ART TOUCH 美術展評

久米宏のCAR TOUCHにならって、五つの項目に分け、5点法で美術展を評価します。美術展を楽しみながら、現代美術理論の理解を深めます。

『著作権という魔物』 岩戸佐智夫

『著作権という魔物』は関係者にインタービューして、それをまとめた本なのだが、著者の視点がハッキリせず、『ウィキペディアで何が起こっているか』と同様に焦点がさだまらない本だ。これは、インタービュー形式の本が陥りがちな欠点だろう。識者(学者)にもインタービューしているのだが、かれらもまた利権の代理人である。

Web2.0時代の著作権問題は、著作権者と消費者の権利の争いではない。ポイントは二つある。ひとつはローレンス・レッシグのクリエイティヴ・コモンズの提案にかかわる問題だ。デジタル時代では、コピーが容易になるにしたがって著作権の保護が強くなる。著作権の強化は、過去の作品をもとに新しいものを創造することが難しくなるということだ。レッシグはいまさら著作権をなくすのは不可能だから、あらたにだれでも利用できるソフトの入会地をつくろうと提案する。

もう一つは池田信夫氏が『電波利権』で述べているようなメディアの問題である。著作権で利益を得ているのは作家ではなく、むしろ流通業者である。かれらは著作隣接権によって、インターネットの放送進出を妨害し、電波利権をまもうろうとしているという。

たぶん著作権も電波利権も既得権者が有利なように決められていくだろう。IP放送にすれば不必要になる電波塔をわざわざ建設するのも利権を確保するためらしい。でも、問題は、そんなことをしても無駄だということだ。しばらくは既得権をまもることはできるだろう。しかし、電波塔を建てても、インターネットでテレビ放送することを禁じることはできない。もちろん著作権で自分たちがつくったコンテンツは使わせないことはできる。それでGyaoに意地悪もできる。しかし、そんなことが果たして続けられるだろうか。コピーフリーのコンテンツが増えてきたらどうするのだ。

Gyaoは自前のソフトを作るのに四苦八苦している。制作費、なかんずくスターのギャラが高いからだ。スターを使わなければアクセスが増えない。アクセスが少なければ広告もふえない。ジャニーズや吉本は電波利権と結びついてスターをつくっている。電通も新聞雑誌から放送へ、そしてつぎはインターネットへと広告利権をねらっている。

Gyaoは地上波の利権は持っていないが、そのビジネスモデルはまったく放送局と同じである。コンテンツもテレビと同じである。おそらく、Gyaoの将来はこのままでは明るくない。これからのインターネット放送は、電通に依存しない、スターシステムを使わない、著作権をゆるくしたものになるだろう。

デジタル時代ではコンテンツを発信する費用はゼロに近くなる。制作費もますます安くなり、宣伝費も検索ソフトにまかせればゼロになる。そしてスターがいらなくなる。そうなれば、おそらくコンテンツの内容が重要になる。2ちゃんねるが生き延びているのは便所の落書き以上の情報内容があるからだ。サヨクが、2ちゃんねるを目のがたきにするのは、ただ自分たちの既得権益を守ろうとしているだけなのだ。サヨクは革命集団ではない、利権集団なのだ。そうでなければ、朝日新聞の社員が全員サヨクであり、高給をもらっている理由がわからない。

もし、いま丸山真男がいたら、彼のニセモノぶりはネットでたちどころに暴かれているだろう。

本のことを忘れていた。この本はまったく読む価値がない。そういえば、新聞の書評欄は褒めてばかりで役にたたないけれど、アマゾンの書評欄は低い評価もそのまま載せてあって、とても役に立つ。

2008.08.24[Sun] Post 00:16  CO:0  TB:0    Top▲

『徹底抗戦!文士の森』 笙野頼子

純文学論争というのが戦後何回かあった。社会主義リアリズムと私小説の間の論争があり、60年代は、純文学にたいして中間小説や大衆小説を対置させた論争だった。また、70年代のフォニー論争は、江藤淳が純文学もどきのエセ文学を批判するものだった。サブカルチャーという言葉も使われた。どちらにしろ、そこには純文学というものにたいする了解はあった。

しかし、最近あった純文学論争というのは、ポストモダン風と言ったらいいのか、ジャンルの等価性を主張するだけではなく、むしろ純文学を否定し、漫画を含めたサブカルチャーを支持するものだ。この論争は売れない純文学には商品価値はないという大塚英志と、純文学の芸術的価値を擁護する笙野頼子とのあいだで争われた。笙野頼子の論争をあつめた『徹底抗戦!文士の森』を読むと、美術界と共通するような文壇文芸界の問題が浮かびあがってくる。

大塚氏が「不良債権としての『文学』」の中でまとめている笙野氏の主張は、
 
・素人が文学にあらゆる意味で口を出すな。
・文学の基準として「売り上げ」を持ち出すな。

の二点なのだが、たしかにこんな風なことも言ってはいるが、どうもこれでは笙野氏の大塚氏にたいする怒りは理解できない。私が『徹底抗戦!文士の森』読んだところでは、笙野氏の怒りは次の三点にある。

・大塚氏は文芸誌を否定しておきながら、文芸誌に連載を持っているのは偽善だ。また、「群像」の編集者は、笙野のゲラ刷りを大塚に見せ、同じ号に大塚の反論を載せ、しかも「群像」を擁護した笙野を切り、大塚を重用した。
・「売り上げ売り方文学論」はくだらない。大塚氏は不良債権としての純文学を批判しながら、江藤淳など持ち出して純文学に擦り寄りながら、自分のエロ雑誌編集者として経歴を隠そうとしている立身出世主義者である。
・純文学批判の背後には性差別がある(?) (前半部では、笙野氏はフェミニストの戦法を使っていないようなのだが、突然のフェミニストぶりには呆気にとられる。松井冬子の「売り方」と似ている。8/13追加)

以上、わたしが勝手にまとめただけなのだが、ともかく笙野氏はあくまで文学的に大塚氏を攻撃する。最初はどうなるかと思って読み始めたのだが、以外と面白くて前半は一気に読んでしまった。大塚批判からはじまり、「文学は終わった」と言っているらしい柄谷行人を図式的な西哲ライターと罵り、文学と「症候」を間違っている奴だと斎藤環を批判したりするあたりまでは、納得なのだが、そのあとのフェミニスト的な主張になるとちょっと首をかしげざるをえない。

小谷真理氏は売り上げの多いサブカルチャー作品を論じている大塚氏と似たりよったりの評論家ではないか。フェミニストだとかアメリカの業界をよく知っているとかいうが、ようするに、売り方文学論の評論家だろうに、自分を褒めてくれるからという理由で、純文学のことなど忘れて、小谷氏を持ち上げるというのは、読んでいて気味が悪いや。

まあ、こういう偏見思いこみは、小説家としては必ずしも欠点ではないし、じっさいこの論争の書『徹底抗戦!文士の森』は、すくなくとも前半部は、大塚英志のニセモノぶりをからかって、一読の価値は十分にある。

彼女の小説作品はまだ読んでいない。暇ができたら、読んでみるつもりだ。
 






2008.08.11[Mon] Post 22:29  CO:0  TB:0    Top▲

『だいたいで、いいじゃない。』 大塚英志/吉本隆明

サブカルチャーと経済学

いつも古い本ばかり取り上げているが、図書館で借りてきた本が多いのでしかたない。この本はもともと大塚英志のサブカルチャー論を知りたかったから借りてきたものだ。

『エヴァンゲリオン』はみんな大騒ぎしているので、ゲオでDVDを借りてきて見たが、下ネタばかりで、三枚目で我慢できなくなって、見るのやめた。大塚英志も母胎回帰だとか身体の記号化だとか、なんか精神分析もどきのもっともらしいことを言っているが、わたしには、凡庸なアニメにしか思えなかった。むかし、鉄腕アトムのアニメを見てちっとも面白くないので、漫画版の鉄腕アトムとなんども比べてみたことがある。漫画は吹き出しの文字とコマ割りのリズムを自由に行き来できるところが面白く、アニメの吹き替えや動きの嘘くさいリアリズムより、断然面白い。

だから吉本隆明について述べる。吉本はわたしが学生の頃は既成左翼に対抗するカリスマ的な存在だった。『言語にとって美とは何か』を読んだけれど、よく分からなかった。言葉は海を見て「う!」と唸ることだみたいなことが書いてあったけれど、そのころソシュールの『一般言語学講義』を読んで、言語の恣意性のことをしっていたので、吉本の自然的意味を認めるような言語論はあやしげなものにしかみえなかった。それ以後は文庫になった対談本などをときどき買って読んだが、吉本が何者なのかちっともわからなかった。たぶん政治的党派性があれば、おもしろいのだろうが、ノンポリのわたしには吉本のおもしろさは理解できなかった。

この本の「はじめに」のなかで吉本が経済学について述べている箇所がある。「一労働時間における労働価値(量)はすべて同一とみなしうるということだ。だから、労働価値は『時間』だけに還元される。」 吉本は集合的な労働者に当てはまるといっているのだが、これは古くさい階級闘争史観であって、経済学的には全くのナンセンスなのだ。吉本はこの疎外論搾取論なき労働価値説によって純文学と大衆文学の重層性、あるいは等価性を説明しようとしているらしいのだが、とてもその神秘的な思考の流れをたどることはできない。

賃金はもちろん労働市場で決定されるのだが、そこでは労働は同一ではなく、商品とおなじように差異によって成り立っている。というわけで、吉本は言語学でも経済学でも全くの無意味ではないが、ほぼナンセンスなことをいって、知的スノッブをケムにまいていたのだろう。そういう意味では、この本は、わたしと同じ世代で、学生時代に吉本を読んだけれど、ちっとも解らなくてコンプレックスを持っており、『少年マガジン』が好きだったけれど、『エヴァンゲリオン』がなぜ面白いのか解らなくて悩んでいる、はぐれ団塊世代は、是非この本を読んでください。なあーんだ、そうだったのかと、目から鱗が落ちます。
2008.08.04[Mon] Post 00:02  CO:0  TB:0    Top▲

「ドッド・コム・ラヴァーズ」

オンライン・デーティングの体験談。 

つまらない本だ。このつまらなさは何だろう。よく分からないがともかくつまらない。本人はいたってまじめで、自分の体験が他人にも面白いと信じているようだ。

中公新書といえば、かって『アーロン収容所』や『ルワンダ中央銀行総裁日記』を出したところだ。岩波新書よりましだろうと思ったのが、まちがいだった。著者によれば、編集者が、この「ネタ」が売れると思ったというのだが、出版界の劣化もはなはだしいものがある。

でも、そういえば、むかしペン・フレンドというのがあったけれど、あれとそっくりではないか。著者は自分が知的職業についていることがえらく自慢らしいが、そのあたりもペン・フレンドと同じである。写真を見せたりするところもそっくりだ。

ところで、残念なことに著者の写真が載っていない。むかし、身の上相談のを読んで、隔靴掻痒の感じがしたのは、相談者の写真が載っていないことだった。相談者の容貌で回答はずいぶんと違ったものになるだろうに、回答者はそんな差別はないように相談にのっている。

著者はフェミニストらしいから、なんかわたしにはうかがい知れない理論があるのだろう。それにしても、知的なところがひとつもないアメリカ見聞録である。

2008.07.26[Sat] Post 22:44  CO:0  TB:0    Top▲

『アメリカの鏡・日本』 ヘレン・ミアーズ 伊藤延司訳

東条英機vs丸山真男

 この本を読んで、林房雄の『大東亜戦争肯定論』を思い出した。ミアーズは大東亜戦争を、林と同じように、ペリー来航以来の100年戦争として考察している。ただ、ミアーズは大東亜戦争を聖戦とは言っていない。日本の侵略はアメリカの真似をしたのであり、もしこの戦争で悪をおかしたとするなら、それは日本というよりも、日本が模範としたアメリカのほうだと言っている。

『大東亜戦争肯定論』と同じ64年に丸山真男の『現代政治の思想と行動』の増補版がでた。当時の大学のキャンパスでは丸山真男は神様のようでもあり、丸山の社会心理学的分析による矮小なファシストという軍部批判にはおかしなものを感じながらも、林房雄の大東亜戦争肯定論が説得力を持つとはとても思えなかった。

丸山真男の批判が的はずれなことは、小林正樹監督のドキュメンタリー映画『東京裁判』の東条英機を見れば判る。東条英機は裁判を認めていなかったけれど、天皇を守ろうとし、敗戦の責任をとって死刑を受け入れたのだ。法廷で矮小なのはむしろ裁く側の判事、なかでも裁判長のオーストラリア人だったことは、左翼の小林正樹が編集したにもかかわらず、この記録フィルムを見れば明らかだ。

丸山は大東亜戦争を批判しているのではなく、戦争指導者の人格を論じている。それも西欧の政治思想を聞きかじっただけの的はずれなものだ。丸山は当時の権力者のマッカーサーの意向にそうように振るまったということであり、彼の反・反共主義も占領政策の方針に違わぬように巧みに計算されたものなのだ。

丸山真男の軍部批判には歴史的視点がない。そのことは、林房雄の『大東亜戦争肯定論』を読んだときには気づかなかった。林の肯定論は転向右翼の郷愁だろうと思って無視した。しかし、『アメリカの鏡・日本』を読んで、丸山の学者としての無能不誠実、いやそれ以上に人間としての矮小さがはっきりとわかった。アメリカ人のヘレン・ミアーズは、まだ米軍占領中に、日本よりアメリカのほうが軍国主義的侵略的ファシズム的であり、日本はペリー来航以来そのアメリカの真似をしてきたのだと述べている。

重要なことは、ヘレン・ミアーズの主張が正しいかどうかではなく、戦後の検閲と反軍部プロパガンダのなかで、このような主張がアメリカ人によってなされていたということだ。丸山はそういう状況のなかで、歴史を意図的に捨象し、戦争を軍部の戦略戦術に還元して、しかも、軍事裁判での法的な無罪の主張を、責任回避という道徳的な問題にすり替え、その精神構造とやらをニュールンベルク裁判の被告たちと比較しながら、疑似学問の粗雑な類型学で分析して見せたのだ。

なんどもいうが、小林正樹監督の『東京裁判』に映し出された東条英機は卑怯でもないし、矮小でもない。まして責任を回避しようとはしていない。それなのになぜ丸山はまるで反対の結論に達したのだろう。丸山は東京裁判の記録を読んだのだろうか。あるいは裁判の記録フィルムを見たのだろうか。そんなことはいまさらどうでもよい。確かなことは矮小で卑しいのは東条英機ではなく、丸山真男の方だったということだ。

『現代政治の思想と行動』を読んだときに感じた「イヤーな感じ」が四十数年後のいまヘレンミアーズのおかげで、完全に消えてなくなった。と思う。それにしても、図書館に行くと丸山本がたくさん並んでいるけれど、丸山真男ルネサンスなのだろうか。ネットを検索すると、丸山崇拝者がたくさんいるようだが、どうしてあんな空虚で無内容の丸山をもてはやすのか理解に苦しむ。ウスラサヨクの理論武装なのだろうか、そういえば丸山は、ウスラの元祖なのかもしれない。

 


2008.07.19[Sat] Post 23:08  CO:0  TB:0    Top▲
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