島田章三の《課題制作》とマチスの《ニースの大きな室内》:遠近法と三角形
図形と図像の違いについては、これまでにも触れてきた。三角図形や「ハの字」が狭い方に向かって遠ざかる奥行きの感覚と、線路や道路や並木道が遠ざかる遠近感は異なる。前者は図形で、後者は図像だ。もちろん図形を図像に無理矢理見ることは出来るし、どちらにも見える絵を書くこともできる。しかし、それはたいていは不安定なものだ。
さて、次の独立法人国立美術館の検索ページで島田章三の《課題制作》を見て「三角形」や「ハの字」を探してほしい。 所蔵作品総合目録検索システム 島田章三:課題制作(1980年) 三角形はホワイトボードのハの字を含めて全部で6つある。このなかでハッキリと遠近法的奥行きがあるのは、白板のハの字だけで、三角定規をふくめてあとは、平面的な図形になっている。鋭角の方向はバラバラであり、三角形や矩形はキュビスムの絵画言語なのだが、多視点を総合するようなつながりはなく、床や壁に散らばっている。中でも床に描かれた(と思う)赤と黒の1/4の円とホワイトボードの台座の矩形と丸まった紙と三角定規の面がちぐはぐである。ちぐはぐなのは構わないが、肌が灰色の人物の背景としてどんな効果を上げているのかわからない。 マチスの《ニースの大きな室内》にもハの字と三角形がある。フレンチウィンドウの下の羽目板が透視図法のハの字になって、室内空間を女性がいるヴェランダにつなげている。もう一つの大きな三角形は開けたモスリンのカーテンだ。フックに留めたタッセルから天窓まで、カーテンの黒いフチが三角形になっている。この三角形は図形ではなく図像である。具象的事物のカーテンが作っている三角形だからだ。その三角形は床から天井に、窓枠に沿って、上に垂直に伸びている。三角形図形のように、頂点に向かって、遠くに消えていく奥行きのイリュージョンを見ようとしてもなかなか見えない。なぜならそれは天井から吊るされたカーテンだからだ。 もちろんデッサンのちぐはぐはある。しかし、それは、《課題制作》と異なり、豊かな空間を生み出している。カーテンと「開けられたフランス窓、ブラインド、明かり取りの窓、そして壁」の間に空間の「イリュージョンがある。特筆に値することだが、明かり取り窓の花弁がカーテンを透き通して見え、同時に陽の光が当たり、カーテンに花弁の影を作っている。 これ以上付け加えることはない。マチスの《ニースの大きな室内》と島田章三の《課題制作》を見てもらえばいい。 『写真はインデックス記号か?』(再掲)
ホームページ『絵画の現象学』の評論『写真はインデックス記号か?』を転載しておく。これはまだ、図像客体と図像主題の類似と図像主題と被写体の類似の違いをハッキリとは理解していない。注意して読んでください。
もう一度、確認しておくと、図像記号というのは、知覚している図像客体がそこに現出した図像主題を指示することだ。そこに現れた図像主題が誰を指示するかは別の問題だ。写真はダイレクトに図像客体が図像主題を貫徹して実在の人物に的中しているという確信がともなう。 藤枝晃雄と高橋洋一楠見清の『誤読』
昨日から突然アクセスが増えた。こんなに増えたのは「和田事件」以来である。参照元を見ると首都大学の学生が『ドブス写真集完成までの道程』というビデオ作品をYoutubeにアップしたことで2ちゃんねるが炎上したらしい。その学生たちを煽ったのが准教授の楠見清だと批判されている。
それで、たまたま私が書いた古い楠見清批判の記事がGoogle検索の上位にあったのでアクセスが増えた。こんな騒ぎに興味はないけれど、楠見氏のTwitterの自己紹介に「学生映像作品を批評したツイートが一部誤読を招いてしまったことを受け、暫時ツイートを控えます。」と書いてあるのには笑ってしまった。誤読だとか誤記だとか誤配だとか、相変わらずのポストモダンのトンデモらしい。ご活躍をお祈りいたします。 そういえば、和田義彦さんはどうしているだろう。そのうちググッてみます。 自然のイメージと抽象画 ー帰する場所なき再現性ー
自然のイメージをもとにしたという抽象画が数多くある。ブログで取り上げた山川勝彦や津上みゆきもそうだ。山川は写真のピンぼけの技法を使って、何か判然としないけれど、ともかく事物らしきものが描かれている。それに対して津上の作品はまったくのカラー・フィールド・ペインティングで、自然の対象は描かれていないように見える。
ところが津上は展示場(『ARTIST FILE 2009』国立新美術館)に開いたスケッチブックを展示している。そのスケッチをもとに記憶を反復したり、イメージを膨らませ、それをもとに制作をするという。そうなれば、観者のほうも、しかたなく、絵の中に風景をみることになる。明るい青は空だろうし、濃青は湖や川だ。そして緑は草木、赤やピンクは花で黄色は大地を再現しているように見えてくる。 自然を描いて、輪郭のぼやけた絵なら、ターナーにもあるけれど、ターナーの絵はあくまでもリアリズムであり、霧にかすんでいるけれど、物の形も空間のイリュージョンもある。それに比べ、津上の色面は、輪郭が比較的はっきりしているにもかかわらず、平面的抽象的である。もちろん筆触や絵具の層もキャンバス表面に露呈している。 津上の「風景」は、グリーンバーグの「帰する場所なき再現性」ではないか。グリーンバーグの『抽象表現主義以降』から引用する。 津上の「風景」は彫塑的でも描写的でもないけれど、形や色彩が象徴的に風景を暗示する。風景には雲や山や丘、海や湖や川、樹林や草原や花畑などの不定形なものに溢れている。しかし、風景には遠近があり、上下があり、高低がある。それを津上は記憶のなかで発酵熟成させ、構成を解体する。自然は彫塑的ではなく平面的になり、描写的ではなく象徴的になる。 問題は津上の抽象的風景画はマンネリズムに陥っているのかどうかである。ブリジストン美術館で見たザオ・ウーキーの抽象画は ブログにも書いたように「何度も絵の具を塗り重 ねたのだろう、透明で微妙に変化する青い画面は美しいものだったが、次第に作品は大きくなり、そのうち、水のイメージがあらわれ、しまいにうねるような波 らしきものが描かれるようになったのにはがっかりした。」けれど、津上の風景画は今のところマンネリ化を免れているようだが、そのぶんイリュージョンを失い、模様化してしまう危険があるだろう。 抽象画が再現性と戯れるとき、観者の視線は、壁のシミが人の顔に見えるときのように、だまし絵隠し絵に似た非芸術的なものになりやすい。風景がもともと持っている抽象性不定形性ゆえに、女と戯れるよりも、ずーと堕落しやすいのだ。 注1:『グリーンバーグ批評選集』p147 |
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Author: 安積 桂 カテゴリー
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