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白髪一雄氏死去

日本の抽象画

白髪一雄が83歳で逝去した。白髪の作品はいろいろな場所で見た。なぜ、こんな絵の具の固まりをこすりつけたような絵を珍重するのかわからなかった。たまたま埼玉県立美術館の常設展示で学芸員が、白髪はロープにぶら下がって足で絵を描いたと解説しているのを聞いた、なんだ、手じゃなくて足で書いたから芸術なのか、それじゃ、象が手じゃなくて鼻で描いた絵も芸術だとあきれかえった憶えがある。

白髪の絵ばかりではなく、日本人の描いた抽象画のおおくはつまらない。なぜ、つまらないのか分からなかったが、先日、川村美術館でニューマンの《アンナの光》を見て、突然理解した。日本人の抽象画がつまらないのは、要するにイリュージョンがないからだ。もっと正確に言えば、反イリュージョンがないからだ。

絵画のイリュージョンは、錯視 (optical illusion)ではない。知覚に基礎づけられた想像なのだ。あるものを知覚するということは、その知覚しているものと同じ空間に観者が属しているということで、これは対象がリンゴでも絵画でも人間でもおなじことだ。ところが絵画は知覚されるだけではなく、知覚されたものを通して(中和変容して)イリュージョン(image,Bildsujet)が現出する。

《アンナの光》が知覚されるだけの事物(キャンバス、絵の具)で、イリュージョンがなければ、それは赤く塗られたただの壁である。赤い壁はわたしをさえぎり、わたしの身体を取り囲む。知覚された平面は平たい立体なのだ。ところが、この赤い物理的平面(壁)が赤い空間のイリュージョンを生めば、その空間は想像された空間であり、われわれの身体が属する空間から切断される。さらに、赤い平面は事物として知覚されるのではなく、焦点の定まらないぼんやりとした赤い広がりにみえることがある。これは知覚のひろがりでもイリュージョンのひろがりでもなく、錯視に似た空間であり、われわれの身体とは両義的な関係にある広がりなのだ。(この擬似的な錯視をロスコは部屋を暗くし、明暗差や色相差を少なくすることで実現している)

《アンナの光》は、この三つの空間が絵画の三層構造のなかで戯れており、絵画の空間とインスタレーションの空間が対立し宥和して独自の空間意識を生んでいる。

ところが、白髪の抽象画にはこのような反抽象性が欠けている。白髪の抽象画はロスコやニューマンよりもポロックに近い。ポロックの抽象画も同じように反抽象性が欠けている。イリュージョンへの誘惑も拒絶もなく、ただの模様図形パターンになっているのではないか。そのことはともかく、白髪は抽象画のイリュージョンの問題を理解せず、ただ、画家の主体性を消去するとか、描くのではなく絵の具をこすりつけるとか、キャンバスを床に置くとか、ロープにぶら下がってアクションをするとか、ポロックから派生したと思われる手法で制作したのだ。それでつまらない抽象画ができたのではないか。

他の日本人の抽象画はたいてい海外作家の手法や理論のバリエーションを考え出したり、あるいはもっと直接的にいえば、表面的な図形やパターンや色彩の模倣をしたり、さらに日本的な味付けをしたりして制作するのではないか。だから、かれらの抽象画には表現主義的な象徴性があっても、反抽象的なイリュージョンがないので見ていて退屈なのだ。

白髪以外でも、これまでブログで取り上げた李禹煥、吉原治郎、大竹伸朗など、中村一美を除いてみんな面白くなかったのはたぶんそんな理由ではないか。会田誠の《浅田批判》は岡崎乾二郎のパロディなのだが、その岡崎の作品を『わたしいまめまいしたわ』展(東京国立近代美術館)で見たけれど、案の定つまらん絵なのはいいとして、たぶん本人が書いたのだろうページの下に、世界の最先端をいくらしい絵画の理論・手法が書かれている。それを引用する。


「ディプティック(二幅対)の絵画作品。右と左のキャンパス間には、複雑かつ厳密な呼応関係が見出される。たとえば色彩やマティエールの異なる同一形態の反復。あるいは一方のキャンバスに「図」として現れた筆触が、もう一方では、おなじかたちの「地」としてあらわれるなど。左右のキャンバス間の呼応関係を追い求めるように視線の往還を繰り返すうち、観者は、個々の筆触が置かれた位置、物理的な枠組みとしてのキャンバスといった「場所の固有性」を、識別することが困難になるようなめまいに見舞われる。」

いったいわたしにどうしろというのだ。いわれたとおりにしてめまいを感じてみろというのか。そんなことしなくても、この文章を読んだだけでめまいがしてきたぞ。どうしてくれるんだ。

これだけではない。それぞれの絵には詩みたいなキャプションがついているし、ページの上のほうには、自分が書いた『ルネサンス 経験の条件』のあとがきからの引用を掲げているのだが、ヴィトゲンシュタインのクオリアに関する言葉を引用して、逆説(?)と同語反復と偽の問題をまぶしたような文章で、わたしにはいっこうに意味が分からない。岡崎氏は美術評論家としても活躍しているらしいが、作家が自分の作品を批評する特権を持っているとは思えない。

会田氏がパロディで岡崎氏を批判しなければならなかった理由がよく分かる。

会田誠の《浅田批判》へ
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2008.04.11[Fri] Post 13:50  CO:4  TB:0  -白髪一雄  Top▲

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