ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

制作学から見た四人(奈良会田村上田中)のアーティスト


これは以前に書いたものを少し修正してアップしたものです。


 旧聞にぞくするが、第55回ベネチア・ビエンナーレで、田中功起が企画制作に参加した日本館が受賞した。これをうけて、小松崎拓男が、「Tokyo Pop」の時代が終わって、田中功起の「ライト・コンセプチャル・アート」の時代が始まったとツィートした。ところが、「Tokyo Pop」も「ライト・コンセプチャル・アート」も、命名者は小松崎拓男自身ということもあって、現代美術としては珍しく炎上した。

 しかし、論争は失敗に終わった。理由は明らかだ。対立点であるはずの、「コンセプチャル・アート」と「ポップ・アート」の両者の違いが明確ではないからだ。もちろん、現代美術を代表する二つのアートだから、コアな部分では、美術評論家の意見は一致するのだろうが、美や空間といった基準を解体した現代美術は、議論するにも、そのよって立つ論拠がなくなってしまったのだ。

 しかし、制作者は最初の享受者でもあるのだから、ことは、そう簡単ではない。 マチスの『画家のノート』は、マチスのなかの制作者と享受者の協働によって書かれた稀有な著作である。日本の現代美術では評論家兼業の美術家が多いが、ただ、混乱に拍車をかけているだけだ。

 批評家は、直接、実作者の内面を観察することはできない。しかし、間接的な方法、例えば、作家へのインタビュー、ノートや日記、あるいは制作風景を見学させてもらうなどすれば、作家の制作学的研究をすることはできる。ゲルハルト・リヒターの『写真論/絵画論』はインタビューや日記・ノートをあつめたものだが、抽象的な議論に終始して、あまり役立たない。《Abstraktes Bild 抽象画》 の制作風景の映像の方が、短いけれど、役に立つ。ただ、squeezingする前の絵具の置き方、塗り方、乾きぐあいなどの準備があるはずだが、彼は大きなヘラでキャンバス表面を擦る(squeeze)ところしか見せてくれない。リヒターの《squeezed painting》は、ポロックの《poured painting》に唯一、匹敵する重要な現代美術の技法なのだから、全面公開は無理にしても、なんとかヒントになることぐらいは見せて欲しい。

 村上小松崎両氏の論争は、めったにない貴重な機会だった。せっかく盛り上がりかけた貴重な論争の機会をどう活かしたら良いだろう。さいわい、村上隆奈良美智会田誠田中功起たちの制作風景のビデオがある。これを見て、アーティストを外側から観察すれば、より客観的な分析ができる。この方法は、ジャクソン・ポロックをめぐる「アクション・ペインティング論争」に決着を付けた(藤枝晃雄)ことでよく知られている方法だ。

 奈良美智については、ブログ記事『奈良美智の線』() に書いた。youtubeに『作業風景』(Making of Nara's Work)がアップされている。彼はいろいろな画材や技法を使うのだが、隠さず、カメラの前で使ってみせる。たとえば、柄の長い筆、刷毛、ちびた筆、色鉛筆、ティッシュなどだ。アクリル絵具の濃度も重要だ。画家には「手で描く画 家」と、「腕で描く画家」がいるけれど、奈良美智は手も腕も使う。それだけではない、筆を長く持って、腕を伸ばして描くときもあれば、筆を持たずに指先を 使うこともある。キャンバスは水平に置いたり、壁に掛けて上下左右を替えながら、描きやすい方向から描いている。遠く離れたところから指でキャンバスに想像の線を描いている。腕鎮は使わない。長い筆柄の端を持って腕を伸ばし、よたよたと線を引く。その「ゆらぎ」が、眼や口になる。奈良は「偶然」を取り込んでいる。以前、ラッセンとファンが重なると言われて、激怒したことがある。マーケット的にはそう言えるのかもしれないが、芸術の質からみれば、奈良美智の線が「偶然性」を取り込もうとしている点で、ラッセンのパターン化したポピュラー・アートの線とは異なる。

純粋に芸術の視点から見れば、奈良美智に対蹠的な線を引くのは会田誠だ。彼は、奈良が拒絶したラッセンのイルカと、自分の《滝の絵》が同じだと思われても構わないと言うし、そもそも、今ここで話題にしているポップとコンセプチャルの対立にしても、『美術手帖』のポップ特集で楠見清がポップはその背後あるコンセプトが重要だと言ったのを真に受けて、ニコニコ・マークを使ったポップな《河口湖曼荼羅》もコンセプチャル・アートだと言い出した。

会田誠のエッセイや展覧会のカタログ等には、制作の意図や着想が多く書かれているけれど、自分は「鶴の恩返し絵描き」で公開制作は好まないと言いながら、それでも、さいわい、制作風景の映像が『駄作の中にだけ俺がいる』の予告編にチラリと映っている。会田誠の線は偶然を取り込むのではなく、偶然を排除しようとしている。一本の「正確な」線を求めている。彼は、いかにもプロぶった、デフォルメしたデッサンは嫌いだと、どこかで言っていた。《灰色の山》の死んだサラリーマンの格好をしたモデルを下絵用に写真に撮っている。また、面相筆を舐め舐め《滝の絵》の仕上げ(?)をしている。ポスカを使うのは芸大では常識だったと言っているが、《大山椒魚》のニンフの輪郭線は面相筆なのか、それともポスカなのか分からない。

会田誠には、もう一つの線がある。ヘタウマの線で、わざと下手に描くのではない、素直に描けば、そうなるという。この二つの線の使い分けは、絵画教室に通い始め中学生の頃から始まっているのだろう。「自家製自家用ポルノ」と「漫画」の線だ。もともと会田誠は、線だけではなく、内容的にも分裂している。美少女にも《犬》シリーズと《美少女》の自慰パフォーマンスがあるように、ひとりでポップとコンセプチャルを兼ねているようなところがある。彼は予備校の夏期講習で自分が魅力的な線が引けないことを自覚したと言っている。ピカソは子供のように描くのに40年かけたが、会田さんは生まれながらに子どものような線が描けるのだ。会田誠は分裂したままだ。いったいこのまま分裂状態の方がいいのだろうか、二本立てをやめて、自分の線を求めた方がいいのだろうか。主題によって線を変えるのは、確かに魅力的なやり方だ。しかし、どこか、逃げ腰に見えないだろうか。それでは、いつまでたっても自分の線が描けるようにならないだろう。ピカソはさまざまな線を持っている。しかし、ピカソはピカソなのだ。佐々木豊が《犬》シリーズは「首輪をとったら普通のヌードだ」と言った意味が、今さらながら、分かるような気がする。

残るは、「Tokyo Pop」の村上隆と「ライト・コンセプチャル・アート」の田中功起だ。一番激しく小松崎拓男の「ライト・コンセプチャル・アート」に噛み付いたのは村上隆だから、ちょうどいい。彼は『美術手帖』の「ポップ/ネオ・ポップ」のシンポジウムでも、モデレータの楠見清に噛み付いていたが、いったい、何に腹を立てているのだろうか。こういう時こそまさに「制作学」の出番だ。うまい具合に村上隆の「工房方式」も、田中功起の「協働方式」も、複数の制作者が協力して、一つの作品を作る方式なのだから、両方式の違いを見つけるのはそんなに難しいことではない。

「工房方式」は、昔からある。教会の壁画や天井画は、複数人で制作するのが当たり前のことだった。村上隆は100mの巨大壁画を制作するのだが、田中功起が作るのは、一人で十分な《陶器》である。なぜ、わざわざ、5人で協働する必要があるのだ。しかも、初対面の人たちだ。ベネチア・ビエンナーレのときに、言ったことだが、まるで、バラエティ番組だ。わざと難しくしている。

 実は、田中功起の協働作業には、作品と言われるものが二つある。《陶器》と《ビデオ》だ。陶器は表向きの作品で、《ビデオ》こそが、展覧会のタイトルでもある『田中功起 共にいることの可能性、その試み』のプロセスを記録した本当の作品だ。協働してつくるのは《陶器》だが、コンセプチャル・アートとしては、制作のプロセスを記録した《ビデオ》が第一の作品だ。

しかし、何か腑に落ちない。制作のプロセスを撮ったビデオがコンセプチャル・アートなら、村上隆の《五百羅漢図》のメイキング・ビデオもコンセプチャル・アートということにならないか。


両方式とも作品をつくることが目的だ。村上隆の方式の特徴はPCとシルクスクリーンを使うことだ。小さく描いた絵を拡大するのと、体を使って、大きく描くのとでは、おのずと線は変わるだろう。PCでコピペ修正すれば線は死んでしまう。そうでなくとも、いろんなメンバーの手がはいるし、なかでも、村上隆の目が光っている。とても、奈良美智のようには「偶然」を活かすことはできない。今は、大きいだけの木偶の坊に見えるけれど、将来、どう評価されるかわからない。こんな巨大な絵画を作ることなど二度とないのだろうし、3・11の記念碑的作品としてはこの巨大な作品以外にないだろう。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

スポンサーサイト
2016.05.18[Wed] Post 14:04  CO:0  TB:0  制作学  Top▲

「コンセプチャル・アート」のポップ化

ポップ・アートが「コンセプチャル・アート化」していることは、『美術手帖』の「ポップ特集」での楠見清の発言でも明らかだ。そして楠見清に呼応して、会田誠が自分はポップではなく、処女作《河口湖曼陀羅》以来、コンセプチャルだったと、「コンセプチャル宣言」をした。この宣言は横尾忠則の『画家宣言』に匹敵する重要な日本のポップアート界の宣言なのだが、注目されることはなかった。

この「コンセプチャル化」したポップ・アートは、本来のコンセプチャル・アートではない。コスースが浅田彰の対談で言ったように、コンセプチャル・アートは、「観念」さえあれば、物理的な作品は必要ない。楠見清がいう「思想・コンセプト」はポップ・アートにかぎらず、思想なら宗教画やPCフェミにもあるし、コンセプトなら「来週発売のわが社の新商品」にもある。もちろん、これはコンセプチャル・アートというよりいもコンセプチャリズムというべきだろう。

そんなユルユルな日本の現代美術の状況で,本格的なコンセプチャル・アートが登場した。ベネチア・ビエンナーレ受賞という栄誉に輝く田中功起が水戸芸術館で個展を開催している。水戸芸術館の『田中功起 共にいることの可能性、その試み』が、田中功起の国内初の大規模個展ということもあって、人気らしい。

どういう人達が見に行くのだろう。水戸芸術館といえば、設計者は磯崎新だ。かって椹木野衣の『日本ゼロ年』や松井みどりの『マイクロポップの時代』など、異端のポップアート展が開催された美術館だ。ここには、「軽いもの」への時代の流れがあった。

そして、こんどは小松崎拓男が「ライト・コンセプチャル・アート」のレッテルを貼った田中功起の大規模個展が開催された。「コンセプチャル」だからといって、「ポップ」に対立するものではない。「ライト」という形容詞で、小松崎のコンセプチャル・アートは「マイクロ・ポップ」の「軽さ」につながっている。

ここに、「ポップ・アートのコンセプチャル化」と同様に、「コンセプチャル・アートのポップ化」が生じている。コンセプチャルと言っても、難しいものではなく、PCやフェミさえ気軽に楽しめる娯楽にしてしまう。

水戸芸術館の『田中功起展』を見に行く人は、芸術とはとても思えないパフォーマンス・ハプニングを、「素晴らしい」と感想を述べるために、遠い道のりを物ともせず、見物に行く、「芸術的にエリート化した大衆」(藤枝晃雄)である。今度の展覧会は前回と違って物理的作品のない本格的な「コンセプチャル・アート」らしい。

日本の現代美術に大いなる刺激を与えてくれるだろう。美術評論家なら、キー・ワードを並べてお茶を濁さず、 村上隆と田中功起の対決に決着をつけて欲しいものだ。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2016.05.13[Fri] Post 21:11  CO:0  TB:-  田中功起  Top▲

蕭白におけるカラーとモノクロ : フッサールの図像意識

蕭白の絵は、カラーの部分とモノクロの部分が混じっているので、どちらを見ればいいのか迷うことがある。

なぜ、こんなことになるかというと、「絵画を見る」ということは、知覚した「図像客体」をもとに描かれた「図像主題」を想像しているからだ。

灰色の身長5㎝の子どものモノクロの写真を見るとき、ピンクの肌をした、身長120㎝の血の通った子どもを見て(想像して)いる。

むかし、商品のジュエリーだけカラーにした広告写真を見てギョッとしたことがある。灰色の肌をしたモデルが死んだように見えたからだ。

《モナリザ》もカラーの中にモノクロがあるけれど、あれは空気遠近法のため、遠景がモノクロに見えるのだ。しかも、グラデーションがあるので違和感はない。

蕭白にもモノクロの遠景がある。薄く描かれているのは、水墨画の技法である。

ところが蕭白には近景の人物をカラーにしたものがある。なかには、子どもと女性だけを彩色し、男性はモノクロのままにしてある。

さらに、おどろいたことに、唇や小物だけを彩色したものがあり、江戸中期にすでに広告写真の技法を使っていたことになる。

これ以上は、言わない。絵画は「知覚に基づいた想像」であること、そして、想像するか、知覚にとどまるかは、作品ごとに、二者択一ではなく、絵画内部の「関係」によって変わる。

同じことが抽象画に関しても言えるのではないか。


スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2016.04.03[Sun] Post 14:18  CO:0  TB:0  絵画意識  Top▲

Alex Katz



ALEX KATZをはじめてみたときはモード雑誌のイラストかと思った。しかし、イラストにしては、どこか引っかかるところがあった。「イラスト」が貶めるニュアンスがある日本では、考えられない率直さがある。モダニストは陰影を嫌うが、kATZのポートレイトには陰影がある。しかし、あくまでフラットである。それに比べ、81年に画家宣言をした横尾忠則の作品は擬似コンセプチャリズムであり、描線には、変な言い方だが、KATZのような「清潔感」がない。

アマゾンからALEX KATZの画集が届いた。ニョウボに見せながら、たんなるイラストではないと、あることないこと、説明した。まえに、インドの現代美術家ティエブ・メータを『東京国立近代美術館』で見て、画集まで買ったのだけれど、オレンジ色が気に入らないと最後まで意見を変えなかった。それで、イラストっぽいKatzもダメかなと思っていたが、「ホッパーとホックニーを合わせたようで、面白い」という感想だった。

巻頭のインタビューを読むと、いきなりグリーンバーグの名前が出てきて、話題は、カッツが作品を発表し始めた50年代のアートシーンになった。いわゆる『アメリカ型絵画』が支配していたわけだが、それに対してどのように対応したか、というインタヴュアーの質問に、カッツは、クラインやデ・クーニングはエネルギッシュだったけれど、負けたくはなかった。フィギュラティヴで対抗するために、『抽象表現主義』と同じぐらい大きなスケールの作品を描いた。1973年にニューヨークでフランツ・クラインとクリフォード・スティル、その他のグループ展に参加して、花の絵を出展した。抽象表現主義と並べたら、クソみたいにみえるだろうとびくびくしていた。しかし、意外と踏ん張って、抽象表現主義に負けることはなかったという。

日本の現代美術は新奇珍奇な主題や技法を次から次へと追い掛け回している。それもいいけれど、アメリカン・ポップはウォーホルやリキテンスタインばかりではない。美術評論家の表象文化論ばかりきいていないで、たまには、抽象とリアリズムの境界にいると言われるAlex Katzの画集をひらいてみるのも一興ではないか。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2016.03.31[Thu] Post 15:22  CO:0  TB:0  ALEX KATZ  Top▲

〈北斎中毒〉 会田誠と佐藤順子

会田誠は「北斎中毒」のように北斎を模写していた時期があるという。中毒までいかなくても、北斎が好きな絵描きは多い。北斎は「絵中毒」(会田)だったというのだから、北斎自身が北斎中毒だったわけだ。奈良美智は工房の壁に写楽の《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》を貼って、浮世絵の絵師、彫師、摺師の三役を兼ねて、ひょうひょうと描いている。Youtubeの奈良美智の制作風景を見るのが好きだ。また、マチスは友人のマルケを「わが北斎」と呼び、窮屈なドミニク・アングルのデッサンと比べて、北斎を画狂老人(vieillard fou de dessinデッサン狂)と呼ぶことに不都合はないと絶賛している。

こんな大家とアマチュアの画家を同列にならべるのはどうかと思うが、佐藤順子の北斎中毒は誰にも負けない。それだけではない、二人とも北斎漫画だけではなく、北斎の春画が好きだ。会田誠には、北斎の《蛸と海女》のパロディ作品《巨大フジ隊員VSキングギドラ》があるし、佐藤順子には、《北斎春画オマージュ》のシリーズがある。と言っても、会田誠の《巨大フジ隊員VSキングギドラ》は今や現代美術の愛好家なら知らぬ者はいないと言っても良いが、佐藤順子の《北斎春画オマージュ》の方は、Twitterに一部アップしただけだ。しかも、岡田斗司夫的「美術史」から見れば、100年後200年後に今の時代を象徴する作品になれるかどうかを考えれば、いうまでもなく、《巨大フジ隊員VSキングギドラ》がマンガ・アニメの「おたく時代」の代表作として残るだろう。

それでも、佐藤順子が会田誠と並ぶ資格があると思うのは、会田が北斎の「海女の白日夢《蛸と海女》」を鬼畜系のパロディにしたのとは対照的に、佐藤の《北斎春画オマージュ》は、北斎春画はポルノグラフィーではなく、「モデルニテ」の世界を描いた北斎漫画の一部だということを見せてくれたからだ。しかし、そんな遠回りをする必要もない。今まさに旬であり、しかも、誤解されることも多い会田誠を、女性画家として理解しているのは誰よりも佐藤順子だろう。

佐藤順子の会田理解はこれまでの私のブログを読んでもらうとして、ここでは、ボードレールの「モデルニテ」の視点から、会田誠と佐藤順子の類縁性を考えて見たい。モデルニテは、ボードレールがコンスタンタン・ギース(1802-1892)について書いた美術批評『現代生活の画家』で使った言葉である。「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである。」 人々はルーヴル美術館に行くと、一目散にラファエロの前に行くが、現在の風俗画にこそ意をそそいで欲しいとボードレールは言う。衣裳、化粧、仕草にはいつの時代にもその時代の流行がある。

平成の最大のモデルニテは「ルーズ・ソックス」だろう。会田にも佐藤にもルーズ・ソックスを描いた作品がある。会田の作品は、センター街にたむろしているような女子高生を描いた《群娘図'97》で、佐藤の方は、北斎漫画の町人の《喧嘩》を女子高生の喧嘩に差し替えたパロディ作品だ。

以下、会田誠の《群娘図'97》のリンク先と、ニョウボの《北斎喧嘩》のパロディ作品《ルーズ・ソックス》と《ビキニ》の二作品のTwitterをコピペしておいた。その後に簡単な解説を加えている。まず、絵をよく見てほしい。


     *     *     *     *     *


(1) 会田誠の《群娘図'97》のリンク(

(2) 《北斎喧嘩》のパロディ:ルーズ・ソックス

(3) 《北斎喧嘩》のパロディ:ビキニ

*     *     *     *     *     *


《群娘図'97》は、作品集『MONUMENT FOR NOTHING』の年譜に「・・・何よりも、必ず消えることが分かっている風俗を普遍を旨とする美術で堂々と扱う勇気とか・・・・」と書いているように、まさに会田誠はボードレールのいう「現代生活の画家」なのだ。この絵の主題は、「東京の女子高生と地方の女子中学生の対比」というのだから、ルーズ・ソックスだけが主題というわけではない。他にも、白いスクールベスト、ミニスカート、ヤンキー座り、茶髪、ガングロ、タバコ、携帯など、さらには、ブルセラや援交が社会背景としてあったのだろうが、この作品が注目を浴びるようになると、《群娘図’97》は《ルーズ・ソックスの絵》と言われるようになる。それほどルーズ・ソックスはモードとして強い印象を残した。

《北斎喧嘩》のパロディ(ルーズ・ソックス)は、もともと「ルーズ・ソックス」を描くために、北斎の《喧嘩》のパロディにした。町人の仕草身振りがわかるように左の二人を残し、喧嘩をけしかけている女子高生四人をルーズ・ソックスにした。会田さんの《群娘図'97》のことはもちろん知らなかった。佐藤は、初めてルーズ・ソックスを見たとき、「これは残る」と直感したそうだ。今は廃れたけれど、いずれ復活すると言っている。ルーズ・ソックスは日本人によく似合う。観光客誘致に使えないものか。

言い忘れたが、《群娘図'97》と《北斎喧嘩》のルーズ・ソックスはタイプが違う。佐藤の方はファッションとしてのルーズ・ソックスで、可愛いジャポニスムだ。それに対して、会田のハイソックス・タイプのルーズ・ソックスはブルセラ援交のファションだ。そう思って、あらためて《群娘図'97》を見ると、写真を参考にしたのだろう、表情がリアルで、いろいろ描き込み過ぎて、会田の持ち味が生かされていない。社会批判が眼目なのだろう。対比すべきモチーフをワンショットで撮った写真なら、平成の傑作として残ったに違いない。

《群娘図'97》は、東京の女子高生と地方の女子中学生の対比が主題だというが、会田には地方から修学旅行に来た女子中学生に特別の思い入れがあるはずだ。上野公園で「失禁パフォーマンス」をする《上野パンタロン日記》の背後には修学旅行の女子中学生が笑って騒いでいるのが映っている。この女子中学生たちが後に《滝の絵》の「スク水」の少女たちになるわけだが、そのためには紆余曲折を経る道のりがあったに違いない。

《滝の絵》は「中学1年から始まった僕のある種の描画(美術予備校から始まった“美術”ではないことが重要)におけるひとつの集大成を目指した」と言っているのだから、明らかに、中学1年のときから始めた、美少女の写真を使っての自家製自家用ポルノの制作のことだ。会田は同時に公募団体系の絵画教室にも通いはじめているのだけれど、正確なデッサン力は身につけたが、自分の魅力的な線はひけなくなったと会田は告白している。

《滝の絵》は、もはや、ポルノグラフィーとしての美少女画ではない。これは会田誠の芸術上の変化ではなく、40歳という年齢の所為だ。画面中央の少女が振り返ってこちらを見ているのは、会田誠の視線に気づいたのだと、まえに、書いたことがある。それでも、《滝の絵》が「ポルノグラフィー」をまぬかれているのは、少女が、北斎漫画の「人物づくし」になっており、一人ひとりに「物語」があるからだ。この「物づくし」こそが北斎漫画の江戸の「現代生活の絵画」の方法なのだ。《群娘図'97》は尾形光琳の《燕子花図屏風》の横一列の構図を使ったというのだが、《群娘図'97》には《燕子花図》の「構図としての余白」がないのが残念である。

北斎漫画の《喧嘩》も「町人づくし」になっている。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、物売りが天秤を放り投げて喧嘩に加わり、座り込んで見物と洒落こみ、指差してあれこれ品評したり、棒を持ってうしろから応援したりと、まさに江戸っ子の「喧嘩づくし」だ。会田の《滝の絵》と佐藤の《北斎喧嘩》を並べてみれば、二人とも北斎の影響を受けた「現代生活の画家」であることが分かる。しかし、両者は対照的でもある。《滝の絵》は胸が小さいスクール水着の女子中学生、《北斎喧嘩》はビキニ姿のギャル。スクール水着の似合う女子中学生はすでに居ない。ビキニが似合う男の子のようなギャルもいない。

こんなことを言うと会田誠さんに怒られるだろうが、二つの作品を並べると、まるで、示し合わせたように、ひとつの作品になる。見ていて飽きることがない。






スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2016.02.17[Wed] Post 10:23  CO:0  TB:0  北斎  Top▲

《北斎の春画》と《ピカソのエロチカ》

下の作品はニョウボの佐藤順子が描いた《北斎春画オマージュ》のシリーズの一部だ。他にもTwitterに添付したものがあるから「画像・動画」で見て欲しい。


もともと、ニョウボは北斎の春画に興味があったわけではない。ただ、エッチングの下絵のために、『北斎漫画』をときどき模写して楽しんでいた。そのうち油絵の大きな作品を描くには、ヌード・デッサンが役にたつと、デッサン・スクールに通い始めた。それがヌード画に興味を持つきっかけだった。日曜画家はヌード・デッサンを熱心にするけれど、ヌードそのものを画題にすることはあまりない。ニョウボは気に入ったデッサンが描けるとエッチングや油絵にしていた。

そのうち、ダブル・ポーズのデッサンもやってみたくなった。しかし、そんな便利なデッサン教室はなかった。ちょうど、その頃、「春画ブーム」のようなものがあって、いつの間にか春画が解禁になっていた。人気があるのはもちろん歌麿だったが、ニョウボは何が何でも、北斎が一番なのだ。彼女に言わせると、歌麿は着物の下の手足をごまかしているけれど、北斎の手足は着物に隠れていても、正しいところにあるという。もっとも、ときには、女のものか男のものか、定かならぬ手足が、とんでもないところから出ていることもある。

その他いろいろな事情が重なって、それならいっそうのこと北斎の春画を借用して、《Double Nude》を描いてみようと思い立った。北斎の春画はデフォルメされているし、着物で肌が隠されているので、それを脱がせて、ヌードにしてやると、ひどくまともなDuetの裸体画になった。もちろん、誇張された性器は修正するが、修正したからといって、春画としてはともかく、ダブルヌードとしての面白さがなくなるわけではない。北斎漫画のデッサンの才能はそのまま北斎春画にも生きているわけだ。ダブル・ヌードといってもギリシア的な美しく均整が取れた裸体画ではない。あくまでも、人間への愛と優しさに満ちた『北斎漫画』の世界だ。ニョウボの線と北斎の線が共振して、新しい世界が誕生した。

『春画』は西欧のエロティックな絵画とは別のものだ。春画がいくら芸術的な作品だといっても、不特定多数の客を相手にする出版業である限り、ポルノグラフィーには違いないけれど、西欧のポルノグラフィーのようなエロティックなものではない。西欧のエロティックな作品にはピカソやヤンセンなどの「ポルノグラフィー」とは区別された「エロチカ」がある。エロチカと春画の違いを一言でいえば、エロチカは神話や文学を題材にすることが多く、性は基本的に男と女の争いなのだ。なかには物語の挿絵として「レイプ」の場面もある。それに対して、春画の性は争いではなく、お互いに楽しむものであり、書き入れを読めば、男女の間に闘争はなく、どちらかと言えば、女のほうが主導権を握った「遊びの世界」である。女が男を叱咤激励しているものも多い。もっとも、女が強いというのはフランスの艶笑譚の世界も同じだろうし、そのまま受け取る訳にはいかない。しかし、西欧の宗教的禁忌が強い世界で、芸術家の性的倒錯の危険を犯した作品ともなれば、そこにはやはりいかほどかの覚悟があるだろうし、どこか暗鬱で孤独な雰囲気があるように思われる。

「北斎春画」は「北斎漫画」の別冊付録のようなもので、森羅万象を描いた『漫画』には唯一欠けている「性」が描かれている。北斎春画の世界は決してエロティックな世界ではない。そこには人間の生きる歓びが描かれている。マチスの《La joie de vivre》の世界だ。『北斎漫画』の圧巻は江戸という都会の普通の人々の生活を写生したもので、まことに、北斎はボードレールが『美術批評Ⅱ』で書いた『現代生活の画家』、すなわち、モデルニテの画家なのだ。北斎春画の「書き入れ」を日本文学研究者のリチャード・レイなどはせっかくの浮世絵の芸術性をだいなしにしているというが、春画はサブカルチャーであって、ハイアートではない。

エロティスムはタブーから生まれるとしたら、性的タブーの希薄な江戸にエロティックな芸術が生まれなかったのは道理だ。明治になって、さまざまなタブーが出来たが、「ポルノグラフィー」はあるが「エロチカ」はないという状況がつづき、またぞろ、『大英博物館』の権威と、今度は『永青文庫』のおまけまで付けて、「春画は芸術だ」と美しい歌麿のポスターで女性客を集めている。

西欧流のエロティスムを探求している例外的な作家が会田誠だ。会田さんの驚嘆すべきところは、一方で、SMや反フェミニズムの作品を描きながら、他方では、チャイルド・ポルノに誤解されるような「美少女画」を描いて欧米人を挑発していることだ。今のところ相手にされてはいないようだが、日本の現代美術家が海外で認められるために、「戦略的ジャポニスム」しか方法がないなかで、あくまでも日本の近代絵画の伝統を受け継いで、日本画と洋画の総合を目指す会田誠の孤独な戦いに思いを致すのも悪くはない。

会田誠は「北斎中毒」というほどに、北斎の模写に熱中した時期があるという。ニョウボは《北斎春画オマージュ》を終えて、想像で春画を描く練習を始めた。




                                                                            

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2016.01.27[Wed] Post 18:30  CO:0  TB:0  北斎  Top▲

草刈ミカの《デコレーション絵画》  -前編-

マチスは絵描きになるなら舌を切れ、そうすれば絵を描くことでしか自分を表現できなくなるといった。しかし、そう言ったマチス自身が『画家のノート』という名著を残している。

現代美術は作品だけでは評価されない。理論といっしょになって、初めて作品になる。その理論を提供してくれるのが、美術評論家であり、学芸員である。近頃では哲学者が、理論なら任せろとばかり、絵も見ずに口先介入をするようになった。そうなれば、作家の方も理論に合うような作品をつくるようになる。さらには、そんなまだろっこしいことはやめにして、理論も自分で作ろうと、評論家を兼業する作家がふえている。

そんな中で成功したのが草刈ミカだ。草刈ミカは評論家に人気がある。鍵語をたくさん使って話してくれるからだ。セカイ系、反フラット派、色彩と線描とマチエールのアクロバティックな同居、グリッチ、画中画、凹凸絵画などなど、「絵の具のマインドコントロール」なんて名コピーである。

草刈ミカの幸運は、中ザワヒデキと出会ったことだ。中ザワヒデキは「色はビットマップで、線はベクター」と画像ソフトのアルゴリズムを持ち出すデジタル派である。「アナログ」の絵具で描く草刈ミカと、画像の「デジタル」処理をする中ザワヒデキとは対立すると思うのだが、二人とも評論家と作家を兼業しているので、そこは、お互い補完しあって、相乗効果があるのだろう。

もう一人、草刈ミカ論を書いている評論家に飯盛稀がいる。彼の美術評論はとくべつ難解だ。しかし、素直に読むと、彼の方法は、かって流行った「構造主義」との類似を感じる。象限、鉛直と水平、+と-など、二項対立らしきものを探して、それを組み合わせて、一覧表を作っているけれど、何か有意義な結果がえられるわけではない。

藤枝晃雄は「見ることと知ることの倒錯」を戒めている。絵画とは理論ではなく、「知覚に基づいた想像」であり、平面上に絵具で描かれた線や色や形を知覚して、それに〈類似〉した「主題」を想像している(自由な想像ではない)。具象的な主題もあるし、抽象的な主題もある。どちらにしろ、草刈ミカが言うように、絵具はアナログ的な物質であり、キャンバスの平面に絵具で描かれた「図像客体」を知覚して、その図像客体に類似した(アナログ)対象(図像主題)を想像するのが絵画である。批評はなによりも、作品を見る(知覚する)ことからはじめなければならない。(『知覚と想像の分離』についてはココ)

『凹凸絵画』に惹かれたのは、チューブから絞り出したような「絵具の紐」を見たからだ。いわば、ナマの絵具、画材としての絵具を見たわけだ。「絵具の紐」は、妙に生々しく、エロチックでもある。この「絵具の紐」は知覚された三次元の物質であり、想像されたイリュージョンではない。一言でいえば、それは絵画ではない。そっくりな蝋人形と肖像画をくらべると、どちらの方が生きて見えるか。もちろん〈知覚〉で見る蝋人形より、〈想像〉で見る肖像画の方が生きいきとしている。それなら「絵具の紐」は知覚しているのに、なぜ、そんなに魅力的に見えるのだろう。


柿栖恒昭(『現代絵画の再生』Kindle)は、生のマチエールあるいは絵肌の素材感を「素材表現」と名づけ、その例として、ジャスパー・ジョーンズの《星条旗》や《標的》をあげている。ジョーンズは、《星条旗》や《標的》など、身の回りのものを描いてはいるが、ポップ・アーティストではない。ジョーンズの絵画はキャンバスに「絵具のかたまり」がたくさんぬられているけれど、それらが対象を構成することはない。絵具は色彩とはならず塊のままばらばらに散らばっている。絵具の塊を強調するためにジョーンズは絵具に蜜蝋を混ぜて、星条旗や標的や数字の輪郭線の囲いの中に「設置」(placement)する。彼はこれまで誰もやったことのない「素材表現」をする現代美術家なのだ。

「素材表現」を理解するには、絵画より彫刻のほうが分かりやすい。たとえば、ジョーンズの《ビール缶》は「素材表現」の作品なのだ。



《ビール缶》には、絵具のかたまりのかわりに、ブロンズのかたまりがある。眺めていると、触れたり押したり、持って見たくなる。この感覚が素材表現だ。写真でもこの触感を感じとることができる。しかし、はっきりと《ビール缶》の素材感覚を憶えているのは、『国立新美術館開館記念展』で、この《ビール缶》とジャコメッティの《ディエゴの胸像》をめぐって、ニョウボと言い合いをしたことがあるからだ。ニョウボは《ビール缶》になんの興味もしめさず、その代わり、《ディエゴの胸像》にはどうしても触りたいようで、しまいに私に触ってみろと言いだした。たしかにジャコメッティの彫刻は触覚的ではあるが、私がどうしても触りたくて、ムズムズしたのは《ビール缶》の方で、今でも、この写真を見ていると触れたくてムズムズしてくる。

『凹凸絵画』を見てみよう。この絵は離れて見れば、格子縞の模様が見えるけれど、近づいて見ると「絵具の紐」が見える。少し横から見れば、紐が波打っているのが見える。距離によって違って見えるのは桑久保徹の風景画()も同じだ。近づくとマチエール(物質的な絵具)が見え、離れるとパターン(格子模様)や図像(湖畔の風景)が見える。

近づいたときに見える「絵具のかたまり」は桑久保と草刈では違いがある。桑久保の絵具はかたまりになってはいるけれど、家具や電気製品や洗濯物の描写になっている。その意味では、ジャスパー・ジョーンズの《星条旗》や《標的》のような「素材表現」とはいえない。反対に、草刈の物質としての絵具は格子縞の三次元の太い線(紐)になっているのだから、絵具のかたまりとはいえない。しかし、どういうわけか、「素材表現」になっている。

これには、ちょっとしたレトリックがある。《凹凸絵画》の線は格子縞の長い、なめらかな線にもかかわらず、多くの論者は決まって「直接チューブから出した様な凹凸の絵具の線」という。チューブからそんな均一の長い紐が出せるはずもないけれど、「チューブから直接出した」といえば、それは画材(materials素材)ということになる。画材屋の広告には、チューブから絵具をニョロリとパレットに絞り出した写真を使っているではないか。

草刈ミカの表現技法の変遷は詳しく知らないけれど、現在の『凹凸絵画』の段階では、ジョーンズ、フランケンサラー、ルイスなどの素材表現の系譜につながるように見える。それは「格子縞の線」を「チューブから直接出したような絵具の紐」で「描く」という僥倖のお陰だ。格子縞がジョーンズの《星条旗》のストライプや《標的》の輪と同じ囲いの役割を果たしている。その囲いがそのまま絵具のかたまり(素材)になっており、これは、いわば『凹凸絵画』の「自己言及性」(W)ともいえるわけだ。

『凹凸絵画』は「パターン/デコレーション」から「抽象画」へと変化していくなかで、「チューブから直接出した(ような)絵具」という「物語」にいつまでも頼るわけにはいかない。実際には、口金の交換できる〈squeeze bag〉のようなものを利用しているけれど、企業秘密なのかもしれない。「格子縞」そのものはパターン(模様)だからイリュージョンは生まれない。「絵具の紐」は三次元の立体だから知覚が優勢で、想像は作動しにくい(高松次郎:注1)。おそらく、草刈ミカが今の方向を続けるなら、線による、オールオーバーで反造形的な抽象画になるだろう。そうだとすれば、『凹凸絵画』の「スクィーズ技法」が重要になる。スクィーズ技法で描かれた作品は『凹凸絵画』というよりは、むしろ『デコレーション絵画』がと呼ぶのがふさわしい。

抽象画のイリュージョン空間についてはグリーンバーグの「平面性」以来さまざまな議論がなされてきた。そして絵画はついに一切のイリュージョンを捨て、知覚するだけのドナルド・ジャッドのキューブ(ミニマル・アート)になり、さらにはそのオブジェさえ必要ないコンセプチャル・アートになった。このあたりのことは、『批評空間』の特集号『モダニズムのハード・コア』をめぐる論争に草刈中ザワがいかなる立ち位置にいるのか、詳らかにしないが、日本の現代美術家は、ほぼ全員がアンチモダニストだ。彼らは「抽象表現主義」と聞いただけで、逆上する。

草刈ミカの「デコレーション絵画」を技法からみると、モダニズムの抽象画の伝統につながる可能性がある。わたしは、抽象画を評価するために「描くことと偶然性」のスケールを使っている。これは美学の問題ではなく、抽象画の実践的鑑賞学だけれど、このスケールを使うと、絵がよく見えてくるのだ。今、私が一番高く評価しているのは、ジャクソン・ポロックの〈poured painting〉とゲルハルト・リヒターの〈squeezed painting〉の二つだ。

ポロックの「ポード・ペインティング」は、藤枝晃雄の「ポロック論」のキー・ワードで、アクションやドリッピングとはまったく異なる技法だということだ。リヒターの「スクィーズト・ペインティング」は私が、写真のプリントの水滴をこすり取る「スクイーザー」から命名した技法で、「描く」を減らし、「偶然」増やす技法だ。現在のところポロックのポーリングに匹敵する唯一の技法である。素材表現の視点から両者の技法を比較すると、ポロックの糸をひいたような細い線は、エナメル塗料の素材感がするし、リヒターの《Abstraktes Bild》の表面は擦られて出来た線やパターンというよりも、近作では、擦られてこびり付いている絵具の素材感のほうが強まっている。

この二人の技法と草刈ミカの「凹凸絵画」を比べたらどうなるだろう。すでにお気づきだろうが、草刈の『凹凸絵画』とリヒターの『アブストラクト・ペインティング』は同じ「スクイーズ技法」による絵画である。しかし、〈squeeze〉の言葉は同じだが、「絞る」と「擦する」では、意味が異なる。リヒターの〈squeezed〉はポロックの〈poured〉との類縁性から命名したもので、草刈ミカの「スクイーズ技法」とは無関係である。

ポロックのポーリングも近くで見れば、エナメルやペンキの盛り上がりがあるが、適当な距離で見れば、物質感がなくなり、描かれた線が現れてくる。それに対し、草刈ミカのおそらく「絞り袋」(squeeze bag)による「デコレーション・ペインティング」は絵具の紐を「設置」(placement)しているだけなので、素材感が強く、その分、「描くこと」が少なく、想像が働きにくい。

ポロックの「ポーリング技法」は、画家が筆で支持体に触れない、注ぎながら垂らしながら描く。リヒターの「スクイーズ技法」は筆ではなく、スクイーザーで絵具を擦る。草刈の「絞り袋の技法」は筆を使わず、直接チューブから出したような絵具の紐をキャンバスの上に「設置」していく。三人とも筆は使わない。その代わり、ポロックとリヒターは「注ぐ」と「擦る」で描いている。草刈は絵具の紐を「置く」だけで、想像を作動させるような「描く」ことはしない。

何がなんでも、イリュージョンを排除しようという現代美術においては、草刈ミカの『デコレーション絵画』こそ可能性を秘めているのではないか。後編ではそのことについてできれば少し書きたいが、どうなるやら。たぶん・・・・・

前編おわり

注1:「高松次郎の『紐』と『線』」では草刈ミカの線について論じています。 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-959.html 

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.12.13[Sun] Post 14:05  CO:0  TB:0  草刈ミカ  Top▲

村上隆の《五百羅漢図》と《円相》 後編

前編〉からつづく


診療所の待合室にポスターが貼ってあった。



片岡鶴太郎が描いた「世界 糖尿病デー」の公式ポスターだ。普段なら気に留めないのだが、たまたま、村上隆の《円相》についてブログを書いていたので、興味をもって見た。《円相》については、すこし前に、以下のツィートをしていた。
鶴太郎は「画伯」と言われて馬鹿にされているが、セレブを高級ホテルに集めて、たらし込みの技法を教えていた頃からくらべれば、書はマーカーで書いたような字だが、ワザとらしさは少なくなっている。《円》も、大家になったつもりだろう、平凡さを恐れていない。鶴太郎の《円》は、白隠禅師の《一円相》を九十度右に回転させれば、ほぼ重なる。パクリではないかと悪口をいう向きもあるが、「悟りの境地」で円を書けば、似たようなものになるのは仕方がない。

「円相」は一種のアクション・ペインティングである。無の境地で円を書くのだが、鶴太郎の円は、どうも「悟り」の境地らしく書こうという雑念が邪魔している。もっとも、誰にでも書ける「円相」は元来はったりなので、白隠禅師の《一円相》といえども、美術作品としては、鶴太郎の円と違いはない。ただ、鶴太郎の付焼刃の芸談と、名僧白隠の有難い法話の違いがあるということなのだ。

ところが、村上隆の円は、そんな手で書いたような歪み、あるいは遊びがある円ではない。平面上のある点から等距離の点の集合である数学的な図形であり、我々の視線の自由を奪うような線だ。真円というのは、キャンバス表面にピタリと貼り付いて、絵画空間にいわばフタをしてしまう。我々の視線は中心から等距離の曲線上を、ただ滑っていくだけで、たとえ、絵具が垂れたり、スプレーがはみ出したり、かすれていたりしても、視線がそれらと自由に戯れることはない。

《五百羅漢図》も《円相》も「3.11」がテーマである。村上は人を救うために《五百羅漢図》を描いたという。また、《円相》が悟りによる自己救済だということも推察できる。宗教画なのだから主題はある。しかし、鶴太郎の「円相」とは異なる違和感を村上隆の《円相》に感じる。鶴太郎の違和感は、悟りの問題もあるが、それより、「世界糖尿病デー」のポスターに、なぜ、「円相」のデザインを使ったのか、という常識的な疑問だが、村上隆の「円相」の違和感はもっと深い絵画の問題を提起している。

円相とは一筆で円を書くアクション・ペインティングであり、円を垂直の線にすれば、李禹煥の《線より》になる。ところが、村上隆の《円相》は数学的な図形だから、アクション・ペインティングとはいえない。悟りも瞑想もない。雑念が入り込む余地さえない。いったい、なぜ村上は絵画空間を破壊するような数学的な円を、自分の愛している《花》や《ドクロ》の上に重ねたのか。

村上の「円」には何か暴力的なものを感じる。怒りと言っても良い。たぶん、それは「悟り」の拒否なのかもしれない。
















スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.11.29[Sun] Post 22:01  CO:0  TB:0  村上隆  Top▲

村上隆の《五百羅漢図》と《円相》 前編

『Murakami ー Ego』展がドーハで開催されたとき、現地で、村上隆、東浩紀、 『美術手帖』編集長岩渕貞哉の鼎談がおこなわれた。そのとき、東浩紀は、《五百羅漢図》はいままでと違ってメッセージ性があって素晴らしいと褒めた。メッセージといえば、もっともらしいが、古い宗教画に戻ったということだ。

村上隆と東浩紀の話で分かるのはそれぐらいで、二人の議論はかみあわない。東浩紀は3・11を原発事故の放射能汚染と考えている。村上隆は大津波の死者のことを考えている。前者は記憶に残すために『福島第一原発観光地化計画』を構想し、後者は祈りと鎮魂と救済のために100mの『五百羅漢図』を描いている。

東さんはチェルノブイリの観光地化を例にひくが、既に世界の聖地になった広島には触れない。原発と原爆の違いだろうか。原発は人間の知識技術のおごりで、原爆は人類の原罪だ。これは、科学と宗教の対立だが、第三の芸術の視点から見れば、《原爆ドーム》には廃墟の美学がある。木造は燃えてしまう。大理石は厳粛で美しい。しかし、鉄筋コンクリートのチープな廃墟にはキャンプな美しさがある。それを表したのが、会田誠のパルテノン神殿の真ん中から原爆ドームを突き出した《題知らず(戦争画RETURNS)》だろう。

東浩紀の《福島第一原発観光地化計画》は、「反核・反戦」デモと比べれば、目の付けどころがいい。広島は巡礼の聖地であり、観光地ではない。聖地の背後には「大きな物語」がある。観光旅行は名所旧跡を訪ね、景色を見物することであり、ここには、ポストモダンな「データベース消費」がある。

大きな物語派の村上隆とデータベース消費派の東浩紀が、お互いに気を使いながら褒め合っていれば、何がなんだか分からなくなるのはさけられない。そうではあるが、東浩紀には物体の作品がないのにくらべ、村上隆は日本の現代美術家としては、めずらしく、宗教的な主題画を描いている。「人を救うために」描いたという《五百羅漢図》は、その華やかな色彩と確かな線描、そして完璧な仕上げは圧倒的な迫力がある。

《五百羅漢図》が3.11大震災が生んだ最大の傑作であることは間違いないにしても、眺めていると、何か漠然とした不満を感じる。それは、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画と比べるというような大袈裟な話ではなく、たとえば、この絵を「五百人の肖像画」と考えたとき、禿げてるのかヒゲはのばしているのか、歯が何本残っているのか、太っているのか痩せてるのか、という違いはたしかにあるのだが、そんな違いにもかかわらず、みんな同じに見える。写楽が描いたような近代的な肖像画の魅力がないなんて言うつもりはないけれど、羅漢がみんな同じに見えるのは、たぶん線が単調だからではないか。顔のシワも衣類のシワもどれもみんな波打つてる。「奇想の系譜」ということかもしれない。

主題や線のほかに、もう一つ《五百羅漢図》をダメにしていることがある。それは、《五百羅漢図》のメーキング・ビデオと奈良美智の「作業風景」(『奈良美智の線』)を比較すれば分かる。奈良は写楽の肖像画にまなび、一人で浮世絵の絵師、彫師、摺師の仕事を兼ねている。それに対して村上はPCやシルク・スクリーンを使い、「グラッシ」をかけて、紙やすりで磨き、手作業の痕跡を消して仕上げをする。古典画のように絵画の物理的表面を隠している。

もちろん、古典画のイリュージョニズムが好きな人もいるだろうし、モダニズムの「知覚と想像」の弁証法的緊張が好きな人もいるだろう。近頃しきりに言われる「奇想の系譜」とか「へんな美術史」というのはグリーンバーグのモダニズムの「知覚」と「知覚に基づいた想像」の弁証法ではなく、図解(イラスト)されたものが、現実的か非現実的かという違いである。「奇想の系譜」とか「へんな美術史」をもてはやすのは、芸術の退廃であり、ひいては「絵画の忘却」に至るおそれがある。

《五百羅漢図》はストリート・アートの力作ということで、しばらくは、様子見で、世間の評価を待つことにする。それより、もう一つの村上隆の個展《円相》は、もっと重要な絵画の問題を提議している。

後編につづく
                                                                          

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.11.25[Wed] Post 22:05  CO:0  TB:0  村上隆  Top▲

ジェフ・クーンズのいさぎよさ


ジェフリー・ダイチは、ウォーホルはキャンプで、ジェフ・クーンズはキッチュだと言う。

上の写真の真ん中に大きなイルカのビニール玩具があり、そこに下着姿の女性が跨っている。人と戯れるイルカは癒し系のキッチュだろうし、下着姿の女性もピンナップガールの定番だ。《Gazing Ball》 と同じ、クーンズお得意のDouble Kitschになっている。

会田誠の《滝の絵》の少女はクリスチャン・ラッセンのイルカで、滝は日本の懐かしい田舎の風景だと会田自身が言っている。そうであるなら、これもダブル・キッチュということになりそうだが、そうはならない。二つのキッチュが合わさって一つの癒やしの風景になっている。「大衆に媚びを売って女々しいイラストまがいの絵」と、会田が言うとおりかもしれないが、キッチュとは少し違うような気がする。確かにイラストまがいではあるが、まぎれもなく、会田誠の少女になっているからだ。

一方、村上隆の作品はキッチュを利用したものが多い。《マイ・ロンサム・カウボーイ》がそうだし、《フラワー》シリーズはキッチュそのものだ。近作の「五百羅漢図」や「円相」は現代的な装飾性が加味されているけれど、本来、kischyな主題だ。羅漢は仏教の聖人だし、円は書の悟りなのだが、そのままでは、ただの古風なジャポニズムであり、現代美術の戦略的ジャポニスムとしては弱い。(注)

村上隆のキッチュにはクーンズのいさぎよさがない。戦略的ジャポニスムはどうしても屈折したところが必要になる。その点、クーンズはアメリカン・ポップだから鷹揚にかまえていればよい。

クーンズのいさぎよさは、上の写真作品の落書きに良く表れている。最初に見たときは何が描かれているか分からなかったが、何度か見ているうちに女性器のイタズラ書きだとわかった。日本で言えば東京都の紋章に似た女性器の落書きだ。会田誠の《ミュータント花子》の男性器や女性器は、ヘタウマであって落書きではない。『マイクロポップ展』の有馬かおるの《ムンクはさけべおれはがまんする》は、股間を勃起させた全裸の男なのだが、明らかに便所の落書きのパロディ(ハイアート化)になっている。

有馬かおる自身が、芸術の本質は落書きだと言っている。ハイカルチャーとサブカルチャーに差異はないというポストモダンのお約束なのだろうが、新聞紙のちぎったものを支持体にしたり、男の足首を鎖に繋いだり、キャプションにムンクを持ちだしたりと、何かとハイ・カルチャーめかしているのは、アート後進国の日本としては致し方のないことか。このままでは、日本の現代美術は、ジェフ・クーンズのアメリカンキッチュに永遠にかなわないだろう。


注:村上隆の《円相》シリーズは、悟りを意味する禅の書画だが、その中に、仏教の「九相図」とキリスト教の「メメント・モリ」が含まれている。

スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.11.18[Wed] Post 17:05  CO:0  TB:0  ジェフ・クーンズ  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。