ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

『脳科学の真実』坂井克之


「何にでも脳を持ちだすノータリン」ということで、以前に養老猛司茂木健一郎を批判したことがある。あのときはクオリアが脳で説明できるかという哲学的な問題だったが、この本は脳科学者が「脳トレ」や「ゲーム脳」などの脳ブームを批判した著作だ。

「なんとか力」のブームが去って、「なんとかの品格」が流行して、今度は「脳ブーム」だそうだ。茂木健一郎が自分の著書で「脳を鍛える」手法が「みのもんたの脳科学」だと批判しているというところでは笑ってしまった。「アハ体験」が「脳トレ」に負けたということかな。

脳ブームに貢献したのはfMRによる脳画像で、そのリアルな画像が心の働きをリアルにしめしているようにみえたのだ。実際は脳の働きはほとんど分かっていなくて、たとえば知性は前頭葉にあるという「前頭葉神話」というのがあって、そこが活動していれば知性が鍛えられているというような実に雑な理論が展開される。

そんなこんなで、、血液型みたいに類型化して「戦略脳」「算数脳」「努力脳」「元気脳」「恋愛脳」「ひらめき脳」さらに文部省の脳研究プログラムには「総合脳」「先端脳」「統合脳」なんてのもあるそうだ。

ブームは出版ジャーナリズムの売らんかな主義だけではなく、脳研究業界の科学研究費分捕りや業績作りのためもある。脳研究者と経済学者の協力で「神経(脳)経済学」がうまれ、「脳政治学」や「神経哲学」「神経倫理」などもある。

「また人が美しいと感じる心の動きが脳のどのような働きによって生まれるのかという観点から、脳科学と芸術を融合させる領域として『神経美学』という分野も提唱されている。」そうだ。そういえば養老孟司の弟子の布施英利さんは脳とコンピュータをくっつけて『電脳美学』という著作があった。

「なんにでも脳を持ちだすノータリン」を忘れないように。
スポンサーサイト
2009.11.21[Sat] Post 01:04  CO:0  TB:0    Top▲

『危機突破の経済学』ポール・クルーグマン


クルーグマンがインタゲを放棄したかどうかで、池田信夫と田中秀臣で間で名指しをしないで言い合いをしていた。でも、この本を読めばクルーグマンがバリバリのインタゲ論者であることが判る。

ただクルーグマンが日本にインタゲを薦めるのを躊躇するのはその信頼性に問題があるからだ。2~3年でターゲットに達しない可能性があるだけではなく、そもそも日銀にはインタゲを導入するための信頼性が欠如している。インタゲは名目金利ゼロ状態でも実質金利をマイナスにすることでお金を借りやすくすること、あるいはインフレでお金が目減りするから早く使うようにすることだ。そのためには継続的で安定したインフレが続かなければならない。ところが日銀にはその信頼性がない。

インタゲで重要なことは量的緩和でお金をじゃぶじゃぶにすることだけではなく、みんなが確実にインフレになると思うことだ。そのためには日銀がインタゲを宣言することが必要だ。日銀がゼロ金利解除したときの金利はきわめて低いものだったけれど、インタゲは貨幣量ではなく、インフレ期待が重要なので、いくら低くても日銀はこれから金利を上げていくとおもわれれば、それだけで再びお金はうごかなくなるのだ。

それから、クルーグマンは経済危機の初期にあってはケインズ流の公共投資も効果があるといっている。それともうひとつ、規制緩和で銀行や航空業界やトラック運送業界は良くなったけれど、これからはたとえば環境など規制強化が新しい産業の発達をうながすといっていることが注目される。これは新しい投資や技術のイノベーションを促進するような規制ということで、日本のような既得権を保護するような規制のことではもちろんない。

それからまだある。クルーグマンはこれからアメリカで伸びる産業はヘルスケアだと言っている。少し前に日本では介護が伸びるといって大騒ぎしたことがあったことが思い出される。
2009.06.16[Tue] Post 01:50  CO:0  TB:0    Top▲

NHKの天安門事件の報道(2)

前回の記事でNHKが9時のニュースで天安門事件二十周年についてかなり批判的に報道したことを書いた。

ところが、同日(6/4日)、NHKの「クローズアップ現代」が『天安門事件20年 中国・民主化の行方』と題した番組を放送していたことをあとで知った。解説は加藤青延、キャスターは国谷裕子で『天安門事件 空白の3時間に迫る』(クローズアップ現代93年6月3日放送)のときと同じである。

この番組について報じているJ-CASTのニュース「天安門事件『メディアから消滅』 中国の民主化は進むか」によれば、事件当時、共産党青年団機関紙の記者だったジャーナリストの李大同氏は、「当局は天安門事件をすべてのメディアから消滅させ、中国の歴史上なかったことにしようとしている」と言ったという。それに対して、加藤氏の解説は

この点についてスタジオの加藤青延(NHK解説委員)は「改革開放30年の中であの事件が最大の汚点だったことを中国共産党も自覚している。ただ、当時の指導者の判断が正しかったという立場を崩せない。共産党支配の正当性を否定しかねないからだ。しかし、武力制圧の正当性を声高に主張するのも共産党のイメージを悪くするので避けたい。事件を封印したい、人々の記憶から消し去りたいのが本音」と説明する。


天安門事件をすべてのメディアから消滅させるために中国当局に協力したのはあなたたちではないか。恥なしを恥とする。
2009.06.06[Sat] Post 15:30  CO:0  TB:0    Top▲

『科学の落とし穴』池内了(晶文社)


これはトンデモ本である。もちろん図書館で借りてきた。

読んだことはないが、池内了の名前だけは知っていた。新聞雑誌でよく名前をみるからだ。宇宙物理学が専攻だというから、ひょとしてホールトン・アープのことが書いてあるかと思って、読んでみたが、とんでもない。正真正銘のトンデモ本だった。

何しろ最初のトピックスが『技術革新四十分の一の法則』という面白くも可笑しくもない思いつきが書いてある。これはなんとか我慢して通読した。あとはパラパラめくってみた。「市民と科学」とか「公正な科学」とかあるからカルスタとかPCのたぐいなのだろう。

『IPCCの統合報告書の警告』では「自分の生き方を見直すことが重要である」と地球温暖化の「(疑似)科学の落とし穴」に、そのまんま、はまちゃってる。また『監視社会のゆくえ』では、監視カメラを監視するカメラが必要になるような監視社会になっては困るから、その第一歩である住基ネットに反対だと、できの悪いSFのようなことをいっている。

「監視社会」というのは、たぶんフーコーのパノプティコンから出てきた話だろうが、あれは監獄の話であって、しかも、一望のもとに監視することよって、服役者に制限された自由を与え、社会復帰のための訓練もできるようにしようとするものだ。

それに、監視社会というのは、住基ネットで生まれるものではない。われわれはすでに銀行やビデオレンタルや図書館では、電子情報で管理されているのだ。ネット社会よりも社会主義の密告制度のほうがずっと恐ろしい監視社会なのだ。著者はいったいキューバで五人組のような監視システムや検閲があることをしらないのだろうか。

あとがきを見たら、この本が著者の三冊目の「科学時評集」だと書いてあった。ご冗談でしょう、池内さん。
2009.05.09[Sat] Post 14:59  CO:0  TB:0    Top▲

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(2)

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(1)から 

意識の研究家は、一人称の意識と三人称の意識をわけて、一人称の主観的な意識を客観的な物理的現象に還元しようとしたり、三人称の意識に主観的な直接性を求めたりと、問題をいたずらに混乱させている。

コギトの主観性によって、一人称と三人称を分けるのではなく、一人称と二人称の相互主観性から始めなければならない。一人称は二人称より先にあるわけではなく、一人称の主体性と二人称の客体性とは一種の鏡像観関係であり、私が鏡像を見るということは鏡像が私を見ることでもある。鏡にはわたしのコギトも映っている。一人称と二人称はコギトと客体性を互酬する。わたしはわたしの身体を相手の視線にさらすことにより客体となる。客体になることで相手に主体性を分け与える。一人称と二人称は常に交代しながら我々として共にあるのだ。これが相互主観性だ。

根元的なのは相互主観の了解性である。相互主観の「我と汝」から一人称の意識と三人称の意識が発生する。物質から生命が生まれ、生命から意識が生まれた。生命を物理現象に還元しようとするなら、意識を生命現象に還元しようとするのは順当だ。

生命の自然科学的解明はすすんでいる。機械論と目的論の対立も進化論で解消できた。しかし、一人称の意識と三人称の意識を統合する理論的枠組みはできていない。言語学も心理学も精神分析も生理学も大脳理論もどれもこれもうまくいかない。一人称の意識と三人称の意識の領域を確定しなければならない。

相互主観性の世界では、あなたが私と同じように意識を持っていると思っているし、あなたも私があなたと同じ意識をもっていると思っている。これは判断推論の問題ではなく、根元的な信念(Urglaube)である。

相互主観性の了解性ではなく、自然的態度から「哲学者のゾンビ」のような混乱した問いが出てくる。三人称の意識は直接アクセスできないのだから、そんな問いをたてても無意味なのだ。また、ニューロンの発火パターンや量子脳論も物理的生理的現象の理論なのだから、意識の直接性を解明することはできない。

このことはクオリアの問題を考えて見れば分かる。赤色は波長625-740nmの光の色だが、いったい私とあなたは同じ赤の赤さをみているのか。逆スペクトルで、私の赤はあなたの緑ではないか。これは「哲学者のゾンビ」の問いと同じように決して答えられない問いだ。

相互主観性の世界では、あなたはゾンビではないように、あなたの見ている赤と私の見ている赤は同じ赤さなのだ。私が「赤い玉を取って」といえば、あなたの色彩が逆スペクトルでも、ちゃんと赤い玉を取ってくれる。

ニューロンの発火パターンの研究が進んで、色とニューローンの発火パターンの相関が、光の波長の相関と同じようにハッキリしたしよう。そのときある人に赤い色を見せたら、緑の発火パターンが生じたとしても、そのひとが赤を緑に見ているとは主張できない。光の波長と同じことだ。

「哲学者のゾンビ」問題も「人工知能の意識」問題も一人称の意識と三人称の意識の領域を確定しないことから生じた混乱だ。まずはコギトから始めよう。デカルトのようにコギトの明晰性を判断推論の出発点にするのではなく、フッサールの現象学的コギトの了解性から始めよう。そうすれば意識の疑似問題はほとんどなくなるだろう。

PS:クオリアについては記事『茂木健一郎』を参照してください。その記事の「PS」をコピペしておきます。

クオリアの哲学上の問題は、「わたしの見ている赤とあなたが見ている赤と異なるのではないか」という方法的懐疑ではなく、「自分の見ている赤とあな たの見ている赤は同じ赤である」という原始信念(Urglaube)の問題なのだ。これは他者、歴史性、言語(コミュニケーション)、身体性の問いであ り、ひいては相互主観性の問題なのである。

2009.04.19[Sun] Post 22:47  CO:0  TB:0    Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。