<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?><rdf:RDF xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" xmlns="http://purl.org/rss/1.0/" 
			xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/" 
			xmlns:cc="http://web.resource.org/cc/" xml:lang="ja">
<channel rdf:about="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/?xml">
<title>ART TOUCH 絵画と映画と小説と</title>
<link>http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/</link>
<description>もとは美術展評のブログ　絵画と映画と小説と、そして哲学を少々</description>
<dc:language>ja</dc:language>
<items>
<rdf:Seq>
<rdf:li rdf:resource="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-824.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-822.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-821.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-820.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-819.html" />
</rdf:Seq>
</items>
</channel>
<item rdf:about="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-824.html">
<link>http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-824.html</link>
<title>『上野の森美術館大賞展』　佐藤英行《地鳴り》　　３・１１と美術</title>
<description> 『上野の森美術館大賞』が佐藤英行の《地鳴り》に授与された。「3･11」が主題だ。東日本大震災から一年が経って、あの出来事は自分にとって何だったのかアーティストたちがあらためて問うている。同じ美術館で３月に開催されたVOCA展の大賞も津波を連想させる鈴木星亜の《絵が見る世界11_03》だった。また、カタールの村上隆展『Murakami-Ego』について、東浩紀が『五百羅漢』は、DOB君や花とは違って、メッセージ性があって村上隆
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ 『上野の森美術館大賞』が佐藤英行の《地鳴り》に授与された。「3･11」が主題だ。<br /><br />東日本大震災から一年が経って、あの出来事は自分にとって何だったのかアーティストたちがあらためて問うている。同じ美術館で３月に開催されたVOCA展の大賞も津波を連想させる鈴木星亜の《絵が見る世界11_03》だった。<br /><br />また、カタールの村上隆展『Murakami-Ego』について、東浩紀が『五百羅漢』は、DOB君や花とは違って、メッセージ性があって村上隆の新境地だと賞賛した。もちろん「3･11」を踏まえてのことだ。（<a href="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-814.html" target="_blank" title="＊">＊</a>）<br /><br />さらに、芸術上の問を発したのは三瀦末雄だ。 彼は東京新聞（8/19）に『３・１１後の現代アーティストたち』を寄稿して、主題ではなく、３・１１の後に絵を描くことの意味をアーティストに問うている。三瀦氏がここで問いかけている作家たちは、誰一人直接地震や津波を描いてはいない。（<a href="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-778.html">＊</a>）<br /><br />他にもネットや新聞に「3･11」とは芸術にとって何であったかの話題が取り上げられていたけれども、私が知る限りストレートに津波を描いたものは佐藤英行の《地鳴り》ぐらいのもだ。しかも、佐藤英行は大賞を受賞している。この《上野の森美術館大賞展》がどんな公募展なのか知らないが、まさか、イラストやポスター展ではないのだから、主題が理由で大賞を授与したわけではないだろう。作者の受賞コメントを上野の森美術館のHPから引用する。<br /><blockquote><p>昨年2011年は東日本大震災大津波で日本中が悲しみに暮れた一年でした。このニュースはテレビ新聞等で報道されない日はありませんでした。私の脳裏にもあの津波の恐ろしさが焼きついて、画家として出来ることは、この歴史的な出来事を子孫に絵画として残すことだと思い制作に入りました。<br />この作品はカメラで撮えた真実と違った自分の感じた津波の恐ろしさを絵画として表現したものです。場所などの設定はなく東日本全体を凝縮表現しました。一番苦労したことは記録画的悲惨な光景だけでなく、絵画としての美しさをどう表現するかが難しいことでした。</p></blockquote><br />受賞の言葉としては型通りである。津波を主題に選んだのは「歴史的な出来事を子孫に伝えたい」からだが、描きたかったのは主題ではなく、「絵画としての美しさ」だったと言っている。それはそうだ、津波の映像記録なら事故後すぐにアップされたYoutubeの動画に敵わない。美しさだって、盛り上がり町を飲み込み砕け散る水の奔流の「美しさ」は動画に及ばない。<br /><br />それなら「絵画の美しさ」とはなんだろう。ポストモダンの廃墟の美学だろうか。いや、そんなものはこの絵にはない。描かれた対象の美しさではなく、線や色や形などのフォーム、あるいは構図や奥行きや空間の面白さのことだろうか。確かに壊れたり流された家屋や建造物が線遠近法の秩序に反抗しているようにも見える。しかし、すべては遠景中景近景の中に収まっている。<br /><br />この絵を最初に見たときの印象は「悲惨な光景」というより既視感である。どこか東北の公立の図書館のホールの壁に掛けてあるこの絵を見ている自分を思い出しているような既視感だ。もちろん、この絵に描かれている光景はすでにYoutubeで見た光景だ。しかし既視感は、この絵の描き方がひどく古めかしい油絵の技法で、懐かしい昭和初期の油絵を思い出させるためだ。<br /><br />もちろん下手だと言っているわけではない。街並み侵入する波の白さと、煙突や屋根の黒の対比が一見雑に見えるタッチながら、繊細に描かれている。油絵の筆さばきが巧みであるだけに、それだけ一層古めかしく見えるのだ。<br /><br />藤枝晃雄は『芸術理論の現在』に収められた『芸術を求めて』の中で、芸術が変換を遂げようとするときの「未視感」について述べている。単に描かれた対象や情景が見慣れぬものであったり、奇妙なものであったりするものは、見るにつれて分かりやすいものになる。それに対して芸術表現自体が変換を遂げようとしている作品は捉えがたい不可解さを持つゆえに異様に感じられ、常識的な美醜を超えているゆえに価値判断はむずかしい。芸術の新しさとは、すぐに既視感に変わってしまう主題の新しさではなく、芸術表現の未視感を志向するものだと藤枝晃雄は言う。<br /><br />佐藤英行の《地鳴り》は主題だけではなく、芸術表現もまた既視感に捕らえられている。被災地の人々は津波を思い出させるものには拒否の気持ちが強いそうだが、この作品が被災地の公共の場所に掛けられることがあるのだろうか。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>佐藤英行</dc:subject>
<dc:date>2012-05-04T23:05:28+09:00</dc:date>
<dc:creator>　安積　桂</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
<item rdf:about="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-822.html">
<link>http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-822.html</link>
<title>絵師山口晃はアーティストをめざす。</title>
<description> 今の日本でスラスラと人物を描けるのは山口晃だけだと、会田誠が言っている。その力量のほどは都市鳥瞰図で誰もが良くしっている。その山口晃が銀座のメゾンエルメスの個展『望郷-TOKIORE（I）MIX』でアートに挑戦している。産経の美術展評（篠原知存3/28）によれば、「リミックス（流用）やミックス（混合）」という文脈だそうだ。《忘れじの電柱》は懐かしい昭和の電信柱を屋内に展示したところが手柄である。電柱は木製ではなく
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ 今の日本でスラスラと人物を描けるのは山口晃だけだと、会田誠が言っている。その力量のほどは都市鳥瞰図で誰もが良くしっている。その山口晃が銀座のメゾンエルメスの個展<a title="「望郷-TOKIORE（I）MIX」" target="_blank" href="http://openers.jp/culture/tips_art/yamaguchi_akira_20120214.html">『望郷-TOKIORE（I）MIX』</a>でアートに挑戦している。<br /><br />産経の美術展評（篠原知存3/28）によれば、「リミックス（流用）やミックス（混合）」という文脈だそうだ。《忘れじの電柱》は懐かしい昭和の電信柱を屋内に展示したところが手柄である。電柱は木製ではなく、写真でははっきりと分からないが、SF風に仕立てて「未来に過去が書き換えられる」と言っている。作者が自分の作品の能書きをいうのもどうかと思うけれど、近頃では作者の言葉も作品の一部だ。<br /><br />《電柱》の芸術評価はともかく、ここで私が言いたいのは山口晃の戦略のことだ。山口晃は、たしか上野の森美術館で開催された会田誠との二人展でイラストレーターで何処が悪いというようなことを言っていた。他方で、山口晃はミズマの《Lagrange Point》展やVOCA展で府中市美術館賞を受賞した《木のもゆる》など、大和絵風の都市鳥瞰図とは違った絵画に挑戦し、さらに二人展の《山愚痴屋澱エンナーレ》では、「記号と絵画」の問題を探求した。<br /><br />東京新聞と産経新聞を交代に購読していた時期があって、偶然、東京新聞の『親鸞』の挿絵と産経新聞の『竜馬を慕う』のイラストを見ていた。日本画の線とは違って、とても、山口晃が描いたとは思えない挿絵だった。率直に言えば、何の魅力もない「ヘタクソ」な挿絵なのだが、たぶん《木のもゆる》と同じように、自分のスタイルを壊して芸術的な作品をめざしたのだろう。<br /><br />ここまでは、ともかく絵画の範疇に入る作品であった。ところが今回の《忘れじの電柱》は絵画ではなく、オブジェである。「過去が未来に書き換えられる」というが、そんな大げさなものではなく、山口晃がデザインしたSF風新作電柱と言うところで、いわば、立体イラストなのだ。そういう意味では、レディ・メイドでもファウンド・オブジェでもなく、実物大の模型であり、オートバイに跨がった武者絵と同じように図解なのである。<br /><br />山口晃は依然としてイラストレーターである。<br /><br /><br /><br /><br /><br />『山口晃』についてのブログ記事は<a title="ここ" target="_blank" href="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-category-49.html">ここ</a> ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>-山口晃</dc:subject>
<dc:date>2012-04-03T02:14:00+09:00</dc:date>
<dc:creator>　安積　桂</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
<item rdf:about="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-821.html">
<link>http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-821.html</link>
<title>『VOCA展２０１２』　桑久保徹VOCA奨励賞</title>
<description> 桑久保徹のことは『ARTIST FILE 2010』(国立新美術館)の展評にブログを書いた。そして以下のようにコメントした。わたしにはこの絵画をつまらないと断言することはできない。ひょっとしたら、まったく新しい絵画なのかもしれない。ただ私には絵画表面をいじくりまわした絵にしか見えないことも本当だ。そういう意味ではVOCAに推薦すれば受賞まちがいなしの作品である。次の作品に期待しよう。あれから二年たってVOCA奨励賞を受賞し
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ 桑久保徹のことは『ARTIST FILE 2010』(国立新美術館)の展評に<a href="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-category-66.html" target="_blank" title="ブログ">ブログ</a>を書いた。そして以下のようにコメントした。<br /><blockquote><p>わたしにはこの絵画をつまらないと断言することはできない。ひょっとしたら、まったく新しい絵画なのかもしれない。ただ私には絵画表面をいじくりまわした絵にしか見えないことも本当だ。そういう意味ではVOCAに推薦すれば受賞まちがいなしの作品である。次の作品に期待しよう。</p></blockquote><br />あれから二年たってVOCA奨励賞を受賞した。去年は絹谷幸二賞を受賞している。<br /><br />今回の作品も『ARTIST FILE』とおなじ構図なのだが、色彩は黒と白とブルーグレーの落ち着いた色調で、以前のような目を刺激する尖った色使いではない。水玉（風船？）も絵画表面とイリュージョン空間をつなげて、遠景の山と俯瞰の近景が抽象的な空間のなかで一体となっている。今回のVOCA展の近藤智美、小村希史、関根直子（抽象画）などの作品もそうだけれど、イリュージョン空間の中ではなく、絵画表面に線や図形を描いて、絵画の物理的表面をきわださせる手法が流行している。<br /><br />これは知覚された平面性と想像された三次元空間の分離なのだが、たいていは、後者の三人のように、絵画の平面性を見せるためだけの技法に堕している。そのなかで、桑久保徹の作品はグリーンバーグが『モダニズムの絵画』で述べた三次元空間と平面性の弁証的対立を巧みに和解に導いている。<br /><br />この「三次元空間のイリュージョン」と「絵画表面の平面性」の弁証法的緊張をまとめておく。<br /><br /><blockquote><p>１：古典大家の絵画では、イリュージョンが絵画の平面性を抑圧している。それでも、近づいたり、斜めから観察したりすれば表面は見える。<br /><br />２：マネのようなモダニズムの絵画は平面性をはっきりと宣言している。「知覚に基づいた想像」なので、イリュージョンにも平面性にもどちらにも自由に注意を向ける事が出来る。<br /><br />３：抽象画は絵画的イリュージョン（図像主題）がないので、基本的に平面性が優位である。<br /><br />４：抽象画には歩いて入れる絵画的イリュージョンはないが、目で見るだけの視覚的イリュージョンはあり得る。抽象画の弁証法的対立は非常に複雑微妙であり、個々の作品に応じて見ていかなければならない。例えば斉藤規矩夫の作品のように。<br /><br />５：三次元空間と平面性、すなわち知覚と想像（知覚に基づいた想像）が分裂している場合。たとえばゲルハルト・リヒターの《Overpainted Photographs》のように。</p></blockquote><br /><br />以上はもちろん暫定的な分析である。桑久保徹の作品は「５：」と「２：」の折衷だと思われる。水玉（風船）は絵画表面の模様として平面性をあらわにし、風船として風景の中の空に浮かんでいる。もちろん、厚く塗られた絵具の小片は絵画表面の平面性を強調するとともに、離れて見れば、空間イリュージョンに生気を吹き込んでもいるのだ。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>美術展評</dc:subject>
<dc:date>2012-03-22T23:44:56+09:00</dc:date>
<dc:creator>　安積　桂</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
<item rdf:about="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-820.html">
<link>http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-820.html</link>
<title>村上隆と橋下徹</title>
<description> 村上隆が橋下徹にTweet。t_ishin村上さん、心強いです！！！橋下 RT @takashipom: 橋下徹氏の校長の徹底擁護。わかる。これは戦略的にどうなんだろう。カタールのニコ論壇SP 村上隆個展「Murakami - Ego」での東浩紀とのエール交換よりもましだけれども、業界の人たちは橋下徹の文化行政をこぞって批判しているのではないか。もっとも、村上隆は美大や美術館や電通のクールジャパンを批判しているのだから、橋下徹とは通じるところ
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ 村上隆が橋下徹にTweet。<br /><br /><blockquote><p>t_ishin村上さん、心強いです！！！橋下 RT @takashipom: 橋下徹氏の校長の徹底擁護。わかる。</p></blockquote><br />これは戦略的にどうなんだろう。カタールのニコ論壇SP 村上隆個展「Murakami - Ego」での東浩紀とのエール交換よりもましだけれども、業界の人たちは橋下徹の文化行政をこぞって批判しているのではないか。もっとも、村上隆は美大や美術館や電通のクールジャパンを批判しているのだから、橋下徹とは通じるところがあるのだろう。それにしても、坂本龍一のような<s>似非アーティスト</s>アンガジェした文化人がいるなかで、敢えて橋下徹にエールをおくった村上隆に拍手！<br /><br /><br />（１８日２０時）誤解があるといけないので、一部修正しました。 ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>-村上隆</dc:subject>
<dc:date>2012-03-17T16:08:46+09:00</dc:date>
<dc:creator>　安積　桂</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
<item rdf:about="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-819.html">
<link>http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-819.html</link>
<title>⑯『ポロック展』：知覚と想像の分離　赤塚祐二の場合</title>
<description> 絵を見ることは「知覚に基づいた想像」であることはこれまでも繰り返し述べた。古大家の作品では、知覚は中和変容されて、観者はもっぱら図像主題を見ている。マネなどのモダニズム絵画は物理的表面の知覚を顕在化した。図像主題のない抽象画であっても、ゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》のように、知覚に基づいた想像によって空間のイリュージョンが生まれる。知覚されるのは物体である。想像されるのは
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ 絵を見ることは「知覚に基づいた想像」であることはこれまでも繰り返し述べた。古大家の作品では、知覚は中和変容されて、観者はもっぱら図像主題を見ている。マネなどのモダニズム絵画は物理的表面の知覚を顕在化した。図像主題のない抽象画であっても、ゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》のように、知覚に基づいた想像によって空間のイリュージョンが生まれる。<br /><br />知覚されるのは物体である。想像されるのはイメージである。ただ、図像意識の想像は知覚に基づいたイメージであり、自由な想像のイメージではない。<br /><br />これは知覚が優勢か、想像が優勢かの問題である。しかし、実際の作品鑑賞では、さらに錯視も加わって、三者を明確に区別することは難しい。斉藤規矩夫の作品では、この三つが微妙に戯れている繊細な作品だし、野田裕示の作品は、磨き上げた漆塗りの工芸品のような知覚優位の作品だ。<br /><br />ところが、知覚と想像が分裂した絵画もある。曖昧な表現だけれど、絵画の現象学では重要なことなので、簡単にまとめておく。<br /><br />１：【図像意識における知覚と想像】　知覚に基づいた想像であり、中和変容によって知覚が想像を基礎づけている。知覚された線や色や図形を知覚しながら、それに基づいて図像主題や、（抽象画の場合は）空間のイリュージョンを見ている（想像している）。<br /><br />２：【知覚と自由な想像あるいは想起】　例えば、風景を眺めながら、別のことを想像していることがある。また、絵画の図像主題を見ながら、連想した別のイメージを想像する場合は「知覚に基づいた想像」と「自由な想像」が重なっていることになる。これは文学者の美術評論でよく見られる手法だ。<br /><br />３：【知覚と図像意識の分離併存】　これが一番よく分かるのが、ゲルハルト・リヒターの《Overpainted Photographs》だ。写真図像の上に絵具をスクイーズすることで、絵具の物質の層と写真の遠近法的空間とが分離共存している。絵具の層に抽象画として空間のイリュージョンが現れることももちろんある。<br /><br /><br />ポロックの《<a target="_blank" title="ポーリングのある構成Ⅱ" href="http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-813.html">ポーリングのある構成Ⅱ</a>》は知覚と想像が分離している。ポーリングの技法を使い始めたころの作品で、出来上がった抽象画にポーリングしている。近からず遠からず、適当な位置から見ると、黒いエナメルの線が知覚され、その下の抽象画が後退して、ポーリングした線と抽象画の間に透明な空間が生まれている。もちろん頭を動かせば、運動視差が見え、透明な空間の奥行きは深くなる。他方、《インディアンレッドの地と壁画》では、さまざまな色や太さのポーリングの線が重ねられていて、知覚と想像は分離されていないように思える。<br /><br />斉藤規矩夫の作品は絵画表面の物質性（知覚）とイリュージョン（想像）が絵画表面で渾然一体となって和音を響かせている。ただ繊細ではあるけれど、どこか物足りなさは残る。<br /><br />ネット・サーフィンをしていたら赤塚祐二の作品を見つけた。知覚と想像の分離を巧みに利用した面白い作品である。<br /><br />赤塚祐二　《<a href="http://www.google.co.jp/imgres?q=%E8%B5%A4%E5%A1%9A%E7%A5%90%E4%BA%8C&hl=ja&sa=X&biw=1170&bih=649&tbm=isch&prmd=imvnso&tbnid=VD_M5opDHwYMnM:&imgrefurl=http://www.gallerykobayashi.jp/artists/akatsuka/&docid=caOWqvLA8irm4M&imgurl=http://www.gallerykobayashi.jp/artists/files/2010/11/1021.jpg&w=579&h=800&ei=xsViT7SyOaqTiAfxzPnsBQ&zoom=1&iact=hc&vpx=485&vpy=120&dur=2922&hovh=264&hovw=191&tx=107&ty=138&sig=112908906592268523908&page=1&tbnh=147&tbnw=141&start=0&ndsp=18&ved=1t:429,r:2,s:0">another mountain５</a>》<br /><br />手前から奥に線遠近法で描かれた道があり、遠くに山が見える。その風景画の上にグリッドが白い線で描かれている。グリッドの中央の線が道のセンターラインになっている。そこは風景の空間の内部とつながっているけれど、絵画上部のグリッドの縦横の線は、風景の空間とは分離した浅い空間に描かれている。キャンバス表面に重なって見える線もあり、それは当然知覚された絵画表面の物質性を強調することになる。成功しているか失敗しているかはともかく、グリッドは風景画の空間と絵画表面の物理的平面をつなげる働きをしていることになる。<br /><br />斉藤規矩夫のグリッドと赤塚祐二のグリッドを見て、どちらが優れているか比べて見て欲しい。<br /><br />さて、ポロックの完成されたポード絵画では、知覚と想像はどうなっているのだろう。分離しているだろうか。それとも渾然一体となっているだろうか。答えはたぶん《インディアンレッドの地と壁画》にあるだろう。<br /><br /><br /><br /> ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>ポロック展</dc:subject>
<dc:date>2012-03-16T23:37:21+09:00</dc:date>
<dc:creator>　安積　桂</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
</rdf:RDF>
