ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

村上隆監督の映画『めめめのくらげ』の〈跳んだり撥ねたり走ったり、そして着地〉

画家が監督した映画は大抵は失敗する。これまで私が見た映画で評価できるのはジュリアン・シュナーベルの『潜水服は蝶の夢を見る』ぐらいだろう。池田満寿夫や村上龍などの監督作品も気取りばかり目について(今にして思えば「キャンプ」だったのかもしれない)優れた作品とは言えない。

画家が映画に失敗する理由はいろいろあるだろうが、なかでも、絵画の空間と映画の空間の違いを理解していないことが大きい。絵画は「知覚に基づいた想像」の空間であり、映画(動画)は想像ではなく、錯視あるいは擬似知覚の空間なのだ。この違いを理解するには、絵画はいつもキャンバスの矩形のフレームが知覚されてそこにあるけれど、映画は上映されている時はスクリーンのフレイムに気づかないが、映写機が停止して静止画になると途端に矩形のスクリーンが現れる。

絵画の物理的表面は平面なので両眼視差が生じない。映画も同じようにスクリーンは平面なのだが、カメラや被写体が動いているので、両眼視差のかわりに時間視差(動体視差+カメラの移動による視差)が働く(立体視にはその他いろいろな視覚情報が協働しているけれど)。3D映画は人工的に両眼視差を作って無理矢理余計な三次元空間を押し付けるので観客は吐気を催す。

漫画やアニメの楽しみ方はすでに述べた()。漫画アニメは「跳んだり撥ねたり走ったり、そして着地が楽しいのだ」 これは、私の個人的な楽しみ方なのだが、日本の漫画本来の楽しみ方でもある。そういう意味では宮﨑駿のアニメが面白くないと言ったビートたけしの意見には賛成だ。一番、面白いのは、コマ割りの優れた日本の漫画(ワタリ、ドラゴンボール)、つぎは最近の特撮やCGにアシストされた映画(ジャッキー・チェン、スパイダーマン)、ダメなのが宮崎駿のアニメということになる。

村上隆の『めめめのくらげ』はアニメと実写のハイブリッドだ。アニメは跳んだり撥ねたり着地する。実写は走ったり歩いたりする。「跳んだり撥ねたり走ったり」を見れば『めめめのくらげ』がどの程度評価すべき映画か、およそのところ分かるだろう。

まずアニメだが、「ふれんど」の「跳んだり撥ねたり」はよくない。観客はキャラクターの動きと一体になれないのだ。確認のために『HERO』を見たが、同じようにCGの欠点がまる見えだ。ただ、くらげ坊の着地だけはピタリと決まっていて気持ちが良い。あと、最後の決戦のふれんどの動きはイワシの群れのようでちょっと白ける。

実写の方は、正志がくらげ坊をダンボール箱に入れて神社まで運ぶシーンは、映画における「歩く」ことの意味が分かっていない。カメラも正志の歩き方も全然何をするのかわからなくて、観客の感情移入が起きない。誰も居ないところに行って、二人が知り合って、心が通じ合うためとわかるのはだいぶ経ってからだ。映画のモンタージュや心理描写の基本が分かっていないような気がする。このシーンは一番の見せ所なんだけれど。そういえば正志と咲の間に恋心が芽生える流れも新興宗教やいじめが出てきて、シナリオとしては定形なのだろうが、どうもチグハグの感は免れない。

咲がスク水でプールに飛び込むところは、ぎこちないが、それがかえって初々しく成功している。胸も小さくて会田誠が喜びそうだ。登校途中の田圃道を上半身だけ見せて、右から左へ歩いて行くカットは気に入っているらしく数回出てくるけれど、退屈だ。それと、咲が橋の上を走り、正志が追いかけるシーンは、映画のクライマックスとも言えるのだが、どうもカメラと咲正志の二人の演技が、それともちろん編集も下手なため盛り上がりに欠ける。咲の走り方は悪くはないのだが、ちょっと大袈裟すぎるかもしれない。それからラストシーンで、るくそーに抱かれた正志と咲が顔を近づけたので、てっきり、キスをするぞ、さすが世界の村上やるじゃんと思ったら、途中でやめてしまった。メイキングを見たら村上はかなり細かく演技指導している。なんだろう、あのキスをためらう演技指導は。

村上はアニメを作ることが長年の夢だったという。だから、やりたいことはたくさんあったのだろう。それが分からないではないから、けっこう見ていて、楽しめた。二度借りたのだが、一度目は、最初の神社へ行くところで見るのを止めてしまった。ところが、小松崎拓男田中功起との論争などを知って、それなら、『めめめのくらげ』を最後まで見てみようと思ったのだ。

ニョウボの感想は、『芸術起業論』を読んだ頃は村上は嫌な奴だと思っていた。ヴェルサイユ宮殿の個展以来村上を見なおしていたけれど、この映画を見て、村上のぎこちなさは好感がもてるし、きっと評判とは違って「いい人」に違いないと思うようになったそうだ。村上は美術では職人たちの助けを借りているのだから、映画はなおさら協働が重要だ。映画は監督を含めてかっては職人集団の仕事だった。なかでもシナリオは「原案村上隆」とあるのだから、協力者がいたのだろうが、どうも絵画彫刻のようには協働が上手く行っていないようだ。

書き終わった後、「マイナビニュース」に村上隆のインタビュー記事《「日本はアートに対して無知」 - 映画『めめめのくらげ』》を見つけた。それを読むと、村上氏は随分といろいろなひとに相談したり協力を仰いでいる。『めめめのくらげ』には強い思い入れもあるようだが、私の批評は私の子供のときからの「漫画の見方」によるもので、決して「アートとしてのアニメ」の批評ではない。それにも拘わらず、私の「漫画の見方」は現在でも有効だと思っている。

わたしは『スパイダーマン』が好きだ。スパイダーマンがビルの窓にピタリと「着地」すると、ターザンがジャングルの蔓を伝わって、象の背中に着地するのを思い出す。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

スポンサーサイト
2014.10.29[Wed] Post 01:00  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

村上隆と橋下徹

村上隆が橋下徹にTweet。

t_ishin村上さん、心強いです!!!橋下 RT @takashipom: 橋下徹氏の校長の徹底擁護。わかる。


これは戦略的にどうなんだろう。カタールのニコ論壇SP 村上隆個展「Murakami - Ego」での東浩紀とのエール交換よりもましだけれども、業界の人たちは橋下徹の文化行政をこぞって批判しているのではないか。もっとも、村上隆は美大や美術館や電通のクールジャパンを批判しているのだから、橋下徹とは通じるところがあるのだろう。それにしても、坂本龍一のような似非アーティストアンガジェした文化人がいるなかで、敢えて橋下徹にエールをおくった村上隆に拍手!


(18日20時)誤解があるといけないので、一部修正しました。
2012.03.17[Sat] Post 16:08  CO:0  TB:1  -村上隆  Top▲

村上隆個展『Murakami - Ego』(ニコ論壇SP)

もちろん、カタールまでいったわけではない。【ニコ論壇SP「闘争せよ!カタ​ールから『日本・文化・未来』​を考える」村上隆×東浩紀×岩​渕貞哉】を見た。

いつだったか村上さんがナルミヤのキャラクター「マウスくん」を「DOB君」の盗用だとを訴えた事件で、東さんはDOB君はミッキーマウスの「パクリ」じゃないかと批判していた。村上氏はDOBくんは何度も修正しながら創り上げたオリジナル作品だと、おたく達の批判に反論していたように記憶している。それはともかく、二人はそのことには触れずに、お互いエールを交換して座談が始まった。ちょっと、白けるけれど、それはいいとして、東さんは「3・11」を踏まえて、ベルサイユ宮殿の時に展示したDOB君や花を捨てた今回の『五百羅漢』はメッセージ性があって、村上隆の新境地だと賞賛する。他方、村上隆は「おたくは終わった」とか「クールジャパンは電通が企画した公的資金の受け皿だ。外国では誰も知らない」と批判する。

二人の会話は噛み合っていないような気がするけれど、ともかくビデオ映像で見た《五百羅漢》の感想を言えば、ヴェルサイユ宮殿の展覧会は、バロック・ロココのキッチュな装飾性にスーパーフラットが奇妙な調和を見せて成功していたのに比べて、新境地と言われる《五百羅漢》は、デフォルメと誇張と曲がりくねった線など、ちょと弛緩したマニエリスムの感じをうける。日本人には支那風に見えるけれど、欧米人がどう受け取るかは判らない。漫画なんか少数のマニアしか知らないと村上氏がいうのがほんとうなら、これもジャポニスムとして受け入れられるのかもしれない。「クールジャパン」なんて言ってうろちょろされると商売の邪魔なのだろう、そういえば、「わたしはクールジャパンのチアリーダー」と言っていた美術評論家がいましたね。

《五百羅漢》で思い出すのは、岡本太郎の《明日の神話》だが、これは、外国のホテルの壁画として製作されたけれど、望みを果たせず、日本に持ち帰って、壮大なイベントをした。それに比べ、村上の《五百羅漢》は日本で製作され、外国で展示される。村上によれば、日本で公開される予定は無いという。ちなみ、東浩紀のTwitterによると、カタール日本大使はなんの協力もしてくれなかったそうだ。こんなことを聞くと、村上隆の成功を祈らずにはいられない。





2012.02.09[Thu] Post 23:45  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

『芸術闘争論』 村上隆著

最初の村上の芸術論『芸術起業論』は読んでいる。その後のニコニコ動画の連続講義『芸術実践論』も幾つか見た。そして、今度の『芸術闘争論』は図書館で借りてパラパラと読んだ。

村上は自分の目指すものは「現代美術」や「アート」ではなく、世界に通用する「西洋式ART」だと言う。日本は「悪い場所」だからと言って、何もしない人間の怠惰と自己欺瞞こそがいちばん「悪い」。あるいは、現代美術のゼロ地点はデュシャンの《泉》だとも。カタカナの「アート」も「悪い場所」も「ゼロ地点」も椹木野衣の用語だろう。それなら、村上のことは椹木に聞くのが手っ取り早い。さいわい、YOMIURI ONLINE(2/7)に椹木野衣が『芸術闘争論』の書評を書いている。

椹木によれば、村上は世界のアート・シーンのトップ・プレイヤーとして体験してきた時代の変化や新しい構造、その渦中でアーティストとして生き延びていく秘訣を、惜しげもなく披露している。それは自慢話でも、マーケッティング戦略でもなく、村上の「野望」は、欧米によって主導され、価値判断そのものを支えてきたルールを改変し、主導権を握ることにある。

村上は、『芸術起業論』で世界のアート・シーンに受け入れられるためには、西洋美術のコンテクストに位置づけられなければならないと言っていた。ところが、この『芸術闘争論』では、自分たちで世界のアートのルールを変えようと主張している。そのためには自分一人ではかなわない。このままでは、欧米ではアニメ漫画のジャポニスム、国内ではオタクのパクリで終わってしまう。

村上隆は『芸術闘争論』はスーパーフラットという言葉を使わない。それは、所詮、ジャポニズムだ。まず、オタクやアニメの内向的私小説的な貧乏根性をやめることだ。予備校美大公募展日本画のシステムを解体し、世界の現代美術のルールを学ぶことで、西欧のハイアートの世界に打って出る。そうすることで世界の現代美術のルールを変えようというのだ。

そのためには、ギャラリーがアーティストと客の間を仲介する日本の現代美術の制度を解体しなければならない。「客⇔ギャラリー(画廊)⇔アーティスト」ではなく、ギャラリーとアーティストの間にエージェントを入れる。エージェントは権利管理だけではなく、新しいマーケットの創造もする。その「ギャラリーとエージェントとアーティスト」をまとめた会社が《カイカイキキ》である。

椹木野衣の言に反して、『芸術戦闘論』は村上のマーケティング戦略を書いた本であり、そのことは『芸術起業論』から一貫している。椹木は書評の結末で、「芸術の真価を問うのは未来の人の手に託されている」と、村上の「夢」に触れている。しかし、そんな要領の得ない話ではなく、村上隆がマーケティング戦略に従って企画制作した村上隆の新作《黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』TONY+カイカイキキ工房》について、椹木野衣が東京新聞(7/2)に『裸体画論争を現代化』を書いている。

以下は、椹木野衣の『裸体画論争を現代化』についてブログに書いて、結末をどうしていいのか分からなくなって、下書きのまま放っておいたものを引用する。

ロンドンのガゴシアン・ギャラリーの個展に出品予定の村上隆の新作《黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』TONY+カイカイキキ工房》が日本のカイカイキキギャラリーで展示された。

この作品について椹木野衣が『裸体画論争を現代化』という美術評論を東京新聞で書いている。「裸体画論争」とは、黒田清輝がフランスから帰って裸体画《朝妝》を発表したとき起きた「芸術か猥褻か」という論争のことだ。

黒田清輝といえば、図工の教科書に図版が載っていた《湖畔》を思い出すだろう。中学生の私にも、湯上りの浴衣姿の女が色っぽいということぐらいの知識はあった。しかし、《湖畔》は色っぽいというより、ひどく「いやらしい」絵に見えた。そのときは、性のことばかり考えているからだと思ったけれど、今、見ても猥褻な感じがする。日本画の浴衣姿の女とはちがって、糊が付いていない浴衣の胸がはだけているところが猥褻に感じるのだろう。

黒田清輝にとって、西洋の女性を油彩で描くということは、日本女性とはことなる肉感的な女性を描くことであった。黒田はアカデミズムと印象派の折衷的な絵を描いていたラファエル・コランから印象派を学び、帰国後も印象派風のヌードを描いていた。しかし、この《智・感・情》では、コランのアカデミズムの影響を受け、理念的なものを表現しようとしているのだろう。

《智・感・情》は、黒田が初めて日本人をモデルにした裸体画だ。この作品は《湖畔》と共に、1900年のパリ万博に出品されたが、海外での評判は《智・感・情》のほうが高かったという。《湖畔》は団扇やキモノなどジャポニスムの小道具が描かれてはいるが、フランス人にとってはごく平凡な外光派の作品に見えたろう。

《智・感・情》の方は、当時のフランスのオリエンタリズムの文脈の中で受容されたのではないか。全くのヌードであり、背景もなく、日本人であることは容貌と体つきから推察できるだけだ。両側の女性は、黒い髪を垂らしたり、手を顔の近くに持ってきて、多少は、淫靡の印象が無くはないけれど、真ん中の《感》は、理想化され、エロティックな雰囲気はなく、西洋の女神と日本の仏像を折衷したような象徴性をもっている。

右の《智》は、左手が印を結んでいるように見え、左手を額にあてて、何か思案をしている仕草だ。右の《情》は、少しうつむき加減で、ほどいた長い髪が顔に掛からないように右手でおさえ、顔をしかめ、左手は股間に持ってきている。これらの仕草や表情は日本人には「猥雑な」印象を与えるのだが、西洋人にはどう受けとられたのだろうか。

《智・感・情》はパリ万博で銀賞をもらっているのだから、世界の文化シーンのパリで一級の芸術品であることを認められたと、椹木は言うのだが、たぶん、それは、モダニズムに影響を与えたジャポニスムではなく、エキゾチシズムとして受けとられたのではないか。

それなら《智・感・情》は芸術か猥褻か。




椹木は 『裸体画論争の現代化』というタイトルで、「芸術か猥褻か」の問題設定をしたけれど、『芸術闘争論』の村上の立場から見れば、《黒田清輝へのオマージュ》は、明らかに、「ジャポニスムか西洋式ARTか」の問題設定なのだ。「芸術か猥褻か」の問題設定は、黒田清輝の場合だって間違った問題設定であり、《智・感・情》はフランスに持っていけば、ひとまずはアカデミズムのヌードの基準は満たしていると受けとられたろう。それにもかかわらず、モデルは黒髪の日本人であり、感情の表現も合わさって、ジャポニスムとして受け入れられたと想像される。

同じことは《黒田清輝へのオマージュ》にも言える。オタクの味付けをされているだけに、なおいっそうジャポニスムなのであり、もしそれが「西洋式ART」として受けとられるとしたら、それは多文化ポップの日本部門としてであり、それは結局のところジャポニスムに帰着する。

話は変わるけれど、黒田の《智・感・情》と村上の《黒田清輝へのオマージュ》を改めて比べてみると、何かと悪口の言われる黒田だけれど、百年前に既にオタク風のヌードのイラストを描いていたことは、やっぱり驚嘆すべきことではないか。

誤字脱字は明日なおします。おやすみなさい。





2011.09.30[Fri] Post 02:07  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

Art Inflation: Macy's Murakami (NYTimes11/24)

村上隆の《Kaikai and Kiki》がメーシー百貨店の感謝祭記念パレードの気球になった記事がNYTimesに出ている。

タイトルの「Art Inflation」は、アート価格の高騰のことだが、「Inflation Art」という言葉に掛けている。インフレーション・アートというのはアメリカのマンガやアニメで体が膨らんで風船みたいに浮いたりして面白がるぎゃぐである。

アート・インフレーションは村上隆の高値に対する皮肉だろう、記者のDave Itzkoffは当然ベルサイユ宮殿の村上隆展のことは知っているはずだが、そのことには一言も触れていない。随分と悪意に満ちた記事である。

以下、記事の要約

Kaikaiは、兎の格好をした子供のキャラクターで、Kikiは、牙をむき出しにした三つ目のイタズラ小僧である。気球の完成式では、村上は神式に二度お辞儀をして、二回かしわでを打った。セレモニーのあと、インタービューに現われた村上は、ぼさぼさの髪を後ろでダンゴに結んで、元気いっぱいだった。

村上は言う。カイカイキキはテレビ番組のプロモーションでもないし、朝食用コーンフレークの広告キャラでもない。二人は村上の芸術の奥義をみんなに伝える遊び心に満ちた親善大使なのだから、メーシーのパレードで目立とうなんて思わない。ただ、当日の朝の天気が心配なだけだ。

“I was thinking about sunshine,” と村上はbroken Englishで言った。以下そのブロークン・イングリッシュ。“Tomorrow the report is a little bit rainy. But I already talk with my feng shui master in Taiwan, and he already take care about that.”(記者は典型的な侮蔑的日本人観の持主である)

そのあと、パレードの責任者が電話インタビューに答える。気球のキャラクターは、子どもが見てすぐに分かるSpongeBob SquarePants and Dora the Explorerのようなフィギュアを選択するのだが、07年のジェフ・クーンズのウサギ、08年のキース・ヘリングのハートなどハイアートも選んでいる。そして、村上隆に今年のパレードの気球を依頼した。(ベルサイユ宮殿の展覧会でも、村上隆の先にジェフ・クーンズの展覧会が開催されている。)

村上は、ルイ・ビトンのバッグとカシオの時計のデザインだけではなく、サイケデリックなアニメキャラの風船彫刻でもよく知られている。

しかし、村上は言う。(自分は単なるデザイナーではなく)《Kaikai&Kiki》はいろんな意味で、自分の作品の背後にある美的哲学を表象しており、彼らは、可愛らしく且つ怖く、現代的であるとともに且つ過去と結びついている。彼らは、エクセントリックな美なのだ。(このあたりは最後のオチに繋がっている)

複雑な形なので、浮かぶために十分なヘリウムが充填できるか心配だったけれど、無事浮いたので良かった。明日の朝、パレードを生で観る子供たちも、テレビで見る数百万の子供たちも、たぶん、村上隆の名前は聞いたことはないだろう。

可愛らしさと邪悪さが混じり合ったカイカイキキはメーシー百貨店のコンセプトにあわないとパレードの責任者は認める。いろいろ話に聞いていたところでは、ちょっとグロテスクな感じがしたけれど、出来上がったのを見ればそう悪くない。

結局のところ、メーシーの基準は子供たちがそれが何だか判るかどうかではなく、子どもが気に入るかどうかだ。

子供連れの親は、「これが何の気球か知らない。カンフーパンダならしってるけど、こっちのはポケモンのキャラクターじゃない。いいにくけれど、男の子たちはこういうピンクのはなんでも本当に嫌いだわ。」と言った。

以上要約終わり

外国語なので、必ずしもニュアンスを理解している自信はないが、記者が皮肉を言っていることはうかがえる。

『美術手帖』のインタービューで、村上は「猿回しの猿に徹する」と言っている。イサム・ノグチがコンスタントな評価を受けなかったのは、日本人としてのキャラクターを放棄したからだ。「僕の場合は猿である立場をいっさい変えず、『はい、回って』と言われたら、くるっと回るだけ」(『美術手帖』11月号p90)と言っている。その言葉どおり、村上は「花のぬいぐるみ」を着てパレードに参加するとおどけているが、村上の魂胆は、Dave Itzkoff記者に見抜かれているようだ。

猿が哲学を論じてはいけない。

この記事の背景に、ニューヨークのパリに対するライバル意識があるのだろう。『美術手帖』の大特集やベルサイユ宮殿のデモ騒ぎを見て、日本人は村上が世界的なアーティストだと思っているかもしれない。村上自身も自分は世界的な美術史の文脈の中で評価されていると自慢しているけれど、自分たちこそアートの本場だと思っているニューヨークの新聞が村上をあまり評価していないことを知っておくのも悪くは無いだろう。

日本人蔑視をべつにすれば、村上芸術に対するDave Itzkoff記者の評価は妥当なところだろう。
2010.11.27[Sat] Post 22:24  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。