘の議論は、私だけではなく、大方の美術愛好家にも難しいに違いない。

私は、絵をまず、具象画と抽象画に分ける。なぜかといえば、絵(picture)とは具象画だと相変わらず思っていることもあるが、それよりも描かれた形体が具象の場合と抽象の場合では見え方がちがうからだ。たとえば、ある曲線が女の尻をあらわしているのと、ただの一本の曲線であるのとでは、当然、現出の仕方が異なる。

具象と抽象の区別は、イリュージョンの視点から三つに分けられる。ピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョン、そして、イリュージョンのないリテラルな絵画平面である。津上みゆき()にはこの三つがある。風景のイメージと浅い奥行きを伴った色面の重なり、そしてステイニングの技法で「染められた」支持体の三つが巧みに描かれている。

既にわれわれは、『絵画の現象学』で、具象絵画の三つの層を分けておいた。物理的な絵画、絵画客観、絵画主題のみ三つである。

以上の区分はもちろん明確なものではない。ただ、絵を見るときの補助手段として、ときどきそれらの区分に注意を向けながら絵を鑑賞するというだけの話だ。

そんなふうに絵を見ていると、たとえば、ロスコの抽象画が具象画に見えてくる。たしかにロスコの絵には主題がないけれど、そのうち抽象的な空間のイリュージョンを超えて、具体的な天地創造の広がりが現れるてくる。そういう意味で、ロスコの空間はピクトリアル・イリュージョンと言える。

さて、尾崎信一郎の『絵画論を超えて』にもどろう。第一部第一章のタイトルは「現代美術と自己参照」である。かれは、作品にには二つの意味があるという。一つは意味論的情報、もう一つは統辞論的情報である。

つづく

2010.09.24[Fri] Post 01:10  CO:0  TB:0  絵画論を超えて  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。